あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。

不幸中の幸いで、鶴屋食堂のあたりには火事が及んでいなかった。




ツルさんの家も無事だった。





「百合ちゃん! 無事でよかった……!」




「ツルさんも………」





店から飛び出して来たツルさんが、ぎゅうっとあたしを抱きしめる。




そのあと、真っ黒になっているであろうあたしの顔を見て、「火にまきこまれたのかい?」と目を丸くした。





「うん、途中でちょっと………彰が助けてくれたから大丈夫だった」





あたしがそう言うと、ツルさんは彰に何度も頭を下げた。





「ありがとうねぇ、佐久間さん」




「いえ、そんな………百合は俺にとっては妹みたいなものだから」





また、『妹』。



少しむっとしていると、ツルさんがあたしの肩に手を置いた。





「怖かっただろ、ごめんねぇ………」




「えっ、なんでツルさんが謝るの?」




「私がお使いなんか頼んだから………」





あたしは慌てて「そんなことない!」と首を振った。




そして、はっとした。




いつの間にか、お米の入った風呂敷包みがなくなっていたのだ。





うそ………どこで? いつ?





彰に助けられたときには、まだ確かに持っていた。



彰に背負われているときも、一度風呂敷をほどいてきちんと身体に巻きつけておいたはず。





でも………そこから先は?




火の海の中を移動しているとき、あたしは周りの恐ろしい光景に目を奪われて、風呂敷のことをすっかり忘れてしまっていた。




小学校ではどうだった?




地獄のような凄惨な状況で混乱して、包みを持っていたかどうかなんて、まったく覚えていない。






「………ごめん、ツルさん、お米………」





あたしは泣きそうな声でツルさんに謝った。




申し訳なくて仕方がない。




ツルさんの大事な着物と交換した、大事なお米だったのに。





でもツルさんは、優しく笑って首を横に振った。






「なに言ってんの。

この際、お米なんてどうでもいいよ。

百合ちゃんの命が助かったことに比べたら、どうだって………」






震える声で言ったツルさんが、ぽろりと涙を溢したのを見て、あたしも思わず泣き出してしまった。






「ごめん、ごめんねツルさん………」





「百合ちゃんに何かあったら、親御さんに申し訳が立たないよ………」






70年後の世界にいるはずの母親の顔が浮かんだ。





喧嘩ばっかりしてたけど………



あたしのこと、娘じゃないって言ってたけど………





急にいなくなったあたしのこと、心配、してくれてるかな。





あたしはもう、あの時代には帰れないんだろうか。





最近はこっちの時代のことで頭がいっぱいで、生き抜くことに精一杯で、帰りたいと考えることも少なくなっていた。




でも、母親のことを思い出すと、急に、無性に懐かしくなった。




今頃、どうしてるんだろう。





あたしを一人で産み育ててくれた母親。



あたしのために泣いてくれるツルさん。



あたしを命がけで助けてくれた彰。





頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。




未来に帰りたいのか、ここに残りたいのか、自分でもよく分からなかった。





第二章 仲夏




第2節 星空の彼方












空襲で焼かれた町は、ひっそりと静まり返っていた。




あの日から一週間近くが経ったけど、

どこにも木材などの充分な物資などはなく、復興など夢のまた夢、という状態だった。



とにかく、みんな、家族全員が飢え死にせずに生活することだけで、精一杯。




あたしも、ときどき空襲の夢を見て、真っ赤な炎や死にゆく人々の残像にうなされながらも、なんとか日々を過ごしていた。






「………それでね、ちょうど家族みんな留守にしてたもんで。

命だけは助かったけどねぇ。


着物も家財道具も銀行の通帳も、ご先祖様のお位牌も、何もかも焼かれちまったよ………」






家を火事で失った常連客のおじさんが店にやってきて、途方に暮れたような顔でツルさんに話している。




ツルさんは「何て言ったらいいか……」と顔を曇らせた。






「まぁ、嘆いたってしようがないよ。

とにかく、通帳の再発行にも何ヶ月かかるか分からないって言われちまったからね、すぐに家を建て直すってわけにもいかないって。

住むところもないからね、嫁の実家に疎開することにしたよ」





「あら、そうですか。寂しくなりますねぇ………」





「本当だよ、何十年も暮らした町だからね、離れがたいけど、仕方ないね………」






おじさんは力なく笑いながら、そんなことを言った。




こんなに理不尽な目に遭ったっていうのに、何もかも『仕方ない』で済ませてしまう。




そんなの、受け入れちゃいけないのに。



どうして怒らないの?





この時代の人たちは、とにかく何でも『仕方がない』という言葉で黙って受け入れてしまう。




家を奪われても、大事なものを焼かれても、家族の命を奪われても。



死んでしまった家族の前で涙を流して嘆く人はたくさんいたけど、理不尽すぎる仕打ちに憤る人は一人も見なかった。




本当に、そう思ってるの?



『仕方がない』って?




大事な人の命が奪われたのに?





あたしにはどうしても理解できなかった。




………特攻隊に志願した、彰たちの気持ちも。




自分の命を『国のため』に犠牲にしなければならないことを、『仕方がない』で済ますどころか、


誇らしいとさえ考えているらしい彼らの気持ちが、理解できなかった。





そんなことをぼんやりと考えているうちに、最後の挨拶に来てくれた常連のおじさんが席を立った。





「百合ちゃんも元気でなぁ」




「はい。あの……お気をつけて」




「うん、ありがとねぇ」





手を振りながら去って行く後ろ姿を、ツルさんと並んで店の外で見送った。






「………どんどん人が減っていくね」





すっかり淋しくなってしまった町を見ながら、あたしは小さく呟いた。




ツルさんが「そうだねぇ」と悲しげに笑って頷く。





「まぁ、仕方ないよ」






空襲で家を失った人のほとんどは、建て直すお金も無くしてしまって、田舎の親戚の家へ移り住んでいった。





基地や武器工場などがなく、人家も少ない田舎には空襲もあまり来なくて、そういうところに逃げることを『疎開』というらしい。




それならみんな疎開すればいいのに、と思うけど。




慣れ親しんだ土地を出て、たくさんの友人と離れて、仕事があるかも分からない田舎に引っ越すというのは、なかなか決心のつかないことだ。




だからみんな、空襲の不安と闘いながらも、その場所に住み続けていたのだ。




そして、とうとう空襲を受けて、運悪く家を失ってしまった人は、仕方なく一時的に他の土地へ移り住んでいく。




「いつか必ずここに戻ってくる」と言いながら。





おじさんが帰ったあとの食卓を拭いていると、表が騒がしくなった。




今日は基地の訓練休みの日だ。



彰たちが来たんだと思って、あたしは外に飛び出した。





「彰! いらっしゃい」





笑顔で迎えると、彰と石丸さんが同時にあたしの頭を撫でた。





「おはよう、百合」




「百合ちゃん、彰だけに挨拶なんて、ずるいぞー」





石丸さんが子どものように唇を尖らせたので、あたしは思わず噴き出してしまった。






「ごめん石丸さん、いらっしゃい。他のみんなも」




「なんだよ、俺らはおまけか」




「あはは、ちがうって」





あたしたちは笑い合いながら店の中に入った。





彰たち五人はいつもの席に座った。




ツルさんが料理を皿に取り分けるのを手伝いながら彼らの様子をちらりと見たあたしは、何かが変だとすぐに気づいた。





彰たちはいつものように談笑している。




でも、何かがいつもと違った。




まとう雰囲気が、明らかに違った。






どきどきと心臓が高鳴る。



嫌な予感がした。





石丸さんがふざけて、


板倉さんがからかわれて怒った顔をして、


加藤さんが仲裁に入って、


彰がそれを見て明るく笑って、


寺岡さんは穏やかに見守っている。




いつもの光景。




でも、何かが決定的におかしかった。





ふいに会話が途切れたとき、笑みを浮かべたままお茶の入った湯呑みをじっと見つめる寺岡さん。




すっと俯いて、動かない板倉さん。




天井をじっと見つめる加藤さん。




いつもの微笑みで黙って店内を見渡す彰。





そんなみんなを見て、石丸さんがまた何か茶化すようなことを言うと、みんなが一斉に視線を戻して笑った。





そんな様子を見ていて、あたしの不安は急速に膨れ上がった。





………何かあったんだ。




でも、いったい何が?





まさか………でも、考えたくない。






あたしは必死で何食わぬ顔を作り、いつものように食事を運んだ。





でも………あたしの予感は、的中してしまった。




食事を終えた時、彰たちがゆっくりと立ち上がり、ツルさんとあたしの前で姿勢を正した。






「………出撃命令が出ました。


三日後の十三時です」






彰の静かな言葉を聞いた瞬間。






ーーー鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。






硬直するあたしの横で、ツルさんは小さく細い声で、






「おめでとうございます」






と頭を下げた。




彰たちは「ありがとうございます」と敬礼をした。






………なに言ってんの?




出撃命令でしょ?



特攻の出撃命令でしょ?



三日後の十三時に………死にに行け、ってことでしょ?





なんで、「おめでとう」、「ありがとう」なの?





俯いたあたしは、自分の右手がぶるぶる震えているのに気がついて、ぱっと左手で抑えた。




でも、左手も同じくらい震えていたので、何の意味もなかった。






吐きそうだった。




あたしは震える両手で口許を押さえ、何も言わずに店の外に飛び出した。