あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。

基地の飛行場、滑走路が見えてきた。




自分の呼吸音がうるさい。




全身が痛い。





でもあたしは、行かなきゃいけない。




一分でも、一秒でも、早く。






滑走路にはもう、特攻機が一列に並んで、ゆるゆると動き出していた。





待って………行かないで。




まだ行かないで。




あと少しでいいから、待って。





滑走路の周りには、数え切れないほどの人が集まっていた。





特攻隊員に向かって敬礼をしているおじさん。



同じように一人一人に敬礼をする、幼い男の子。



涙を滲ませながら白いハンカチを振っているおばさん。



枝花を必死に振っている女学生たち。





その向こうで、特攻機の操縦席の中から、見送りの人たちに笑顔で手を振り返す隊員たち。



贈られた花束やマスコットを持ち上げて、何か言っている人がいる。





エンジン音がうるさくて、何も聞こえなかった。




唇の動きで、ありがとう、と言っているのが分かった。





隊員たちは真新しい軍服を着て、真っ白なマフラーを夏の陽射しに輝かせている。




それに負けないくらいの、明るくて屈託のない笑顔を輝かせている。






あたしは見送りの人波を掻き分けて、列の前に飛び出し、彰の姿を探した。





一機ずつ、特攻機が目の前を通り過ぎていく。




どの隊員も、本当に明るい笑みを浮かべていた。





隣にいたおばあさんが、





「なんと朗らかな………なんと勇ましい、あぁ、なんと神々しい……」





と呟いて、彼らに向かって手を合わせて拝み始めた。





「生き神さまだ………」





加藤さんの機が目の前を通った。




『一撃必沈』と墨書きされた日の丸の鉢巻きを額に巻いていた。





次に、石丸さんの機がやってきた。




見送りの列に向かって、いつもの弾けるような笑顔で手を振っていた。






そして、次に来たのは………






「………彰、あきらーーーっ!!」






あたしは声の限り、叫んだ。




届くか分からなかったけど、とにかくその名を呼んだ。






「彰! 彰! 彰!!」






周りの歓声やエンジンの音が、あたしの声を掻き消してしまう。




それでも、あたしは叫んだ。





大きく手を振って、彰、彰と呼んだ。





その声が届いたのかは分からないけど………彰の視線が、あたしの上にとまった。




驚いたように目を瞠ってから、彰は、あたしの大好きな優しい笑みを浮かべた。






彰は操縦桿を握っていた右手を外し、何かを掴んで、あたしの方に投げた。





訳も分からず、あたしは必死に手を伸ばして、それを受け取る。






ーーー満開の百合の花だった。





甘い香りがふわりと鼻腔をつく。





涙が溢れた。





あたしは顔を上げて、彰、と唇を動かす。




でも、もう声は出なかった。






彰はあたしに手を振り、穏やかで晴れやかな笑顔のまま、通り過ぎていく。






「彰………」






呆然と見送るあたしの前を、最後の一機が過ぎ去っていった。





前方で、先頭機がふわりと飛び立つ。




次の機も、その次の機も、それに続いていく。





とうとう、彰の機も、空に飛び立ってしまった。






「あきら………彰………っ!」






特攻機たちは空に吸い込まれるように飛び上がっていき、上空で編隊を組む。





そして、見送る人々の上を大きく旋回して、そのまま南の方へと向かっていった。





ーーーとうとう、行ってしまった。




きっと、もう二度と、彼らは帰って来ない。






遥か遠い青空に、


二度と帰らない空に、


黒い点のようになった特攻機たちがすうっと溶け込んでいくまで、



あたしは瞬きもせず、百合の花を握りしめながら、小さくなっていく機影を見つめていた。






ーーーその後、あたしの身体はぐらりと傾いで、地面に倒れ伏した。





そのまま、意識が消えた。






第三章 盛夏




第1節 真夏の夜の夢













「………まぶし……」





瞼に明るい陽射しを感じて、あたしは目を開けた。




ゆっくりと上半身を起こして、ぼんやりと周りを見る。






あれ………どうなったんだっけ?




たしか、飛行場で倒れて。



誰かが運んでくれたのかな………。





そう思った瞬間、掌に触れる湿った土の感触に気がついた。




ツルさんの家じゃない。




じゃあ、ここはどこ?





視線を巡らせると、光の洪水に目を射られた。





あまりの眩しさに、反射的に俯く。




しばらくして目が慣れたとき、あたしは自分の姿を見て息を呑んだ。





学校のジャージを着ている。





………え、なんで?



いつの間に?





ぱっと横を見ると、枕にしていたのは、学校のカバン。





おかしい。



ツルさんの家の押入れにしまいこんでいたはずなのに。





よろよろと立ち上がる。




光のほうへ歩いていくと、一気に視界が開けた。






「…………うそ」






掠れた驚きの声が出た。





そこには………モルタル外壁の一軒家や、マンションやアパートがあった。




見慣れた、懐かしい街の風景。





………現代に戻った………?






「うそ………うそ、なんで?


どうして? いつの間に………?」





あんなに戻りたかった世界のはずなのに、あたしは戸惑いを抑えきれなかった。



なんで急に、こんな………




もう戻れないと思い込んでいたし、心の準備が全然できていなかった。





呆然としながら、とにかく、静まり返った街並みの中を歩いていく。





そうしながらも、頭の中では70年前の世界のことばかり考えていた。






ツルさんにお礼を言っていない。




千代にお別れを言っていない。




そして………彰の手紙を読んでいない。





せっかく彰が書いてくれた手紙なのに、ツルさんの家に置きっ放しにしてきてしまった。





いちおうカバンの中やポケットの中を探してみたけど、もちろん入っていなかった。





驚きや後悔で混乱しながら、あたしは気がつくと自分の住んでいたアパートの前に辿り着いていた。





いま何時だろう、と思って、スマホを取り出す。




なぜか、充電は切れていなかった。





そして、表示された日付は………母親と喧嘩をして家を飛び出した日の、翌日。




朝5時半。




壊れているのかな、と思った。






ぼんやりと部屋の前に立つ。




無意識に鍵を取り出して、玄関を開けた。




その瞬間。






「…………百合!?」






奥のリビングから、母親が飛び出してきた。





ぼさぼさの髪、化粧の剥がれた顔。






「………このバカ娘!!」






母親は容赦なくあたしの頬に平手打ちをした。




久しぶりだったので、よけきれなかった。





かっと熱くなった頬を押さえて、母親を見る。





マスカラとアイシャドーで真っ黒になった目。




その目から………ぽろり、と涙が溢れた。




母親が泣くのなんて初めて見たから、思わず呆然としてしまった。




母親はぽろぽろ泣きながら、あたしを睨みつける。






「………いったいどこに行ってたのよ!!」






もちろん、戦時中の日本に行ってました、なんて言えない。




あたしは黙り込んで母親を見つめ返した。





「………ったく、本当に困った子ね。


探しに行ってもどこにもいないし………おかげで一晩寝れなかったわよ。


これじゃ仕事にならないじゃないの、どうしてくれるのよ!」






懐かしいお説教を聞きながら、あたしは首を傾げる。





………一晩寝れなかった?




一晩?






「え………ちょっと待って。


あたしがいなかったの、一晩だけ?」






ぽかんとしながら訊ねると、母親は「はぁ?」と怪訝な顔になった。






「なに言ってるの、百合。

頭でも打った?」






母親があたしのほうに手を伸ばし、確認するように頭を撫でる。




その仕草に、すこし驚いた。



母親がこんなふうに触ってくるのは、ずいぶん久しぶりな気がした。





気恥ずかしくなって俯く。




そのとき、母親の足が目に入った。




なぜか、足首のあたりまで泥だらけになっている。




よく見ると、リビングから続く短い廊下に、黒い足跡が無数に残っていた。





まるで、何度もうろうろと往復したような。





「………ちょっと、お母さん。足、汚いよ」





思わず指摘すると、母親がごつんと小突いてきた。





「うるさいわね!

あなたのせいでしょ!」





「え………?」





「百合がいつまで経っても帰って来ないから、街じゅう探し回ってたら、ドブにはまっちゃったのよ!

どうしてくれるの、全く!」






母親はそう言って、浴室に入って足を洗い始めた。





その背中に、ぽつりと問いかける。






「………探してくれたの? 一晩中?」





「………あたり前でしょ。

どんな馬鹿でも、いちおう娘なんだから」






そう言った母親の声は、かすかに震えていた。





気がついたら、涙が溢れていた。




どうも最近、涙もろくなってしまったようだ。





『泣き虫だなぁ、百合は』





笑いを含んだ彰の声が、ふと耳に蘇ってきた。





………行ってしまった彰。




南の空に消えてしまった彰。





もう、会えない人………。






涙が止めどなく流れる。




あたしはふらりと床に膝をついて、しゃくりあげた。





そして、目の前の背中に抱きついた。




母親が驚いたように振り向き、目を丸くしている。





一睡もせずに、ぼろぼろになってあたしを探してくれた、ずっと待ってくれていた………あたしのお母さん。




女手ひとつで育ててくれた人。




それなのにあたしは反抗してばっかりで、迷惑をかけてばっかりで、喧嘩ばっかりしていた。






「お母さん………ごめん。


今までごめん………」






泣きながらごめん、ごめんと謝っていると、お母さんが両腕を伸ばして、ぎゅっとあたしを抱きしめた。






「………お母さんこそ、ごめん。

イライラして、百合に当たってばっかで………嫌な思いさせちゃったよね。

本当にごめんね………」






鼻をぐずぐすいわせながら謝るお母さんを見て、笑いが込み上げた。





あたしたちって、結局、似たもの同士の親子なんだな………。






第三章 盛夏




第2節 消えない想い












当たり前のように、日常が戻ってきた。




70年前の世界から戻ってきて、すっかり素直になったあたしは、家でも学校でも、「まるで人が変わったよう」なんて言われた。





今までの自分は、つまらない反抗期だったんだな、と思う。




なんであんなに、何事に対しても苛々していたのか?



今となっては不思議でしょうがない。





当たり前のように学校に通えて、



きれいな青空をのんびり眺めることができて、



お腹いっぱいご飯が食べられて、



白いお米を茶碗に山盛りにできて、



たっぷりとお湯を張ったお風呂に入れて、



クーラーのきいた涼しい部屋でごろごろマンガを読んで、



夜遅くまで電気をつけていてもよくて、



空襲の恐怖に怯えながら浅い眠りについて、いつでも逃げられるように大事な荷物をまとめておく必要もなくて………




本当に幸せだ、と実感する。





あたしたちは、日常的に命の危機を感じながら生きたりする必要がない。





こんなに満ち足りた生活をしていて、あの頃のあたしは、一体なにが不満だったんだろう?





現代の日本は、本当に幸せだ。