春となりを待つきみへ




神様なんて存在しない。



奇跡なんてあるわけない。



この世にあるのは不公平と現実だけで。



世界は悲劇で終わりを告げる。




そう、あの日からずっと。


わたしはそう思って生きていた。




止まった世界を、飛べない空を仰いで、


たったひとりきりで歩いているつもりで、



どこでもない場所で、生きていたんだ。




だけどね、少しだけ、今は、


奇跡ってものを、信じてみてもよくなった。



それは、きっと、あんたが、


わたしの前に、現れたからだね。







 【ガーネット】







『あの星の裏側で俺の名前を呼んでみてよ。

どこに居たって見つけてあげる』




きみがそう言ったのは、いつのことだっただろうか。


嘘吐き。

なんて言おうと思ったって、届かないことはわかりきっている。


だって、もう、何度。

きみの名前を呼んだだろう。


何度、きみに会いたくて、ただ一つのその名前を呼んだだろう。



わたしは今も、何度も何度も、その名前を呼び続けている。


終わりにしたくなくて、終わらせたくなくて。

終わってしまったと、思いたくなくて。


何度も何度も、もう一度きみに届くまで。


その名前を、呼び続けている。





◆The first day

 >>小さな海の底






時間の速さは一定ではないと、何かの本で読んだことがある。

生き物の体の大きさによって心臓の鼓動の速さが違うように、見ている世界の速さも違ってくるという説だ。


いつ頃読んだのか、なんで読んだのか、ついでに言えばその本の詳しい内容すらろくに覚えてはいない。

ただ、理論や計算など難しいことはわからないから、単純に面白い考えだとその文章を読んでいたのだけは薄っすらと記憶に残っている。


時間の速さは一定じゃない。


確かにそのとおりだ。

時計の針が時間を刻むスピードは変わらなくても、生き物が生きていくうえで感じる時間は常に不定。

ネズミの一生はあっという間に過ぎて、ゾウの一生は百年も続く。


だけどそれは、理論や計算などでは答えを出せないようなところででも、当てはまる事柄らしい。


だってもしも、体の大きさや心臓が鼓動を打つ速さで感じる時間が決まるのなら。

わたしの世界は、他の人たちみたいにちゃんと、動いていたっていいはずでしょう。



ざわざわと忙しなく人が過ぎていく大通り。

いつもの通勤路をいつもと同じ時間に、歩き慣れた方向へ向かって進んでいた。


街の中心部からは少し外れているけれど、この辺りはこの街ではまだ随分栄えているほうだ。

ビルが並ぶし車通りも多い。横を走る車のヘッドライトはいつもまぶしくて、ときどきブレーキ音やクラクションが響く。


駅から続く道でもあるからか、もう少し早ければ学生が多くいるけれど、日がすっかり暮れたこの時間帯は仕事終わりのサラリーマンやOLとよく鉢合わせた。

飲み屋が並ぶ通りだから、これから一杯って人が多そうだ。わたしみたいに、この時間に真っ直ぐ家に帰ろうっていう大人はあんまりいないように見えた。


なんでもない日の仕事終わりの夜。

大勢が行き交う歩道を、なるべく列を乱さないように進んだ。

前を行く人が止まれば、うまく肩を避けてぶつからないように。

速くはないけれど立ち止まらないように。そうやっていつもと同じように、家に帰る。


いつもと変わらない毎日を送る。

ただ、時間が過ぎていくだけの日々。

人の言葉は雑音。通り過ぎる景色は不鮮明。

波の中に飲まれて、漏れることなくその一部になって、前へ前へと進んでいるけれど。


ときどき、ふと、どこにも進めていないんじゃないかって思うときがある。


わたしだけがこの場に取り残されて動けないでいるような。

間違いなく足は動いて歩いているのに、世界だけどんどん先へ進んで、わたしだけがどこにも行けずにここで立ちすくんでいるような。


でも、知っている。わかっているんだ、気のせいじゃない。


あの日からわたしが、一歩も動けていないなんて。

そんなのは十分、わかっているんだ。



──どん、と、通り過ぎた人と肩がぶつかった。

すいません、と謝ろうとしたときには、もう相手の背中は人ごみの中に消えていて、誰だったのかわからなくなった。


喧騒。雑多。点滅する、光。


立ち止まりかけて、でも止まらずに足を進めた。

同じ方向へ進む人の流れに乗って、逆らうことなく、そこに紛れる。


何も考えたりしない。早く時間が過ぎればいい。

一日が終わればいい。あっという間に明日が来ればいい。

どんな思いだって全部置いて行かれそうなくらい、呼吸をする間もないくらい、こんな世界、とっとと、終わっちゃえばいいのに。


「きゃはははっ! 何それえ!」


甲高い声に目を向けた。大学生らしい集団が、すぐ側を道を占領しながら歩いていた。

少しだけ歩く速度を速めた。

人の隙間を縫って、できるだけ、前へ、前へ。


こんなにもまわりがうるさいのに自分の靴音は聞こえていた。隣よりも細かいリズムで刻む足音は確かにわたしを前へ運んでいる。


だけど、やっぱり、どこか、だめだ。

足が重いんだ。夢の中で何かから逃げるときみたいに、なかなか早く歩けない。

でもそれはきっと気のせいなんだ。本当は普通に歩いている。

前へ進んでいる。道の先へ。でも進めていない。だめなんだ。


わたしだけが、置いてかれてる。まわりの世界に。進む時間に。

誰もそれには気付かない。知っているのはわたしだけ。

誰もが自分の世界を生きている。だからわたしの世界なんて、気付く間もなく通り過ぎる。


そういうものだから、そういうふうに出来ているから。


誰かの時間が止まっても、世界は、止まりはしないから。



「ねえ」



急に体が斜めに倒れた。

向いていた流れとは垂直の方向へ。自然には倒れない方向へ。


何とか足を踏み出せたおかげで無様に転びはしなかったものの、乗っていた流れからは見事に外れ、肩越しに見た一歩向こうには、わたしが歩いていたはずの大通りの人ごみが見えた。

わたしひとりが外れても、何ら変わらず動いていく、その、流れ。


「ねえ」


わたしの腕は、誰かのそれに掴まれていた。

ぎゅうっと、強く。5年も使っている古いコートの袖に、深く皺が刻まれている。


──ねえ、と、わたしを呼んでいるのか、もう一度声がして顔を上げれば。

人を引っ張れるくらいに強く握られた腕の先。ビルとビルの狭間、夜の路地の暗がりに。


「ねえ、ちょっと」


にこりと人懐こく笑いながら、その男は、立っていた。