その瞬間。
ーーーふ、と、春川の能面みたいに白い顔が、綻んだ。
硬かった蕾が、そっと花開くように。
冷たい雪が、すっと解けるように。
俺は驚いて、目を瞠る。
春川は穏やかな、控えめな、ごく微かな笑みを浮かべて、俺を見上げていた。
その微笑みは、すぐに消えて。
「………委員の子が、今日もお休みだったので……」
校内のざわめきに消えてしまいそうな小さな声で囁き、春川は一枚の紙を俺に差し出してきた。
「………ん。ありがとな、おつかれさん」
俺は小さく頷き、それを受け取った。
春川はぺこりと頭を下げて、踵を返すと、足音も立てずに教室棟のほうに帰っていった。
ーーーやっぱり、不思議な雰囲気をもった生徒だ。
俺は小さな華奢な後ろ姿をしばらく見送ってから、職員室へと戻った。
『藤森先生観察日記2』
◇
今日は、体育祭がありました。
普段の授業のときより、集合時間が早かったので、遅れてはいけないと思って、私はいつもよりも早めに登校しました。
校門をくぐると、グラウンドが見えます。
テントが建てられていて、体育科の先生たちが、ライン引きをしていました。
先生たちは、私たちの体育祭のために、私たちよりも早く出勤して、準備をしてくれているのだな、と思いました。
私は勉強も得意ではありませんが、運動はもっともっと苦手です。
だから、体育祭のときはいつも、少し憂鬱な気分になってしまいます。
ですが、こういうふうに働いてくださっている先生たちを見ると、私なりに一生懸命がんばって、精一杯楽しもうという気持ちになりました。
更衣室で体操服に着替えて教室棟に行きました。
まだ、生徒の姿はほとんどありません。
私のクラスの教室にも、まだ誰も来ていませんでした。
ひんやりと静まり返った教室で、自分の席に座り、私は読みかけの本を取り出しました。
しばらく夢中になって読んでいると、廊下の方から、ぱた、ぱたという足音が聞こえて来ました。
生徒用のスリッパとは少し違う音だったので、誰か先生が来たのだろう、と思いました。
足音が近づいて来たところで、私は顔を上げ、廊下側の窓を見ました。
現れたのは、藤森先生でした。
先生は、私の視線を感じたのか、ちらりとこちらに目を向けました。
そして、なぜか一瞬、動きを止めてから、
「………おう、春川。早いな」
いつもの笑顔に、ぱっと変わりました。
私は開いたままの本を机に伏せ、「おはようございます」と挨拶をしました。
先生は少し躊躇うような素振りを見せたあと、教室の中に入ってきました。
「いつもこんなに早く来てるのか?」
「あ、はい……」
もっとたくさん言葉を出したかったのですが、口下手な私は、それきり何も言えず、少し俯きました。
先生は、すこし困ったように頭を掻いたあと、
「………俺は、教室の見回り。
えーと、ここのクラスは、何も問題ないな?」
「あ、はい………」
先生は、「じゃ、オッケーだな」と頷いて、教室を出て行きました。
………本当は、もっとお話したかったんだけど。
私はいつも、うまく喋ることができなくて。
そんな自分に、呆れてしまいます。
再び本を手にとり、ぼんやりと黒板の上の時計を見ていると、8時が近づいてきたころから、クラスメイトたちがちらほらとやって来ました。
みんな、体育祭が楽しみなようで、仲良しの子たちと集まって楽しげにお喋りをしています。
うつむいて本を読んでいると、誰かが私の席に近づいてくる気配がありました。
「おっはよー、春川さん」
にこにこと声をかけてきたのは、いつもクラスの中心にいる、活発で明るい中西さんでした。
私は顔を上げ、「おはよう」と答えました。
声が小さすぎたかな、と不安になりましたが、中西さんは気にする様子もなく、笑顔のまま私を見つめています。
「春川さん、おだんごしてこなかったんだ?」
中西さんがそんなことを訊ねてきたのには、理由があります。
クラスの中でも目立つ、元気な女子たちのグループが、今日の体育祭を「おだんごデーにしよう!」と言っていたのです。
私ももちろんそのことは知っていたのですが、いつもと違う髪型をするのは恥ずかしいような気がして、結局そのままで登校しました。
「………あの、髪が、短いから……」
私がそう答えると、中西さんは「そっかー、ざんねーん」と言いながら、仲良しグループのところに帰って行きました。
私は昔から、中西さんのような華やかで明るい女の子と話すとき、どきどきしてしまいます。
地味で暗い私のことを、不快に思っているんじゃないかな、と不安になるから。
でも、このクラスの子たちは、私にも分け隔てなく接してくれるので、嬉しくなります。
◇
グラウンド集合の時刻が近づいてくると、みんなが次々に立ち上がり、教室を出て行きます。
女の子たちは日焼け止めを塗るのに忙しいようで、すこし遅れ気味です。
私は肌が弱く、陽に当たるとすぐ真っ赤になってしまうので、日焼け止めは欠かせませんが、更衣のときに塗ってあったので、早めに教室を出ました。
ぱらぱらと生徒が整列を始めているグラウンドに行き、自分のクラスの列に並びます。
藤森先生は二年生の列の前のほうで、他のクラスの先生と談笑していました。
年配の先生たちと喋っているときの顔は、生徒に対するときとはまた違います。
背筋がぴんと伸びていて、表情も穏やかな笑顔でした。
社会人の顔だな、と私は思いました。
集合時刻のぎりぎりに、女子たちが生徒玄関のほうから集団でやって来ました。
藤森先生がそれに気づき、「お前ら遅いぞ、急げ!」と大きな声で言います。
女の子たちは「はーい、すみません!」と声を揃えて、急ぎ足で列に加わりました。
朝礼台のところにいた体育の杉浦先生が、「身だしなみを整えなさい」とマイクで言いました。
藤森先生は二年生の列の間を歩き、一人一人チェックをしています。
ときどき、シャツがズボンに入っていない男子などに、怒ったような顔をつくって、「直せ」と指示していました。
次は、私たちのクラスのチェックを始めます。
男子の列を見終わって、女子の列にやってきた先生は、驚いたような顔になりました。
「なんだお前ら、みんなして変な髪型して!」
「今日はおだんごデーなの!」
中西さんたちが嬉しそうに笑い、先生に向かってピースをしました。
すると先生は、睨むような目つきをします。
「お前ら、今日は体育祭だぞ!
そんなふざけた格好で走るつもりか!?」
「えー、いーじゃん別に!
おだんごは禁止されてないでしょ!」
「おだんごは百歩譲って見逃してやるとして………」
先生が、中西さんと菅原さんのおだんごをそれぞれ両手でつかみ、
「このチャラチャラした飾りもんは駄目だ!!
華美なシュシュは禁止だろ!」