あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。

「うん……そうだね」






あたしは素直に頷いた。






「普通に学校行って、普通に授業うけて、普通に友達とおしゃべりして。

そういうの、失って初めて、すごくかけがえのない、ありがたいものだったんだって思う」






俯いて薄汚れたスニーカーの爪先を見つめながら、小さく呟くように言うと、彰がぽんぽん、と頭を撫でてくれた。






「………すぐに戻れるよ」






彰の言葉の意味がすぐには分からなくて、あたしは目を上げた。




彰は決然とした表情で真っ直ぐに前を向いている。





「日本軍がアメリカに勝てば、全て元通りになる。

みんな、百合も俺の妹も、昔のように学校に通えるようになる。


………俺が通えるようにしてみせるよ。

この命を懸けて」






それを聞いたとき、彰が以前、『特攻』という言葉を吐いたのを思い出した。





彰は、特攻をするつもりなんだろうか。




自爆テロみたいに、爆弾を積んだ飛行機で、自分の身体ごと敵に突っ込んでいくつもりなんだろうか。





ーーーなに、それ。



意味わかんない。






「………ばっかじゃない?」





気がついたときには、あたしはそう呟いていた。





「なんでそんなことしなきゃいけないの?


そんなことになるくらいなら、戦争なんか、初めからやらなければよかったんだよ」





言ってから、彰の気分を害してしまったかな、と思って、彰の顔色を窺う。




あたしはこういうふうに、思ったことをそのまま口に出してしまうという悪い癖がある。



相手の気持ちも考えずに。





でも彰は、少し苦い笑いを浮かべただけだった。






「………確かに、そうかもしれないな。

戦争なんて、やらなければよかったんだ。

たくさんの命を失って、たくさんの人を苦しめて………」






彰は悲しそうな声で語った。



彰も、誰か知り合いを戦争のせいで失ったりしたんだろうか。






「…………でも、始まってしまったからには、勝たなくてはならない。

負けてしまったら、これまで以上に日本は悲惨な状況になるだろう。


戦勝国に占領されて、何もかもを奪われて、兵士たちは捕虜となり、一般市民も奴隷のような扱いを受けてしまうんだよ。

俺の弟や妹も、百合もツルさんも………。


そんなことは、考えただけでも恐ろしくて仕方がない。


だから、そうならないためにも、俺たちは、日本軍は、何としてでも勝たなくてはならないんだよ」





彰の言葉には、一点の曇りもなかった。




ただ、強くて、真っ直ぐで、純粋だった。





誰かに言わされているとか、刷り込まれているとか、そんな感じは全くしなくて。




自分の頭でじっくりと考えて、答えを出したことなのだ、と伝わってきた。





だからこそ、あたしはなんだか、切ないくらいに…………腹立たしかった。





自分でも驚くくらいに低い声で、彰に向かって言う。






「………なにそれ、ぜんぜん分かんない。


他の誰かを救うためなら、誰かが死んでも構わないの?

誰かを救うためなら、自分の命を失ってもいいの?


………そんなの、おかしいよ。」






一気に言うと、彰は困ったように眉を下げた。






「………君の言うことも、理解できるよ。


でもね、今は、そうでもしなければ、この国を救えないんだ」






彰は幼子をあやすような手つきで、あたしの髪をくしゃくしゃと撫でた。




なんだか子供扱いされたみたいで腹が立って、あたしは「勝手に言ってろ!」と怒鳴って走り出した。






第一章 初夏




第3節 汚れなき瞳












それからもあたしは数日に一度、夜中にツルさんの家を脱け出して、防空壕で眠った。



目が覚めたら現代に戻っているんじゃないか、と期待して。




でも、何度そうしても、いつも目が覚めるのは1945年の世界だった。




他にどういう方法があるんだろう。



何も思いつかなくて、あたしは途方に暮れていた。





そうこうしているうちに、こっちの生活にもずいぶん慣れてきた。





「あ、百合! おはよう」





店の前で掃き掃除をしているあたしに向こうから近づいてきて声をかけたのは、近所の魚屋の娘さんで、毎日店に配達してくれる千代。





「おはよ、千代」




「今日も暑いねぇ」




「うん、暑いね」





遠いどこかでは激しい戦闘が繰り広げられているだろうに、同じ日本人がたくさんの命を失っているだろうに、


こんな普通の会話をしているのは、なんだか変な感じがする。





戦時中って、これまであたしが思っていたように、どこもかしこも真っ暗で、人々もみんな沈んだ顔をしてる、ってわけでもない。






たとえば。





「ねぇねぇ、百合」




「んー?」




「今日、石丸さんいらっしゃると思う?」





ほんのりと頬を紅潮させて、恥ずかしそうに訊ねてくる千代。




彼女は、この鶴屋食堂の常連さんである石丸さんのことが気になるらしいのだ。






「そうだねぇ、いつも日曜には彰……佐久間さんたちと一緒に来るから、きっと今日も来るんじゃない?」





「ふふっ、やった。

ねね、あとで、百合に用事があるふりして訪ねてきてもいい?」





「分かった、それまで石丸さんたち引き止めとくね」





「ありがと! あぁ、持つべきは友ね!」





こんなふうに、現代の人と変わらず、普通に恋をしたりしている。




だから、戦時中とはいえ、日常生活を送る人々の様子はあんまり違いがない。




まぁ、そこかしこに





『贅沢は敵』




『欲しがりません、勝つまでは』





………なんていうスローガンが書かれた貼り紙がしてあるのを見ると、自分が今、戦争をしている国にいるんだ、って実感するけど。






「お礼に、お掃除、手伝ってあげる」





嬉しそうに微笑みながらあたしのほうきを奪った千代に、何気なく訊いてみる。





「ねぇ、千代。

千代の学校も、授業は停止中なんだよね」





「へ? うん、そうだよ。

毎日工場で働いてる」





「………いやだな、とか、なんで? とか思わないの?」






あたしが呟くように言うと、千代はきょとんとした顔をする。




そして、はっきりと言った。






「兵隊さんは戦地で闘い、わたしたちは銃後を護る」






あたしが「なにそれ?」と言うと、「聞いたことないの?」と驚いたように目を丸くした。






「学徒動員の合言葉。


兵隊さんたちは、私たちのために命を危険にさらして戦ってくださってるでしょ?

私たち女子供はそれを直接お手伝いすることはできないから、工場で働くことで兵隊さんたちの応援をしてるの。


だから、ちっとも嫌だなんて思わない。

むしろ、みんな誇りだって思ってるよ」






戦争の手伝いをすることが、誇り?



そんな考え方は、どうしても、すんなりとは受け入れられない。




だってあたしは、現代で、『戦争は恐ろしいもの』、『二度と繰り返してはならない過ち』だと教えられてきたから。




それなのに、この時代の人たちは、戦争のことを悪いものだとはとらえていない。



1945年の初夏といったら、もう終戦目前で、戦況は日本が圧倒的に不利になっているはず。




でも、新聞などではずっと、日本が勝ち続けているように報じられていたんだって。




だから、誰もが『日本が敗けるはずはない』と信じているみたい。




国民みんなが一致団結して、報じられる戦局に一喜一憂して、日本軍を応援している。



まるでオリンピックか何かを観戦しているような印象を受けた。





結末を知っているあたしとしては、何と言えばいいか分からない。





掃き掃除を終えると、千代は大きく手を振りながら帰って行った。





その後ろ姿を複雑な気持ちで見送り、千代が持って来てくれた魚の箱を持って、あたしは店の中に戻った。





「ツルさん、お魚届きました」




「はいよ、ありがとね。冷蔵庫に入れといてちょうだい」





あたしは「はぁい」と返事をして、冷蔵庫という名のクーラーボックスに魚を移した。




朝のうちに買いに行って入れておいた氷の塊から、ひんやりとした冷気が放たれる。



外の熱気で溶けてしまわないように、すぐに戸を閉めた。





しばらくして、店の外からざわざわという人の気配がしてきた。




あたしは戸口まで行ってのれんをくぐり、外を確かめる。





「あ、百合ちゃん」





予想通り、基地の兵隊さんたちだった。




先頭を歩く石丸さんが笑顔で手を振っている。





あたしは「こんにちは」と挨拶をして、彼らを招き入れた。





ぞろぞろと中に入っていく兵隊さんたちの真ん中くらいに、彰がいた。





「百合、元気にしてたか」





彰がすれ違いざまにあたしの頭を撫でる。



すると後ろにいた兵隊さんたちが、「ずるいぞ佐久間!」と口々に文句を言った。





「百合ちゃんは俺たち皆の妹なんだからな?」




「そうだそうだ、一人占めするなよ!」





彰は「大人気だなぁ、百合」と微笑んで、





「しかし、最初に百合と知り合ったのは俺だからな。

俺には百合をひとり占めする権利があるのさ」





と、すこし自慢気に言った。





「小憎たらしい奴だなぁ、佐久間め」





そう言って彼らは笑い、あたしの頭を撫でながらのれんをくぐっていった。





年上の男の人たちに、こういうふうに可愛いがられたことのないあたしは、どんな顔をしていいのか分からない。





黙って撫でられていると、彰がぷっと噴き出した。





「………なに、彰」




「いや、ずいぶん困った顔をしているから、おかしくて。

珍しく褒められてしまった悪戯っ子のよう、といえばいいかな」






………また、子供扱いする。



あたしはむすっとして、「彰のばーか」と捨て台詞を投げつけ、彰を置いて店に戻った。




後ろで、くすくすと笑う彰の声を聞きながら。