夜会の舞台となる迎賓館は、櫻子の想像よりもずっと立派な洋館だった。篝火が白亜の壁を照らし出し、夜でもその威容を明らかにしている。
櫻子は緋色のドレスをまとい、アップにした髪には花簪を挿している。胸元には小さなダイヤのネックレスが輝いていた。
隣に立つ静馬は一分の隙もないテールコートだ。大広間に一歩足を踏み入れた途端、周囲の人々が一斉に彼の方を振り向くのが分かった。特に女性陣の視線が熱い。
そんな静馬の隣に並んで自分はおかしくないだろうか、と櫻子は肩を丸めそうになる。だが、対する静馬は涼しい顔で、当然のように櫻子をエスコートした。
人の多い大広間を慣れた様子で歩き、とあるテーブルの近くで、ちょうど談笑を終えた男を呼び止めた。
「兄上、ご挨拶に参りました。妻を紹介させてください」
櫻子は男を見上げた。静馬から話を聞いていたが、実際に会うとずいぶんと大柄で威圧感がある人だ。櫻子はこわばった体を叱りつけ、稽古の通り、優雅なカーテシーを披露した。
「相良男爵家が長女、櫻子でございます。ご挨拶が遅れまして誠に申し訳ございません」
「いやいや、それは静馬が悪いのだから気にすることはない。こちらこそ、これからも弟をよろしく頼む」
一臣は表情を和らげ、櫻子に頷きかけた。ついで静馬に向かい、短くもはっきり告げる。
「大切にするように」
「——この上なく」
兄弟の間で強く視線が交わる。一臣はふっと笑って、肩の力を抜いた。
「ならば、良い」
失礼する、と言い置いて、一臣は立ち去った。何か大事な会話が交わされていたような気がして、櫻子は静馬を見上げる。彼は兄の背中を静かな目で追っていた。
「あの、静馬さま——」
「よう、静馬」
呼びかけたところで背後から別の男の声がして、櫻子はびくっとした。静馬は声の持ち主に心当たりがあるらしく、一瞬顔をしかめてから、この上なく綺麗な愛想笑いを作ってみせる。
「こんばんは、井上殿」
振り向くと、大柄な男が立っていた。人の良さそうな笑顔を浮かべ、静馬と櫻子を見比べている。
「なんだよそのご丁寧な挨拶は。奥さんの前だから猫被ってんのか?」
「櫻子、この男は井上剛志という。僕の同僚だ」
静馬がぶっきらぼうに紹介する。不躾、というより、親しさから許される雑さに見えた。櫻子は慌ててドレスの裾を軽く引いて挨拶した。
「は、初めまして。仁王路櫻子と申します」
「おお、あなたが噂の。こんなに美しい方なら、静馬が俺に紹介したがらないのも納得です」
「余計なことを言うな」
静馬は苦虫を噛みつぶしたような表情だ。小首を傾げる櫻子に、井上はひそひそと囁く。
「ここだけの話、静馬のやつ、職場で櫻子嬢の話をする割に、絶対に本人には会わせてくれないって評判なんですよ。面白半分ですが櫻子嬢の実在を疑われていたりして、今日の夜会じゃ伝説の櫻子嬢に会えるのを楽しみにしていたんです」
「聞こえてるぞ」
静馬が割り込み、しっしと井上を追い払った。
「連れと来ているんだろう。早く戻れ」
「はいはい。夫婦のお邪魔はしませんよっと。それでは櫻子嬢、お元気でお過ごしください」
井上は櫻子に向かって一礼し、人混みの中に消えていった。
「まったくあいつは……」
静馬がぼやいている。櫻子はその袖をちょいと引っ張った。
「どうかしたかな?」
「職場で私のお話をされているんですか? どんな?」
「……大したことではないよ」
「……」
「ああもう! 仕方がないだろう、僕だって浮かれることくらいある」
「浮かれたお話を?」
「……まあ、少しは」
静馬は顔を隠すように口元に拳を当て、あらぬ方を向く。それでも目元が赤く染まっているのがよく分かった。櫻子はくすくすと笑い出したいのを我慢しながら、静馬の腕に触れた。
「私は嬉しいです。静馬さまのお心の中に、私の居場所があるみたいで」
「……とっくにそうだよ」
静馬は櫻子の手に自分の手を重ね、拗ねたように唇を尖らせた。
「僕はたぶん、君の思う数百倍、君にまいってる」
「えっ?」
率直な言葉に、櫻子はうろうろと視線を彷徨わせた。その耳元に静馬が低く声を吹き込む。吐息が耳朶に触れた。
「頼むから、あまり軽率に僕を喜ばせるようなことを言わないでくれ。抑えが効かなくなる」
「ひぁっ……わざとやってますね?」
「お返しだよ」
晴れやかに笑う静馬を睨みつけ、櫻子は耳を押さえた。顔が熱い。けれど、ちっとも嫌な気分ではなかった。
こんなに楽しい時を過ごせるなら、夜会に来てよかった——。
そう思いかけたところで、櫻子の体が凍りつく。人混みの中、一人の少女から目が離せない。その少女はめざとく櫻子を見つけ、愛らしい笑顔を浮かべてつかつかと歩いてきた。
「こんばんは、お姉さま」
「深雪……」
リボンとフリルがふんだんにあしらわれたドレスをまとって、優雅に一礼するのは相良深雪。正真正銘、櫻子の妹だ。
静馬が櫻子の肩を抱く。完全に表情を消して深雪を見下ろした。
深雪はころころと笑い、鮮やかな鳥の羽根が飾られた扇子で口元を覆う。
「うふふ、お姉さまはずいぶんと大切にされているのですね。羨ましいことですわ」
「……何のつもりだ」
櫻子が口を開く前に静馬が応じる。今まで聞いたことのないような、怒りを秘めた響きだった。
だが、深雪は堪えた様子もない。大きな瞳を潤ませ、櫻子の両手を痛いほど強く握りしめてきた。
「私、お姉さまにずっと謝りたかったのだわ。ごめんなさい、実家ではあんなひどいことをして……でも本気じゃなかったのよ、許してね?」
思ってもみなかったことを言われ、櫻子は喉が塞がったようになる。深雪は言葉を挟む隙も与えず続けた。
「それでね、相良家はいま、お父さまが手を出した新事業に失敗して苦境にあえいでいるの。私の結婚持参金も出せないくらいに。そのせいで私には良い縁談が来ないのよ。お姉さまとお義兄さまの力で、金銭でも縁談でも、何か援助してくださいな」
「えっ……」
言い淀む櫻子に、深雪はずいと身を寄せる。目だけが笑っていない笑顔で言った。
「ねえお姉さま、血のつながった家族を捨てるなんて薄情な真似、しないわよね?」
深雪が顔を覗き込んでくる。瞳孔が開いた深雪の瞳は、穴のように真っ黒に見えた。吸い込まれそうなほどに。
「やめろ」
静馬がすばやく背後に櫻子を庇う。険しい目つきで深雪を睨めつけた。
「家同士の話なら、それなりに筋を通してもらおう。当主が出てくる正式な場が用意されれば、こちらも応じるつもりはある」
「そんな堅いことを言わないでくださいな。家族なのよ、私たち。助け合うのが当たり前じゃなくて?」
「これ以上、ここで話すことはない。お引き取り願おう」
ピシャリと撥ね付けられ、さすがの深雪も深追いは無駄と悟ったのか。忌々しそうに舌打ちして踵を返す。その姿はすぐに見えなくなった。
「——櫻子、大丈夫かな?」
優しく背を撫でられて、櫻子は我を取り戻した。自分がずいぶん浅く呼吸をしていたことに気づく。大きく深呼吸すると、やっと気分が楽になった。今さら体が震え出す。静馬に大切にされて、相良家のことなんか忘れたと思っていたのに。深雪に何も言えず、ただ庇われているだけだった。そして何より、深雪の言うことに頷いてしまいそうな自分が嫌だった。「家族」という魔法の言葉を出され、流されてしまいそうな自分が。
静馬がそっと櫻子の手を取る。手の甲に、深雪の指の形がくっきりと赤く残っていた。
「大丈夫だ」
静馬の手の温もりに涙がこぼれそうになる。いけない、せっかくの化粧が崩れてしまう。
「そのうち君の父から話し合いの場が設けられるだろうが、そのときには僕が話をつけてくるから。櫻子は心配しなくていい」
「でも、静馬さまにばかりご負担を……」
「負担なものか」
静馬は櫻子を見つめ、きっぱり言った。
「櫻子と僕は家族だろう。ならば、助け合うのが当然だ」
櫻子は緋色のドレスをまとい、アップにした髪には花簪を挿している。胸元には小さなダイヤのネックレスが輝いていた。
隣に立つ静馬は一分の隙もないテールコートだ。大広間に一歩足を踏み入れた途端、周囲の人々が一斉に彼の方を振り向くのが分かった。特に女性陣の視線が熱い。
そんな静馬の隣に並んで自分はおかしくないだろうか、と櫻子は肩を丸めそうになる。だが、対する静馬は涼しい顔で、当然のように櫻子をエスコートした。
人の多い大広間を慣れた様子で歩き、とあるテーブルの近くで、ちょうど談笑を終えた男を呼び止めた。
「兄上、ご挨拶に参りました。妻を紹介させてください」
櫻子は男を見上げた。静馬から話を聞いていたが、実際に会うとずいぶんと大柄で威圧感がある人だ。櫻子はこわばった体を叱りつけ、稽古の通り、優雅なカーテシーを披露した。
「相良男爵家が長女、櫻子でございます。ご挨拶が遅れまして誠に申し訳ございません」
「いやいや、それは静馬が悪いのだから気にすることはない。こちらこそ、これからも弟をよろしく頼む」
一臣は表情を和らげ、櫻子に頷きかけた。ついで静馬に向かい、短くもはっきり告げる。
「大切にするように」
「——この上なく」
兄弟の間で強く視線が交わる。一臣はふっと笑って、肩の力を抜いた。
「ならば、良い」
失礼する、と言い置いて、一臣は立ち去った。何か大事な会話が交わされていたような気がして、櫻子は静馬を見上げる。彼は兄の背中を静かな目で追っていた。
「あの、静馬さま——」
「よう、静馬」
呼びかけたところで背後から別の男の声がして、櫻子はびくっとした。静馬は声の持ち主に心当たりがあるらしく、一瞬顔をしかめてから、この上なく綺麗な愛想笑いを作ってみせる。
「こんばんは、井上殿」
振り向くと、大柄な男が立っていた。人の良さそうな笑顔を浮かべ、静馬と櫻子を見比べている。
「なんだよそのご丁寧な挨拶は。奥さんの前だから猫被ってんのか?」
「櫻子、この男は井上剛志という。僕の同僚だ」
静馬がぶっきらぼうに紹介する。不躾、というより、親しさから許される雑さに見えた。櫻子は慌ててドレスの裾を軽く引いて挨拶した。
「は、初めまして。仁王路櫻子と申します」
「おお、あなたが噂の。こんなに美しい方なら、静馬が俺に紹介したがらないのも納得です」
「余計なことを言うな」
静馬は苦虫を噛みつぶしたような表情だ。小首を傾げる櫻子に、井上はひそひそと囁く。
「ここだけの話、静馬のやつ、職場で櫻子嬢の話をする割に、絶対に本人には会わせてくれないって評判なんですよ。面白半分ですが櫻子嬢の実在を疑われていたりして、今日の夜会じゃ伝説の櫻子嬢に会えるのを楽しみにしていたんです」
「聞こえてるぞ」
静馬が割り込み、しっしと井上を追い払った。
「連れと来ているんだろう。早く戻れ」
「はいはい。夫婦のお邪魔はしませんよっと。それでは櫻子嬢、お元気でお過ごしください」
井上は櫻子に向かって一礼し、人混みの中に消えていった。
「まったくあいつは……」
静馬がぼやいている。櫻子はその袖をちょいと引っ張った。
「どうかしたかな?」
「職場で私のお話をされているんですか? どんな?」
「……大したことではないよ」
「……」
「ああもう! 仕方がないだろう、僕だって浮かれることくらいある」
「浮かれたお話を?」
「……まあ、少しは」
静馬は顔を隠すように口元に拳を当て、あらぬ方を向く。それでも目元が赤く染まっているのがよく分かった。櫻子はくすくすと笑い出したいのを我慢しながら、静馬の腕に触れた。
「私は嬉しいです。静馬さまのお心の中に、私の居場所があるみたいで」
「……とっくにそうだよ」
静馬は櫻子の手に自分の手を重ね、拗ねたように唇を尖らせた。
「僕はたぶん、君の思う数百倍、君にまいってる」
「えっ?」
率直な言葉に、櫻子はうろうろと視線を彷徨わせた。その耳元に静馬が低く声を吹き込む。吐息が耳朶に触れた。
「頼むから、あまり軽率に僕を喜ばせるようなことを言わないでくれ。抑えが効かなくなる」
「ひぁっ……わざとやってますね?」
「お返しだよ」
晴れやかに笑う静馬を睨みつけ、櫻子は耳を押さえた。顔が熱い。けれど、ちっとも嫌な気分ではなかった。
こんなに楽しい時を過ごせるなら、夜会に来てよかった——。
そう思いかけたところで、櫻子の体が凍りつく。人混みの中、一人の少女から目が離せない。その少女はめざとく櫻子を見つけ、愛らしい笑顔を浮かべてつかつかと歩いてきた。
「こんばんは、お姉さま」
「深雪……」
リボンとフリルがふんだんにあしらわれたドレスをまとって、優雅に一礼するのは相良深雪。正真正銘、櫻子の妹だ。
静馬が櫻子の肩を抱く。完全に表情を消して深雪を見下ろした。
深雪はころころと笑い、鮮やかな鳥の羽根が飾られた扇子で口元を覆う。
「うふふ、お姉さまはずいぶんと大切にされているのですね。羨ましいことですわ」
「……何のつもりだ」
櫻子が口を開く前に静馬が応じる。今まで聞いたことのないような、怒りを秘めた響きだった。
だが、深雪は堪えた様子もない。大きな瞳を潤ませ、櫻子の両手を痛いほど強く握りしめてきた。
「私、お姉さまにずっと謝りたかったのだわ。ごめんなさい、実家ではあんなひどいことをして……でも本気じゃなかったのよ、許してね?」
思ってもみなかったことを言われ、櫻子は喉が塞がったようになる。深雪は言葉を挟む隙も与えず続けた。
「それでね、相良家はいま、お父さまが手を出した新事業に失敗して苦境にあえいでいるの。私の結婚持参金も出せないくらいに。そのせいで私には良い縁談が来ないのよ。お姉さまとお義兄さまの力で、金銭でも縁談でも、何か援助してくださいな」
「えっ……」
言い淀む櫻子に、深雪はずいと身を寄せる。目だけが笑っていない笑顔で言った。
「ねえお姉さま、血のつながった家族を捨てるなんて薄情な真似、しないわよね?」
深雪が顔を覗き込んでくる。瞳孔が開いた深雪の瞳は、穴のように真っ黒に見えた。吸い込まれそうなほどに。
「やめろ」
静馬がすばやく背後に櫻子を庇う。険しい目つきで深雪を睨めつけた。
「家同士の話なら、それなりに筋を通してもらおう。当主が出てくる正式な場が用意されれば、こちらも応じるつもりはある」
「そんな堅いことを言わないでくださいな。家族なのよ、私たち。助け合うのが当たり前じゃなくて?」
「これ以上、ここで話すことはない。お引き取り願おう」
ピシャリと撥ね付けられ、さすがの深雪も深追いは無駄と悟ったのか。忌々しそうに舌打ちして踵を返す。その姿はすぐに見えなくなった。
「——櫻子、大丈夫かな?」
優しく背を撫でられて、櫻子は我を取り戻した。自分がずいぶん浅く呼吸をしていたことに気づく。大きく深呼吸すると、やっと気分が楽になった。今さら体が震え出す。静馬に大切にされて、相良家のことなんか忘れたと思っていたのに。深雪に何も言えず、ただ庇われているだけだった。そして何より、深雪の言うことに頷いてしまいそうな自分が嫌だった。「家族」という魔法の言葉を出され、流されてしまいそうな自分が。
静馬がそっと櫻子の手を取る。手の甲に、深雪の指の形がくっきりと赤く残っていた。
「大丈夫だ」
静馬の手の温もりに涙がこぼれそうになる。いけない、せっかくの化粧が崩れてしまう。
「そのうち君の父から話し合いの場が設けられるだろうが、そのときには僕が話をつけてくるから。櫻子は心配しなくていい」
「でも、静馬さまにばかりご負担を……」
「負担なものか」
静馬は櫻子を見つめ、きっぱり言った。
「櫻子と僕は家族だろう。ならば、助け合うのが当然だ」