きみとぼくの、失われた時間

 


「あ、」


ふと俺は自分の指先を見やり、体の異変に気付いてしまった。

慌てて握り拳を作ると、背を向けて地を蹴る。

「坂本っ、待ってくれ!」

お兄さんの、遠藤の声が聞こえた。

「あ、待てよ!」

寺嶋さんの呼び止めも聞こえる。
聞こえない振りをしてブランコに置いていた通学鞄を引っ掴み、公園を飛び出す。

 
俺は大馬鹿野郎だ。
 
なんで安易に他人と語ったちゃったんだ。

此処は2011年の世界、1996年の世界じゃない。俺は15年前に失踪している。

しかも此処は俺の地元。
見知ったヤツがいてもおかしくない。

現に俺は秋本と再会しているんだから!

秋本以外の人間と喋る時間が楽しすぎてっ、馬鹿しちまった。


「遠藤に会っちまった」


どうしようっ、秋本になんて言い訳すりゃいいんだ。
なにより、この体の異変、どうすればいいんだ。

半べそになりながら大通りに出る。一度切れ切れになった呼吸を整えるべく足を止めた。


「神社はどっち、だっけ」


目で方角を確認していると、「坂本!」背後から大声で呼ぶ声が聞こえた。
 
振り返る間もなく、アスファルトを蹴っ飛ばす俺は息が切れるまで、いや切れても足を動かした。



燦々と地上を照らし出す太陽の下。
 
ツーッとこめかみを伝い落ちる汗をそのままに、俺は通行人の合間を縫って走る。

風に乗って走る。
風と同化して限界の限界までグングン加速していく。

大通りから路地裏に飛び込んで一旦休憩。

湿気を含んだレンガ塀に手を添えて息を整える。


流石の遠藤も此処までは来られないだろう。

手の甲で汗を拭い、視線を落とした。
そこには透け始めている己の手が。

体を確認すると、全体的に薄く透けていた。顔をクシャクシャに歪める。

 
手の平の向こうが透けて見える。冗談もほどほどにして欲しいって。

やっぱ俺は幽霊だったのか。てことはあれか、成仏する時がきたってヤツ?

 
嗚呼、消えちまうのか。

俺、このまま2011年とサヨナラ、なのか。1996年に戻れるなんて確証、どこにもないぞ。

明滅する体は透けたり元に戻ったりを絶え間なく繰り返している。よって体感が機能したり、しなかったり、だ。




そよぐ生ぬるい風のぬくもりは拍数を置いて感じる。
 

眩暈がした。

唐突過ぎる出来事に貧血を起こしたのかもしれない。


きっと非常識現象に脳みその処理が追いつかないんだ。

幾ら平和に恐れていたとはいえ、これは急過ぎるだろ。


誰だって貧血を起こすぞ。


不思議現象は俺にちっとも優しくないな。ぐらっと足元がよろめいた。
  

「せめて」


神社で消えたい。

こんな湿っぽい路地裏で誰にも気付かれず消えるよりかは、消えちまうよりかは、神社のご神木に看取られて消えたい。


ひとりで消えるのは怖い。

 

路地裏を進む足が縺れ、大袈裟に転倒してしまった。帽子が頭から滑り落ちる。


「ダッセ」


苦笑を零し、引き摺るように体を起し、壁に凭れる。

明滅する体、次第次第に意識が白に染まっていくのは体と連動しているからだろうか?

膝を抱え瞼を閉じた。もう神社に行く気力もねぇや。



「坂本―――っ!」



と。



白濁の海に沈みそうだった意識が浮上する。

重たい瞼を持ち上げ、のろのろと顔を上げれば、片膝をついて俺の両肩に手を掛けてくるリーマンの姿が。


「しんどい」

 
久々に全力で走ったぞ。

額に汗を滲ませるリーマンのこと遠藤は、俺の姿を見るなり、「なんだよこれ」なんで体が透けて……、目を見開いている。


力なく笑ってしまった。
顔をよく見れば見るほど、俺の知る遠藤の面影が垣間見える。


そっと手を伸ばすと、勢いづいた大きな手に包まれた。

相手は大人なんだな、と冷静に物事を把握する俺がいた。


「坂本っ……、お前、俺の知る坂本なんだろ?」

「遠藤、お前。背、高くなったな」


こんな事態に相手の身形を話題に出す俺は、軽く現実逃避をしているのかもしれない。

あの頃は俺より5cm高いだけだったのに、嗚呼、本当にお前は背が高くなった、羨ましくて憎たらしさを覚えるほどだと微苦笑。


「その身長なら、ヘディングも余裕じゃん。お前、ヘディング得意だったし」

「やっぱりっ、坂本だ。お前は俺の知るっ、坂本健だっ。
お前、今まで何処で何してやがったんだよ! なんだよそのナリっ、なんで中坊のままなんだよ! どうして消えそうなんだよ」



捲くし立てられても困る。俺も状況が呑めていないのだから。

「消える前に」お前に会えて良かった。どんな風になってるか、気になってたから。消える前に一目会えて良かった。

弱弱しく口角を持ち上げると、間髪容れずに「消えんな!」頼むから、消えないでくれよ。強く手を握ってくる。


「やっと……、やっとお前に会えたんだ。ぜってぇ逃がすかよ。
幽霊なのか、妖怪なのか知らねぇけど、お前はっ、俺の知る坂本健だ。失踪した親友だ。そうだろ?!

どうすりゃいい。どうすればお前、消えずに済むんだ」


んなの、俺にも分かるわけがない。

ただ心残りが一つ。


「勝手に消えたら秋本……、怒られるかも」

「秋本? ……お前と俺が知る秋本っつったら、秋本桃香のことだなっ。あいつに聞けば、これ、どうにかなるんだな!」
 

いや分かんねぇと思うよ。
寧ろパニックにさせるだけだと思う。

って、携帯を取り出したし……、お前、秋本の番号知ってるのかよ。15年後も繋がりを持ってるのかよ。畜生、軽く嫉妬するぞ。


「出ないか」


舌を鳴らす遠藤は留守電にメッセージを残して電話を切った。

でもって再度俺に今まで何処にいたんだと尋ねてきた。

それをイチから説明するには時間を要するんだけど。
 

「ちっ、路地裏だとはいえ、此処は人目があるな」
 

返事を得られないと判断した遠藤は、着ていた背広を脱いで俺に掛けてくる。
 
「秋本の家。近かったな」

携帯を片手に、そのまま座るよう誘導してくる15上の親友。
明滅を繰り返す俺の両肩を強く掴んで強く見つめてきた。


「すぐに戻る。いいか、動くなよ。消えるなよ。すぐに戻ってくるから」
 
 
これは俺の意思じゃないんだって。

動くなは俺の意思でやれても、消えない約束はできないぞ。

「絶対だからな」

念を押して無茶な約束を取り付ける遠藤は、再三再四消えるなと命令して路地裏を飛び出した。
 

背を見送った俺は、自分の両手の平に目を落とす。

手の平越しに見える、透けた俺の足、捨てられた空き缶、汚れたアスファルト。元に戻るとそれらは視界から消える。


参った、なんでこのタイミングで体に異変が起きてくれるんだか。


遠藤との約束で動くこともできず(なんとなく動きたくもない)、膝を抱えた俺はそこに額を預ける。そしてゆっくりと瞼を下ろした。


俺、どうなっちゃうんだろうな―――…。




―――…15年前、まあ俺にとっちゃあ10日前のことになる。
 
 
人生最高潮の厄日を迎えていた俺は、小学校からの親友、遠藤学をこれ以上にないってほど激怒させた。
 

それは昼休みのことになる。

遠藤や同級生と一緒にグランドでサッカーをすることがお決まりだった俺は、いつものように誘われるがままグランドに向かって隣クラスの奴等とサッカーをした。

しかもこの時、ただ勝負するじゃあつまらないから、公園のグランドを賭けた。

勝てば一週間、主導権を頂戴できるという簡単な賭け事。


男子ってのは単純だから、賭け事になったらいつになく燃えるわけなんだけど、俺はやや上の空。

試合中、凡ミスばかり繰り返した。


パスを受け止められなかったり、変なところにパスして敵チームに攻撃権を明け渡したり、極め付けにオウンゴールしちまうという痛恨の失態を犯した。


ちなみになんで上の空だったか、午前中の出来事に若干落ち込んでいたのかもしれない。

家で親は喧嘩してるし、宿題は二倍出されるし、散々だと思っていたさなかの、昼休みの賭け勝負。

 

当然、俺がこんなにも凡ミスしたせいで敗北した。
 

一緒にサッカーをしていた友達は、「なんかあったのか?」と、俺の上の空っぷりに気付いて心配してくれていたんだけど、賭け勝負に燃えていた遠藤はそれどころじゃない。

激怒も激怒でお前のせいで節をつらつら。


元々スポーツが好きな遠藤だ。んでもって負けず嫌いの遠藤だから、普通の敗北ならまだしも、痛いほどの凡ミスを犯した俺を責め立てた。


当然の報いだから真摯に受け止めて、ごめんと謝罪を繰り返したんだけど、賭けに負けたことは変わりない。
 

煮えた気持ちを噛み締めて遠藤は最悪を連呼。


「お前はもうチームに入れねぇ」


俺の謝罪を突っぱねて鼻を鳴らした。

何もそこまで言わなくても、友達がフォローしてくれたけど、遠藤はそこまで言うことをしたじゃないか、俺を睨んで毒づいた。



「マジねぇよ。坂本のせいで負けちまうんだからっ。
一週間、向こうにグランドの主導権渡しちまうし。お前、やる気ねぇなら最初から入るなっつーの」

「ご、ごめんって遠藤…、今日はちょっと不調で。なんか今度奢るからさ」


「いらねぇよ! 馬鹿、死ね、失せろ!」

 
ご立腹の遠藤を他の友達が宥めてはくれたけど、それにしてもあいつの機嫌は長い付き合いの中でも、いっちゃん悪いものだったと思う。

昼休みが終わって午後の授業中、帰りのSHR中、ずっと機嫌を低空飛行させていた。


なんとかして機嫌を上昇させたい俺は、隙を見て何度も謝ったんだけど、謝罪を繰り返すごとに油を注いだようだ。

怒り心頭の遠藤はついに感情を噴火、しつこいと謝る俺を一蹴。



「もう来んなっ、消えろ!」



かんなり熱のこもったお怒りのお言葉を頂戴した。
 
見かねた友達が後日、怒りがおさまってから謝った方がいいよっと言ってくれたから、俺はそれに従ったわけだけど。

でも居心地は悪かった。
遠藤が愚痴を零す間、いや誰かと会話をしている間、それは俺の悪口なんじゃないかと被害妄想が出てきて出てきて。


全部が俺の悪口を言っているように見えるほど、俺は遠藤を激怒させた。


嗚呼、なんでこんな凡ミスをしちまったのか、遠藤を怒らせちまったのか、不調なのにサッカーなんてしちまったのか…、自分が嫌になる。
 

午前中は和気藹々と話していた筈なのに、どうしてこんなことに…、自己嫌悪は止まらなかった。


もう二度と、遠藤とは仲良く出来ないんじゃないか…、そんな不安感にも駆られた。


できることなら時間をリセットしてしまいたい。


そう切に思う俺がいた。
 


ふっ、と意識が浮き上がり、俺は重たい瞼を開いた。


満目一杯に広がるのは未だに見慣れない天井。
電気の豆電球がオレンジに発光しているせいか、部屋全体が仄暗いオレンジ色をしている。

ゆっくりと上体を起こすと、額からタオルが滑り落ちた。


湿ったタオルを手に取り、改めて部屋を一望する。


ここは秋本の部屋か。

閉め切られたカーテンは可愛らしい水玉模様に彩られているし、何回か触った木造のクローゼットもそこにある。


自分の身なりを確認。


制服を着ていた筈なのに、いつの間にか秋本の古着が。

色あせた猫のイラストが俺を見上げている。


ポリポリと鼻の頭を掻き、ふと自分の体の異変の事を思い出して、その手を確かめる。

体、透けてない。元通りの色をしている。

明滅する気配が一抹も感じられない。



「俺。どうしたんだっけ」

 

記憶のページを捲る。

確か昼飯を買いに外出したんだよな。

コンビニに足を運んで、それから公園に。
そこで子供用のサッカーボールを見つけて。


瞬きを繰り返し、毛布から抜け出す。

そっとカーテンの向こうを覗き込んでみると、空に星のカーテンが掛かっていた。


お日さんはとっくに就寝しているようで、替わりにお月さんが地上を照らしてくれている。





踵を返し、水の張った洗面器を蹴らないよう注意をしながら寝室を出た。
 

狭い廊下をぺたぺた歩き、リビングの扉をちょっとだけ開ける。

中から話し声が聞こえた。

テレビの音じゃない。


二つの声音は、各々男女のもの。

テーブルを囲んで駄弁っている一人は見慣れた女性の後姿。
もう一人は、見知らぬ男性の横顔。
 
 
けれど何処となく面影を感じさせるそいつは、俺の「坂本。起きたのね」
 

びくっと肩を震わせ扉から数歩、後退してしまう。

お構いなしに扉を開ける秋本は俺の両手首を取ると、「もう平気?」わざわざしゃがんで視線を合わせてきた。

平気かどうかは分からない。ただ体が元通りになったのだから、きっと大丈夫なのだと思う。

 
その意味合いを込めてうんっと頷くと、「心配したんだから」泣きそうな声音で見つめられた。
 
 
少しばかり居心地が悪くなる。

だけど、俺の意思で消えたいと思ったわけじゃないから、なんて返答すれば良いか分からない。

ダンマリになって思考をめぐらせていると、彼女から助け舟を出してくれた。


「遠藤がね。貴方を車で運んでくれたの」


私にも連絡を入れてくれたの。だからお礼を言いなさいね、そう言って首を捻る。

彼女越しにリビングを確認すると遠藤学(アラサー版)、親友と呼ぶべき人間の双眸がこっちを向いていた。





ますます困惑してしまう。


 
誰よりも一緒にいた時間が長かった奴だからこそ、親友の変貌っぷりには驚きを隠せない。

10日経ったとはいえ、いざとなると15年後の変化についていけない俺がいる。


だってスーツを着ているんだぜ?
俺と同じ学ランを着ていた男が、スーツにネクタイ、信じられないよな。
 

「ありがとうくらい言いなさいよね」


諌めてくる教師の言葉にも反応できず、ただただ口を閉じる。逃げたくなってきた。
 
 
「秋本、坂本は混乱しているんだよ。察してやれって」
 

また助け舟が出される。

今度は遠藤から出された舟で、俺はどうにかその舟に乗っかることができた。
 

見上げてくる秋本も「そうね、事を急ぎすぎたわ」と眉を下げ、俺に謝ってくる。

それだけ情けない面をしていたのだろう。


首を横に振り、小声で俺も謝罪した。

どうしても今の俺は自分のことで一杯いっぱいだ。


自分の身の異常といい、遠藤の姿といい、混乱に混乱してしまう。
 
 
嗚呼、やっぱり分からない、なんで俺は消えそうになったんだろう。

遠藤と再会したからか?
知り合いに巡り会っちまったからか?



まさか、そんな……、秋本の時はこんな現象なかったぞ。


分からない、2011年って未来は俺をどうしたいんだろう? それとも俺がどうにかしたいのか? なにも、わからない。
  



 
すっかり落ち込んでしまった俺をテーブルに着かせた秋本は、「ご飯にしましょう」今日は遠藤もウチで食べるから、とテキパキ声で語ってくる。
 
お刺身を買ってきたのだと一々報告してくれる彼女に、俺も何か手伝おうか、と尋ねた。


「いいわよ。座っておきなさい」


気遣ってくれる秋本が微笑んできてくれる。

嬉しい反面、落ち込んでいた俺にはすこぶる気まずいと現状に嘆きそうになる。

だって斜め前に遠藤が座っているんだぞ?

落ち込んでいる上に、あいつの視線が痛いのなんのって……、どうしよう。この状況。


これはこれで焦るんだけど。
 

飽きもせずテーブルと睨めっこする俺は相手をチラ見。バッチシ遠藤と目が合って身を萎縮する。
 
ま、まじでどうしよう。
背後から聞こえる爆笑番組に目を向けたい。

2011年の番組は1996年の俺にも十二分に楽しめるし。

まあ、俺の知った芸能人が老けていることにはショックを隠せないでいるけどさ。


もう、開き直って清々しく「おひさ」とか言って笑ってやろうか。
 
現実逃避を起こしていると、「体、平気なのか?」と遠藤から話を振ってきた。
 

「え、あ、はい。もう……大丈夫です。ありがとうございました。お手数掛けました」
 

折角の話題も、たどたどしい敬語せいでおじゃんだ。俺の阿呆。

ほらぁ、思った傍からなんで敬語なんだよ、遠藤に苦笑いされたし。


でも、俺の知る遠藤は中学生なんだよ。

こんな生真面目そうなリーマンじゃなかったんだよ。ほんと、働くお兄さんって感じだ。俺の知る遠藤とかけ離れている。


「あ、あの。お兄さん」

 
途端に麦茶を飲んでいた遠藤から大笑いされる。
 

「坂本からオニーサン」


そうか、お前の目にはそう見えるもんな。
変な気分だとくつくつ喉で笑う遠藤が、なんだとばかりに視線を飛ばしてきた。


やや間を置いて、「お兄さんは本当に遠藤なの?」俺の知っている遠藤とはまるで別人だと吐露する。


間髪容れず、「お前のことなら何でも知っているぜ」口端を持ち上げる遠藤は、例えばな……と腕を組む。