馬鹿じゃないかと大きな声で言いたかった。
ふざけるなと頬を叩いてやりたかった。
でも残念だ、本当に呆れたときって言葉は一切出ないもので、鞄を持っていない空いた左腕は、男に掴まれたままだった。
ざわめきが遠くに聞こえる。
後ろを流れる大量の人は、わたしたちがここにいることにすら気付かない。
「ねえ、あんた、名前は?」
男の低い声が、ざわめきの合間を縫って耳に届いた。
それはあんたが訊ねることじゃないし、答える理由もわからないし、そもそもこっちがあんたの素性を訊いているのに。
「ねえ、名前」
男は柔らかく微笑んで、わたしにそう、訊いてくる。