先生、近づいても、いいですか。

その瞬間。






ーーーふ、と、春川の能面みたいに白い顔が、綻んだ。






硬かった蕾が、そっと花開くように。





冷たい雪が、すっと解けるように。






俺は驚いて、目を瞠る。





春川は穏やかな、控えめな、ごく微かな笑みを浮かべて、俺を見上げていた。






その微笑みは、すぐに消えて。







「………委員の子が、今日もお休みだったので……」







校内のざわめきに消えてしまいそうな小さな声で囁き、春川は一枚の紙を俺に差し出してきた。







「………ん。ありがとな、おつかれさん」







俺は小さく頷き、それを受け取った。






春川はぺこりと頭を下げて、踵を返すと、足音も立てずに教室棟のほうに帰っていった。







ーーーやっぱり、不思議な雰囲気をもった生徒だ。






俺は小さな華奢な後ろ姿をしばらく見送ってから、職員室へと戻った。







『藤森先生観察日記2』







今日は、体育祭がありました。




普段の授業のときより、集合時間が早かったので、遅れてはいけないと思って、私はいつもよりも早めに登校しました。





校門をくぐると、グラウンドが見えます。




テントが建てられていて、体育科の先生たちが、ライン引きをしていました。




先生たちは、私たちの体育祭のために、私たちよりも早く出勤して、準備をしてくれているのだな、と思いました。





私は勉強も得意ではありませんが、運動はもっともっと苦手です。




だから、体育祭のときはいつも、少し憂鬱な気分になってしまいます。





ですが、こういうふうに働いてくださっている先生たちを見ると、私なりに一生懸命がんばって、精一杯楽しもうという気持ちになりました。






更衣室で体操服に着替えて教室棟に行きました。




まだ、生徒の姿はほとんどありません。





私のクラスの教室にも、まだ誰も来ていませんでした。





ひんやりと静まり返った教室で、自分の席に座り、私は読みかけの本を取り出しました。





しばらく夢中になって読んでいると、廊下の方から、ぱた、ぱたという足音が聞こえて来ました。





生徒用のスリッパとは少し違う音だったので、誰か先生が来たのだろう、と思いました。






足音が近づいて来たところで、私は顔を上げ、廊下側の窓を見ました。







現れたのは、藤森先生でした。







先生は、私の視線を感じたのか、ちらりとこちらに目を向けました。




そして、なぜか一瞬、動きを止めてから、






「………おう、春川。早いな」






いつもの笑顔に、ぱっと変わりました。





私は開いたままの本を机に伏せ、「おはようございます」と挨拶をしました。





先生は少し躊躇うような素振りを見せたあと、教室の中に入ってきました。






「いつもこんなに早く来てるのか?」






「あ、はい……」






もっとたくさん言葉を出したかったのですが、口下手な私は、それきり何も言えず、少し俯きました。






先生は、すこし困ったように頭を掻いたあと、







「………俺は、教室の見回り。


えーと、ここのクラスは、何も問題ないな?」






「あ、はい………」







先生は、「じゃ、オッケーだな」と頷いて、教室を出て行きました。






………本当は、もっとお話したかったんだけど。




私はいつも、うまく喋ることができなくて。




そんな自分に、呆れてしまいます。






再び本を手にとり、ぼんやりと黒板の上の時計を見ていると、8時が近づいてきたころから、クラスメイトたちがちらほらとやって来ました。






みんな、体育祭が楽しみなようで、仲良しの子たちと集まって楽しげにお喋りをしています。






うつむいて本を読んでいると、誰かが私の席に近づいてくる気配がありました。






「おっはよー、春川さん」






にこにこと声をかけてきたのは、いつもクラスの中心にいる、活発で明るい中西さんでした。






私は顔を上げ、「おはよう」と答えました。




声が小さすぎたかな、と不安になりましたが、中西さんは気にする様子もなく、笑顔のまま私を見つめています。






「春川さん、おだんごしてこなかったんだ?」






中西さんがそんなことを訊ねてきたのには、理由があります。




クラスの中でも目立つ、元気な女子たちのグループが、今日の体育祭を「おだんごデーにしよう!」と言っていたのです。





私ももちろんそのことは知っていたのですが、いつもと違う髪型をするのは恥ずかしいような気がして、結局そのままで登校しました。







「………あの、髪が、短いから……」







私がそう答えると、中西さんは「そっかー、ざんねーん」と言いながら、仲良しグループのところに帰って行きました。






私は昔から、中西さんのような華やかで明るい女の子と話すとき、どきどきしてしまいます。





地味で暗い私のことを、不快に思っているんじゃないかな、と不安になるから。





でも、このクラスの子たちは、私にも分け隔てなく接してくれるので、嬉しくなります。














グラウンド集合の時刻が近づいてくると、みんなが次々に立ち上がり、教室を出て行きます。




女の子たちは日焼け止めを塗るのに忙しいようで、すこし遅れ気味です。





私は肌が弱く、陽に当たるとすぐ真っ赤になってしまうので、日焼け止めは欠かせませんが、更衣のときに塗ってあったので、早めに教室を出ました。






ぱらぱらと生徒が整列を始めているグラウンドに行き、自分のクラスの列に並びます。






藤森先生は二年生の列の前のほうで、他のクラスの先生と談笑していました。




年配の先生たちと喋っているときの顔は、生徒に対するときとはまた違います。





背筋がぴんと伸びていて、表情も穏やかな笑顔でした。




社会人の顔だな、と私は思いました。







集合時刻のぎりぎりに、女子たちが生徒玄関のほうから集団でやって来ました。






藤森先生がそれに気づき、「お前ら遅いぞ、急げ!」と大きな声で言います。





女の子たちは「はーい、すみません!」と声を揃えて、急ぎ足で列に加わりました。






朝礼台のところにいた体育の杉浦先生が、「身だしなみを整えなさい」とマイクで言いました。





藤森先生は二年生の列の間を歩き、一人一人チェックをしています。





ときどき、シャツがズボンに入っていない男子などに、怒ったような顔をつくって、「直せ」と指示していました。






次は、私たちのクラスのチェックを始めます。






男子の列を見終わって、女子の列にやってきた先生は、驚いたような顔になりました。






「なんだお前ら、みんなして変な髪型して!」





「今日はおだんごデーなの!」






中西さんたちが嬉しそうに笑い、先生に向かってピースをしました。




すると先生は、睨むような目つきをします。






「お前ら、今日は体育祭だぞ!

そんなふざけた格好で走るつもりか!?」






「えー、いーじゃん別に!

おだんごは禁止されてないでしょ!」






「おだんごは百歩譲って見逃してやるとして………」







先生が、中西さんと菅原さんのおだんごをそれぞれ両手でつかみ、






「このチャラチャラした飾りもんは駄目だ!!

華美なシュシュは禁止だろ!」