「――卓…巳」


頭に浮かんだ名前を、そのまま音にしていた。


「水野?」


相手の口からも、かすかに声がもれたのを聞く。


驚愕のあまり視界がかすんだ。

目を何度もしばたたくけれど、そこにいるのはたしかに彼だった。



間違いない。

間違うはずがない。


かつて愛し合い――そしてわたしが裏切った人。



「水野っ!」


あの頃と同じ呼び方で卓巳はわたしを呼んだ。


とっさに背中を向けて走った。

エレベーターに乗り込み、階数ボタンを連打する。

肩で大きく息をして、今見た光景を嘘だと自分に言い聞かせた。



エレベーターの上昇が止まり、扉が開いた。

降りればそこは、わたしが働く店の入り口。


落ち着かなくちゃ。

こんな真っ青な顔で、接客なんかできるわけがない。


「おい、大丈夫か?」


オーナーが心配して声をかけてきた。

わたしは返事もできず、ただ小刻みに震えながら見上げた。


「お前、めちゃくちゃ顔色悪いぞ」

「飲みすぎたんじゃないですかあ? えらい早い時間から佐伯さんと会ってたみたいやし」


やり取りを聞いていた同僚の友香が、揶揄するように口をはさんできた。


「そうなのか?」

「……あ、はい」

「今日は人数そろってるし、早退してええぞ」


オーナーに背中を押され、わたしは更衣室に戻った。