「ねえねえ誰か、毛虫をとってきてちょうだい!」



ここは花の都、東の三条大路。


今を時めく大納言どのの立派なお屋敷。



その奥深くに、鈴のように軽やかで可憐な声が、明るく響きわたる。


声をかけられた男童たちは「またですか?」と呆れたように振り向いた。



まわりでお仕えしていた侍女たちが、「きゃあ」だの、「いや、こわいわ」だの、「逃げましょう」などと騒いでいる。



その中心にちょこんと座っているのは、大納言の五番目の姫君、成人の儀を終えたばかりの胡蝶姫である。



「あら、なんで嫌がるの? 毛虫ほど可愛らしい生き物はいないのに」



恐れおののいている侍女たちに向かって、胡蝶は不満げに唇を尖らせた。


それから、くるりと振り向いて、縁側に鈴なりになっている男童たちに声をかける。



「お前たち、早くとってきてちょうだい。いちばん立派な毛虫を持ってきてくれた人に、唐菓子をあげるわよ」



男童たちは目を輝かせ、いっせいに庭へと駆け出していった。


女たちの恐慌が絶頂を迎える。



「きゃああ! 早く逃げなきゃ、またこの部屋は虫だらけになるわよ!」


「いやっ、待って、置いていかないで!」



胡蝶はさらに不満そうな声を上げた。



「ねえ、だれか一緒に虫を観察しましょうよ」


「ごめんなさい姫さま、それだけは無理でございます! どうかお許しくださいませ!」




ぽつんと一人とり残された胡蝶は、ぷうっと頬を膨らませた。



「みんな、どうして毛虫を嫌うのかしら? ふわふわして、もこもこして、蝶ちょなんかよりずうっと可愛いのに」



大好きな毛虫の愛らしさを誰にも理解してもらえず、さみしさにため息がもれる。


しかし、続々と庭から戻ってきた男童たちが手に手に捧げもっている毛虫たちを見ると、ぱあっと顔を輝かせた。



「まあまあ、今日はたくさん毛虫がいたのね! さあ、この中に入れてちょうだい」



胡蝶はにじにじと縁側に寄っていき、外からの視線を遮るために下ろされている御簾の陰から、ずいっと虫籠を差し出した。


男童たちが次々に寄って来て、ぼとぼとと毛虫を入れていく。



「あっ、今のはとても大きかったわ! だれがとってきたの?」


「おれです、竹丸です!」


「じゃあ、唐菓子は竹丸にあげるわ」



竹丸は「やったあ!」と拳を握った。


まわりの男童たちがうらやましげに竹丸を見る。



御簾ごしにそれを見てとった胡蝶は、「しかたないわねえ」と呟き、盆にのせられていた水菓子を御簾の隙間から縁側へ押しやった。



「お前たちはこれを分けて食べなさいな」



おおっと喜びの声があがる。



「いいんですか? 胡蝶姫さま。これは姫さまの菓子ですよね?」


「いいのよ、私は。この子たちさえいてくれたら、お菓子なんていらないわ」



そう言って胡蝶は虫籠の中を覗きこみ、うっとりと目を細めた。




「ああ、本当に可愛いわねえ」



虫籠の中では、黒々とした毛虫たちがもぞもぞとうごめいている。


虫を触るのには抵抗がない男童たちも、さすがにその光景にはぞわぞわと背筋が寒くなった。



「今日はこんなにたくさん毛虫がいるのね。ああ、庭に出てこの目で見たいわ。ねえ、私もそっちへ行っていいでしょう?」



胡蝶が物欲しそうに、薄暗い御簾の内側から、明るい陽射しの溢れる外へと目をやる。


男童の一人が「それはおやめください!」と慌てた。



「姫さまと一緒に庭にいるところなど見とがめられたら、おれたちがえらい目にあいます。どんなに厳しく叱られることか………」



そのおびえた様子を見て、胡蝶は諦めの吐息をもらした。



「まったく、貴族の娘なんてつまらないわね」



外を見つめながら脇息にもたれ、嘆かわしい声をあげる。



「せっかくこんなにいい天気なのに、毛虫もたくさん出て来ているっていうのに、外にも出られないなんて。

ああ、私、一生こうやって御簾の内側に閉じこもって過ごさないといけないのかしら?」



どんよりと気持ちが沈みこんでいくのを感じて、胡蝶は自分を励ますために、大好きなものに囲まれることにした。


えいっというかけ声とともに、虫籠をひっくり返したのである。



「きゃああっ、姫さま、なんてことを!」



持ち場を離れるわけにもいかず、衝立や几帳の陰から胡蝶の様子を窺っていた侍女たちが、いっせいに悲鳴をあげた。



もぞもぞと四方八方に這い出す毛虫たち。


甲高い叫び声をあげながら逃げ惑う侍女たち。



異様な光景だが、このお屋敷では日常茶飯事である。



「まあ、あなたたち、そんなに大声で叫んで走り回って。品がないわよ。はしたないわ」



自分のことは棚にあげて、胡蝶は忠告をする。


しかし、誰ひとり聞いていなかった。


なんとか毛虫から遠ざかろうと必死で、それどころではないのだ。



胡蝶は肩をすくめて、床に視線を落とした。



「ああ、毛虫ちゃん、なんて可愛いの。幸せ……」



まわりをうろつく毛虫たちのこまごまとした動きを見て、胡蝶はうっとりと頬に手を当てた。


しばらくすると、廂をどすどすと歩いてくる足音が聞こえてきた。



「なんの騒ぎだ?」



姿を現したのは、胡蝶の父、時の大納言である。



「ああ、胡蝶よ……またやっているのか」



大納言は盛大なため息を吐き出した。



「まったくお前は、本当に困った娘だ」



胡蝶はにっこりと笑って、



「お父さま、ごきげんよう」



と父にあいさつをした。


御簾ごしに朗らかな声を聞き、大納言は目尻を下げる。


何だかんだで、やはりこの天真爛漫な娘が可愛くて仕方ないのである。




胡蝶は母親に似てよく整った愛らしい容姿をしており、すでに嫁にいった四人の姉に比べて、かなりの器量よしである。


頭の回転も早く、才気煥発。


毛虫を愛しすぎているところを除けば立ち居振舞いにも気品があり、

いつか妃として帝に献上したいものだと父大納言は考えているのだ。



「………せめて化粧や眉の手入れ、お歯黒くらいちゃんとしてくれたらなあ」



大納言の嘆きを聞いて、胡蝶は眉を上げた。



「まあ、お父さまったら。お化粧なんて興味ないわ。私、外見なんてどうでもいいんだもの」



むくれて横を向いた胡蝶の顔は、ふつうの貴族の姫君とはかけ離れた容姿をしていた。



成人女性たるもの、素顔でいるなどというのはありえない、というのが世間の常識である。



髪は椿油と櫛で丁寧に手入れをして、長く長く伸ばすもの。

髪が長ければ長いほど、多ければ多いほど美人だからだ。


それにつやが加われば、言うことはない。

洗うだけ洗って、布で拭きもせずに自然乾燥させ、櫛も通さないなど、考えられない。



眉毛は全て抜いて、真っ白に白粉を塗りこめて額の中央に眉墨をつける。


それにより色白の滑らかな肌を強調するのだ。



歯は鉄漿(かね)で黒く染めるもの。


白い歯を見せて笑うなどということは、はしたないこと限りない。



そうやって引き眉とお歯黒をすることで、自分は結婚できる年齢の成熟した女性なのだと男に知らせるのである。



そんなことは、わざわざ教わらなくても女性ならば誰もが知っているほど、当たり前のことだった。



それなのに、胡蝶ときたらーーー。



眉は素のまま、ぼさぼさ生やしたまま。


「だって、眉毛を抜くなんて痛いじゃないの。剃るのは怖いし」



お歯黒も、母親や侍女たちが何度言い聞かせても、絶対につけてくれない。


「歯を黒くするなんて面倒くさいし汚らしいし、鉄漿はくさいし、絶対に嫌だわ」



髪も伸ばさずに、腰のあたりまで伸びたら自分で切ってしまう。


「だって、絡まって嫌になっちゃったのよ。邪魔だし。え? 櫛? そんな手間のかかること、毎朝やってられないわ。時間がもったいないもの」



せめて白粉と口紅くらいは、と懇願してみても、


「人はねえ、ごてごて着飾って取りつくろったりするのは良くないと思うのよ。ありのままの姿がいいに決まってるわ」



………というわけで、取りつく島もないのである。



胡蝶はいつでも、白粉もつけないまま、真っ白な歯を見せて明るく弾けるように笑ってばかりいる。


そんな笑い方をすること自体がはしたないのだが、言ってどうにかなるような娘ではないことが父大納言にはよく分かっていた。




そこに、寺参りに行っていた胡蝶の母・北の方が侍女たちを引き連れて帰ってきた。



「あら、まあっ、毛虫! こんなにたくさん!」



北の方が悲鳴をあげる。



「お母さまったら、そんなに怖がることないのに。この子たちは何もしないわよ」



胡蝶が呆れたように声をかけた。