絵を描くのが、好きなわけではなかった。

ただ、それしか出来ることがなかったのだ。

外で、他の子どもたちと同じように遊ぶことが許されなかった自分には、経験出来ることが驚くほどに少なかった。


ほとんどを過ごした病院内では、テレビゲームもロクにできなかった。

そこで持て余した暇をつぶすために、日がな一日描いていたのが思いつきで生み出す“絵”だった。


たまたま、俺は絵が上手いほうだったようで、俺が何かを描くたびに両親や看護師さんたちが褒めてくれた。

もちろんそれも嬉しかったんだけど、それよりも俺は、同じ病棟に入院していた子どもたちが喜んで俺の絵を見てくれるほうが、本当は、ずっとずっと誇らしかった。


そのうち、簡単なストーリーをつくって、絵を1枚だけで終わらせない、ひとつの物語にしてみた。

それを、もうすぐ手術を受ける予定でとても不安がっていた隣の病室の子にあげたのだ。

そうしたら、その子は今までに見たことがないくらいに満面で笑って「ありがとう」と、言ってくれた。


泣きそうになったのを、必死で我慢したことを今でも覚えている。

あのころ俺には、本当にひとつの救いも見えなくて、歩く道はそれこそ真っ暗で、先へ繋がっているのかさえわからないような場所にいた。

でも、あの子の笑顔は……俺のつくった拙い物語に喜んでくれたみんなの心は、確かに、真っ暗闇に灯った、小さな小さな、光になっていたのかもしれない。

それは大きな太陽が俺の道を照らすまで、闇の中のたったひとつの目印になってくれていた、光だった。


大人になって、絵本作家になった。


きっかけは紛れもなく、入院していた子どもの頃の出来事だった。

新しい心臓を貰ってすぐに、プロとして活動を始めた。

そのことを決めたとき、安定はしない職業だからと反対されることも覚悟していたけれど、自宅で無理をせず(ときどきするけれど)できる仕事だからと、両親や主治医の先生など、俺にとことん甘い周りの人たちはむしろ応援してくれた。

幸運にも、デビュー作でそこそこの人気を集めた俺は、今も“フユ”という名前で絵本作家を、それからもうひとつの収入源として、本名で児童向け海外文学の翻訳の仕事をしている。