パタパタ、とスリッパの音を立てながら旭に歩み寄ると、
「菜々。先に帰ろって言っただろ」
楽譜と睨めっこしている相手から、そんなことを言われる。
足を止めたぼくは右足を持ち上げると、履いていたスリッパを旭に向かって軽く投げてやった。
こつん、頭に当たったスリッパに旭が間の抜けた声を上げる。
「誰が菜々だ。間違えんな」
弾かれたように顔を上げた旭が、ぼくをただただ凝視してくる。
「英輔……お前」
「全然変わってないな。懐かしいよ。いつも、ここで練習していたっけ」
旭の側に落ちているスリッパを足に引っ掛け、右隣に腰を下ろす。
ぎこちない空気を払うために、旭が見ていた楽譜を手に取る。
それは見るからに上級者レベルの曲だった。
今のぼくにじゃ弾けそうにもない楽譜に、ついしかめっ面を作ってしまう。
「サボっている間に、旭とかなり差が開いたな。どんだけ上手くなっているんだよ。お前」
「上手くなんかねぇよ。ただ、やりたくてやっていたらできるようになっただけだ。すぐに英輔もできるようになるさ……なあ、右手首はもう大丈夫なのか? 手首を折ると握力が弱くなるって聞いたんだけど」
よく調べていると思う。
確かにあの事故でぼくの右手の握力は弱くなった。
右の握力は女子の平均より低いと思う。
リハビリをしても完全に取り戻すことは難しく、それなりに時間も要する。
だけどギターを弾けないわけじゃない。
ぼくは自分の右手に目を落とすと、
「弦を押さえるのは左だからな」
まったく支障はないと答えた。
「けど、フィンガリングとか……」
「フィンガリングに握力は関係ねーだろ。サボっていたせいで、上手く指が動かないことが多いけど、そんだけ。今は少しずつ感覚を取り戻していこうと練習中だよ」
柳達がギターを教わりたいとか言い出したから、教えられる程度までにレベルを戻したいと思っている。あいつ等は再来年にまたライブをする予定だ。
そして、今度は正式にぼくをメンバーに入れてくれるという。
というか、ほぼ強制だけどな。
拒否したところで、「弾けるくせに!」と、あしらわれて終わるだろう。
なにより、ギターを弾くことは嫌いじゃない。