「今は分からなくてもいい。だけど、知っておいて。あんたを心配していた人達がいるって。私もそのひとりよ。じゃなきゃ、あんたの世話なんて焼かないわよ」
キャップ帽の上から頭を撫でてくる秋本は、まんま俺をガキ扱いしてくる。
おかしいな、昨日まで同級生だったのに、アラサーの秋本にこうして説法されるなんて。教師と生徒の構図だぞ、この光景。
―――…それだけ15年の空白ってのは大きかったのかな。
秋本は心身15年分、成長したってことなのかな。
俺には分からないや。
ちょっと一寝入りしていた俺には全然。ぜんぜん。
「どうなるのかな俺」
弱々しく不安を口にしてみる。
明日も明後日もこの世界にいるのかな、此処で生きていくしかないのかな、それともいつかは消えちまうのかな、力なく現実問題を見つめてみた。
此処で生きていくのも地獄(だって自由に外に出られないし)、消えるのもまた地獄(この世界から消えても元に戻れるかどうか分からないし)、どれを取っても地獄だ。
秋本はちょっと困ったような表情を作った。
だよな、彼女にだって分からないよな。こんなこと。
「そうね、取り敢えず私から言えるのは…、今のあんたの家は私の部屋だってことかしら」
軽く目を見開く俺を余所に、「ほら、帰りましょう」すくっと腰を上げる秋本は15の同級生を立たせてジーパンについた砂埃を払う。
いつまでも愚図ついたってしょうがないでしょ、ハンドバックからハンカチを取り出して汚れた俺の顔を拭い始める。
何気ない会話の中に感じる優しさ、秋本は今この瞬間、俺に明確な居場所を作ってくれた。
ちゃんと居候させてあげるから、頭を小突いてくる秋本は気が済んだなら帰ろうと、静かに手を差し出してくる。
俺は秋本の顔と差し出された手を交互に見やった。
で、もう気が済んだとその手を握る。
「うっし。帰るぞ」
秋本は気合の掛け声と共に、大きな一歩を出して前進。つられて俺も小幅で前進、遅れをとる俺に構わず秋本は大股でどんどん前を歩く。
「あ。此処を出たらスーパーに行かないとね。しょうが焼きの材料買わなきゃ。
坂本も手伝いなさいよ。あんたはお客じゃないんだから。料理の腕は期待してないから大丈夫よ。
だけど野菜を切ったり、皿を並べるたりとかはできるでしょ」
まだなにも返事をしてないのに、秋本は勝手に会話を進めていく。
歩調も軽快、これからの生活に心を躍らせているような足取りだ。
軽く鼻の頭を掻いて俺は駆け足。肩を並べて、しっかり手を結びなおす。
秋本の手、女性らしい大きな手だな。
弾力のある肌してるし。
成長した女性の手ってこんなにも柔らかい、綺麗な手をしているのか。
なんか悔しいな、こいつよりも手が小さいなんて。背が小さいなんて。今は年下だなんて。
同じ年、時間、場所で生きていた筈なのに、一件で俺達は15年の空白と溝ができちまった。
ザァアア―…。
前触れもなしに木々がさざめいた。否、ご神木が俺に向かってさざめいた。
足を止めて俺は首を捻る。
夕の日を燦々と浴びながら葉を擦り合わせているご神木のその姿は、まるで俺等を見送ってくれているよう。
「坂本?」
俺が足を止めたことにより、彼女の足も止まったようだ。そうだよな、俺と彼女、手ぇ繋いでるんだし。
軽くご神木に微笑し、「なんでもない」俺は秋本に行こうと声を掛ける。不思議そうに秋本は俺を見ていたけど、大して気にする素振りは見せなかった。
「親子に間違われたらどうしよう」
不意に俺はこの行為に対して冗談を呟く。
「スーパーまでこんなことしないわよ」
あんたが大人しくしてたらの話だけどね、てか、誰が親で、誰が子よ。アラサーを気にしている秋本が呻いた。
くすっと笑声を漏らす俺は、やっと心の底から笑うことができた。
「悪い悪い、姉弟だよな。お姉さんって昨日は呼んでたし、何かあった時のカモフラージュとして外ではお姉さんって呼ぼうかな」
そう返せば、「姉さんもねぇ」変な気分だと秋本。
嫌でも歳の差があるって思うじゃない。
聞こえない前提の独り言を耳にした俺は、
「アラサーのお姉さんで決まりだな」
言うや否や、手を振り払って彼女から逃げる。
勿論彼女は微笑ましいと思うわけもなく、「坂本!」あんたぶっ飛ばすわよっ、このクソガキ!
教師らしくない悪態を吐いて俺を追い駆け始めた。
「あんたを相手にしてると、マジ、うちの生徒を相手にしてる気分よっ。ちょ、待ちなさいって! クソガキ!」
「クソガキだなんて先生コワイデスヨー。そりゃあ俺、15のピッチピチ中学生ですけど?」
「うざっ! さっきまでビィビィ泣いてたくせに!」
「もう忘れた。俺、トリ頭だから」
向こうから聞こえる怒声に一笑して、俺は石段を駆け下りる。
今はなんで此処にいるのか分からないし、どうしてこうなっちまったのか、原因も分からない。俺が生きているのか、はたまた死んでいるのか、真相も分からない。
だけど、ひとつはっきりと分かったことがある。
それは15年後の世界で確かな居場所を作ってくれる奴を見つけたってこと。
そいつは俺の失恋相手であり同級生、15年後教師という道に進んだ片恋相手。
こいつといると何故だろう、自然の、有りの儘の俺でいられる。
おかしいな。
あの日、失恋したってのに、素の自分でいられるなんて。
「秋本、おっせぇぞ。お前、中学の時はもうちっと足が速かったのに…、歳か?」
「一々うっさいわよっ。これは単なる運動不足だっつーの!」
もしかしたら俺は幽霊かもしれない。
けど今、俺は15年後の世界で確かに秋本桃香という女と巡り会い、そして一日という時間を過ごして終えようとしている。
⇒3章
【3】
親友、遠藤 学
遠藤、お前と最後に交わした会話はなんだったかな。
散々お前を怒らせちまったから、会話っつー会話にもなってなかったかもしれない。
まだ怒ってるかもしれないけどさ。
15年後のお前に会ったら…、そうだな、ひとこと謝りたい。
―――…親友だなんて、俺の勝手な気持ちを押し付けてごめんな、って。
* * *
「坂本。あんたっ、マジで信じられない! なんで起こしてくれないわけ! ああっ、もう7時半とかっ…、化粧する暇もないじゃない!」
朝っぱらからケタタマシイ怒声が室内に響き渡った。
その音量はテレビの声を簡単に掻き消すほどのもの。
よって俺の耳はつんざきそうだった。
最悪を連呼しながら、バタバタと支度をしている秋本はリビングと洗面所を行ったり来たり。
折角俺が朝食をこしらえてやったっていうのに(ただ食パンを焼いただけだけど)、それさえ手をつけず時間に追われるがまま、身支度を済ませている。
なんで起こしてくれなかったのかと詰問されるけど、俺は何度も起こしたっつーの。
目覚ましまで掛けて、起床を手伝ったっつーのに起きなかったのはお前じゃないか。
人が何度、声を掛けてもスピースピーのグースカグースカ。
挙句、煩いと俺を突き飛ばアンド、蹴飛ばす始末。
マジでもう、こいつの寝相の悪さは10日間居候させてもらってよーく分かった。
真夜中、敷布団を跨いで何度俺を蹴っ飛ばしてきたか。
おかげで俺は何度目を覚ましたか。
顔に似合わず、悪魔な寝相だよ。
しかも今日、起きれなかったのは昨晩の秋本に原因がある。
「頭重いっ!」洗面所から聞こえてくる嘆きに、
「だから言ったじゃんかよ」飲み過ぎだっつーの、彼女に憮然と言う。
昨日の秋本、仕事で一悶着あったのか、帰宅早々シャワーを浴びた後、買ってきたチューハイをかぶ飲みする勢いで始めるんだ。しかもすきっ腹で。
そりゃあ、すぐ酔うよな。
悪酔いするよな。
胃を壊すよな。
せめて飯と一緒に飲めっつったのに、「ちょっと聞いてよ!」から始まりの愚痴大会。
俺は午前様過ぎまで散々あいつの愚痴に付き合わされた末、酔って寝ちまった教師を寝室まで運ばされたという。
「自業自得だってーの」
俺は何度も注意を促した、肩を竦めて秋本のトーストにバターをぬる。秋本がこれを食べないなら、居候人の俺が処理するしかない。
「だってしょうがないじゃない、飲まないとやってらんないわよっ、ストレスの溜まる職なんだから! 坂本、あんたはなんで飲めないわけ?!
本当ならアラサーでしょ! あんたが一緒に飲んでくれたら、少しは私の飲む量が減ったわよ!」
「それ、チョー理不尽。生憎、俺は未成年だっつーの。教師が未成年に飲まそうとするなって。
なあ、二日酔いの薬、買ってるのか? あるなら用意してやるけど」
「ない!」ヤンヤンと大喝破してくる彼女は、行きに二日酔いの薬買わないと、と愚痴を零す。
次いで、俺に今後のために買っておいてくれないかと頼んできた。
他にもあれやこれやお使いを頼んでくる。
俺は吐息をついて、トーストを齧った。
そりゃべっつにいいけど、あんま俺、外を出歩けないんだぞ。
分かってるか?
ただでさえ平日の真昼間に中坊が出歩くのって目立つのに。
しかも秋本の奴、リビングに戻って来るやテーブルに置いているハンドバッグに物を詰めつつ、
「外にはあんまり出歩かないでよ」
しっかりと釘を刺してくる。
お前は俺に買出しに行って欲しいのか?
それとも家でおとなしくお留守番して欲しいのか?
どっちなんだよ。
デジタル時計に目を向けた秋本は悲鳴を上げて、ハンドバックを引っ掴む。
「じゃあ、行ってくるからね」
何かあったら連絡ちょうだい、矢継ぎ早に喋って玄関に走る秋本先生。
俺はテーブルに置いてあるスマートフォンに気付いて、「おいマジかよ」勘弁しろってと、食べかけのトーストを皿に置いてそれを引っ掴んだ。
ヒールを履いている秋本に、「忘れ物!」スマートフォンを見せ付ける。
いっけないと慌てて俺の手からスマートフォンを受け取り、行ってきますと手を振って扉を開けた。
ゴンッ―!
頭をぶつけたのはこの直後。チェーンの存在を忘れていたみたいだ。
半開きの扉に激突していた。
「この扉」
舐めてるの?
無機質の金属扉に足蹴り(可哀想に、扉に罪はないだろうに)。
チェーンを荒々しく外す秋本は今度行ってきますと出て行った。
あれでも一端の教師をしてるんだから信じられないよな。
俺は軽く欠伸を噛み締めて踵返した。
さてと、朝食を食べ終わったら布団でも干すか。
俺が15年後の世界に来て、早10日が経った。
10日間、何があるわけでもなく平和な日常が流れている。
おかげで俺は10日の間で、居候なりの役割を見つけることが出来た。
それは家事、外に出られない俺が秋本にできる唯一のお礼だ。
そりゃ1日目こそやったこともない洗濯、不慣れな掃除に手間取ったけど、3日ありゃ仕事にも慣れてくる。
本来なら学校に通っている時間も、俺は主婦(あ。ちっげぇ主夫だ)のように家事に勤しんで日々を過ごしていた。
ぶっちゃけ、つまんねぇと言えばつまんねぇけど、教師としてハードな一日の仕事を終えて帰宅する秋本を考えると、風呂くらい焚いてやりたいって思うじゃんか。
居候している身分だしな。
朝食を食べ終わった俺は、洗濯機に汚れ物を入れ込んでセット。
その間、秋本の敷布団と客用の敷布団をベランダに干して掃除を開始。
洗濯が終わったら、それを干して(一日目こそ女物の下着を干すことに抵抗があったけどもう慣れた。慣れって怖いな)、溜まっていた食器を洗って一休み。
カフェオレを作って一息入れながら、お昼のワイドショーを見ることにした。
「あー疲れた。もうすぐお昼か。時間経つの早いな」
やれやれと凝った肩を揉み解して、俺は小さく伸びをした。
小学校の頃、若かりし俺は学校に行っている間、母さんは何してるんだろう?
家でごろごろできていいよなぁとか思ってたいたけど、家事って結構重労働なんだな。マジいい運動になるぜ。
「ふーん。消費税が10%に引き上げられる可能性大、か。マジか。5%でも辛いのに。最高で25%まで引き上げられる可能性も…って、簡単に外食できなくなるじゃん」
機械に向かって独り言を零すのは、テレビの魔力なのかもしれない。
「漫画も安易に買えなくなるよな」
学生には優しくないニュースだと吐息をつき、カフェオレで喉を潤す。
まあ今の俺は学生であり学生じゃない、大人であり大人じゃないんだけどさ。
………。
ふーっと溜息をつき、俺はテーブルに頬杖ついた。
何事もなく10日も過ぎてるけど、何事もないのもなんだかなぁ。
俺、生活に慣れ始めてるぞ。
これでいいのかよ。
ヨクナイだろ。
俺、一応、1996年の人間なのに。
秋本との暮らしが苦とか、そういうことを言いたいわけじゃないけど、10日も過ぎると不安が蘇ってくるんだ。
俺、ずっとこのままなのかな。
それとも何かアクションを起こさないといけないのかな。
もしそうだったら何のアクションを起こさないといけないのかな。
あれやこれや、悩みが泉のように湧き出てくる。
ずっとこのままはこのままで大問題だしな。
今のままじゃ学校にも行けない、かといって就職もできない、身分証明できるものもないから病院に行くことだって一苦労する。
学校に行けないのも暇だし、家に閉じこもっているばっかりもツマンナイし。
それに、俺は未だに分からないでいるんだ。
腰を上げて洗面所に向かった俺は鏡面を覗き込む。
やっぱり鏡面には俺の姿はない。
開け放たれた浴室が映っているだけで、他には何も映し出していない。坂本健という男はどこにも見当たらない。
「幽霊、なのかな」
けど幽霊が人と会話できたり、物食ったり、入浴できたりするか?
現に俺の姿は秋本以外にも見えているみたいだし。
昨日もコンビニで買い物に行ったから、俺の実体はあるんだと思う。実体は。
じゃあなんで鏡に映らないんだろう?
ぽりぽりと鼻の頭を掻いて俺は腕を組む。謎は謎を呼びやがる。まったくもって理解不能、分析不能、意味不明だ。