きみとぼくの、失われた時間



費用の話といえば、俺は秋本がお会計を済ませる時にちょっち興奮した。

その時、秋本には興奮の意味が伝わってなかったんだけど(訝しげな眼で見られた)、ベンチで饅頭を食いながら彼女にお札を見せてくれるよう頼んだから、なんで興奮したのか理解。

俺は初めて見る千円札の絵に興奮した。


「野口英世さんじゃんかよ。夏目漱石さんじゃねえ。五千円札は新渡戸稲造さんじゃねえし。一万円は変わってないけど」


百円や十円や五円、一円玉も変わってないみたいだな。

デザインをしっかり覚えているわけじゃないから、はっきりとは断言出来ないけど。


あ、五百円玉が金ぴかだ。銀色の五百円玉じゃない。


物珍しい顔でお金と向き合っていた俺だけど、不意に視線を感じて隣に視線を流した。

そこには回転饅頭を食べ終わって、微笑ましそうに俺を見つめてくる秋本の姿。


ちょっと、嘘、かなり美人に見えたのは俺がどっかでまだ秋本を思っているからだろう。



「もしかしてガキっぽかった?」



俺の問いに、「ガキでしょ」あんたは15なんだから、とお答えを頂戴した。

いや、そりゃそうなんだけどさ。



「懐かしいと思っただけよ、あんたのその姿に。そうやって物事に一喜一憂してたわね」



懐古する秋本。

俺は昨日も秋本(中学生版)に会ったんだけど、こっちの秋本(アラサー版)は15年ぶりの再会。

時間の感覚にずれが生じている。


鼻の頭をぽりぽりと掻いて、

「懐かしい言われてもなぁ」

その場凌ぎの台詞を漏らせば、隙ありだと食べかけの回転饅頭を奪われた。


「あー!」


声を上げる俺を無視して、残り少ない回転饅頭を平らげてしまう秋本。

嘘だろ、自分全部食ってたじゃんかよ!






「秋本っ、おまっ…、太るぞ」
 
「あんたの食いかけで太って堪りますか」


ぴしゃりと反論を返した秋本は奪っちゃったと意味深に口角をつり上げてくる。

そりゃ回転饅頭を奪われましたけど?

片眉をつり上げる俺に、「チガウチガウ」秋本は軽く両手を上げて、右人差し指で俺の唇を指してくる。

意味が分からなくて、首を傾げる俺は自分の唇に触れる。
 
数秒後。
 

「はあ?! お前、バッカじゃないの!」


意味を理解した俺はからかうなって、と怒声。顔が火照っていることから、赤面しているような気もする。 

そういうところがガキなのだと余裕綽々で俺の手から財布を取り上げる秋本は、さっさと腰を上げて歩き出す。

今のはガキも畜生もあるかよ、アラサーのくせにっ。


アラサーのくせにっ、ああくそっ、大人のヨユーって奴ですか?

イジメですか?!

教師がそんなことをして許されるとでも?!


俺は手の甲で唇をゴシゴシ擦り、地団太を踏んだ。



「なあにが間接キスを奪った、だっ! 秋本のバーカ!」

 
 
ふふっと笑声を漏らす秋本は長い髪を靡かせながら、半身をこっちに向けて目尻を下げた。

垂れ下がる絹のような髪を耳に掛ける動作はドキリ、としてしまう。
 

「これで私達、親子には見えないでしょ」


くるっと視線を戻して軽快な足取りで歩き出す秋本に、俺は頬を紅潮させる。
 
なんだよ、あいつ。

親子って言ったこと根に持ってたのかよ。
じゃあ、姉弟にするって。


いや、姉弟でもこんなやり取りしねぇだろ。…じゃあ、別の関係?


秋本がよく分からん。
お前、俺のことをなんだって思ってるんだよ。


小さく唸り声を上げた後、俺は鼻歌を歌っている秋本の背を追い駆けたのだった。







一通り買い物を終えた俺達はショッピングモールを後にし、帰路を走っていた。


行きもさながら、帰りもやっぱり俺の目は街並みに釘付け。


知っている建物、知らない建物、知っている風景、知らない風景、知っている街、知らない街、15年間の街並みの移り変わりを知らない俺はその空白を埋めるように景色を見つめている。

「帰りはスーパーに寄るわね」

秋本に声を掛けられた俺は生返事をして、間を置き、口を開く。


「最後でいいから、神社に寄ってもらっていい?」
 
  
沼地が近くにある神社、違った、沼地があった神社に寄って欲しいと俺は頼む。

承諾してくれた秋本は先に神社に寄ろうか、と俺の気持ちを酌んでハンドルを右に切った。


こうして神社に向かうことになった俺達。

神社に向かう途中、片側三車線を走っていた景色よりも、より目にしている景色達が目に飛び込んで俺は思わず胸を痛めてしまう。

知っている住宅街、道、風景がまるで違う。


知っている景色な筈なのに、まったく懐かしさを感じない。


殆ど初めまして状態の念で街を見つめている。


車窓から差し込む夕陽の光を浴びながら、俺は神社に着くまでその街を見つめ続けていた。

口数が自然と減ってしまったのは、俺がどっかで落ち込んでいたからかもしれない。
 

神社前の石段に到着すると、俺は秋本を置いて逸早く下車。




「あ。坂本」ちょっと待って、秋本の声を無視して車のドアを閉めると駆け足で石段を駆け上がる。

買ってもらったばっかのキャップ帽が脱げたけど、気にならなかった。
 
 
不気味な程静まり返っている神社の敷地に入った俺は、迷うことなくご神木に向かった。

そう、俺が昼寝をしていたあの場所だ。

相変わらず閑寂な場所で生きているご神木は、昨日見たよりも成長している気がした。


そりゃそうか、15年も経ってるんだから。


唾を飲み込んで俺はご神木に歩むと、そっと木肌に触れた。ぬくもりが伝わってくる。

まるで俺を慰めるかのようなぬくもり、この木は確かな熱を持っている。
 

「お前の仕業か?」


俺が15年後の世界に飛ばされたのは、お前のせいか?
 
そんなわけないのに、物理的に、常識的にそんなわけないのに、俺はご神木に問いかける。

だってお前以外考えられないんだ、こんなことをするの。
じゃないと俺、他にどうやって此処に来たんだよ。


なあ、なんで俺、此処にいるんだよ。
 

昨日から募りに積もっていた不安が一気に溢れ出る。
 

軽く浴室で気持ちを爆発させたのに、また不安が…、俺はズルズルとご神木の根本に座り込んで、額を相手の体に預ける。


此処に俺を飛ばしたの、お前なんだろ。

なんで15年後の世界に飛ばしたんだよ。


それとも俺、木の下で寝ちまってそのまま永眠しちゃったのか。


だから鏡に姿が映らないのか。

死んだのか、生きてるのか、それだけでもいいから教えてくれよ。


俺は今、どうなっちゃってるんだ。



「こんなことなら」
 


いつまでも此処で寝ておきたかったなぁ、目なんて覚めたくなかったよ。

視界が歪む。

泣き笑いする俺は、「もっかい此処で寝れば」今度は目なんて覚めずに済むのかな、小声で相手に問い掛ける。

返事はなかった。
無責任だよな、俺をこんな状況に追い込んで答えてくれないなんて。
 


「もっかい」寝ちまいたい、俺は現実逃避を口走った。
 
ははっ、今度目が覚めれば150年後だったりして。
それこそ浦島太郎だよな。

150年後の日本はどうなってるんだろうな。

2011から150を足すと2161、西暦になおすと2161年か。

日本国の技術がどう発達しているのか、見てみたいぜ畜生。


なあ、ご神木、これがお前のせいなら飛ばしてみせてくれよ。
 
今度こそ俺は住み慣れた(そして見知らぬ)街を彷徨っちまうんだろ。

そうなんだろ?
 
 

ぽんっと肩に手が置かれた。
 


のろのろと顔を上げれば、追い駆けて来た秋本がキャップ帽を片手に、しゃがんで俺と視線を合わせてくる。

「此処にいたの?」

15年前のことをそっと訊ねてくる教師。

しきりに首を縦に振る俺は、「此処で寝てたんだ」んで目が覚めたら、この世界にいたと涙声で説明。


何もしちゃない。

失踪したいなんて毛頭も思わなかった。


ただ自分の時間が、居場所が、癒しの場所が欲しくて此処に流れ着いた。

この居場所がとても居心地良かったから、ご神木の下で昼寝をしていた。それだけなのに。


スンと洟を啜る俺は何度もご神木の肌を撫でる。

ごつごつとした表面はちょっと硬い。


でも撫で心地は良かった。


「このご神木は俺に優しくしてくれた。此処にずっといていいんだってっ…、流浪人の俺に居場所くれたんだ。
仮にこいつのせいだとしても、俺は責めるに責められないや」
 

だってお前、俺を慰めてくれたもんな。

泣き笑いして相手の体に再度額を預ける。
不思議と心があったまるのは、こいつの優しさからきてるのかな。

自然のあったかさを感じる。
木の幹から良い匂いがする。


一度張っていた気持ちが崩れちまうと、もう駄目みたいだ。

糸がプッツリきれたように自然と目尻から感情の粒が流れ落ちる。


嗚呼、気丈に振舞っていても、秋本に励まされても、元気を貰っても、面白い世界を見ても、やっぱ不安だったんだな俺。


不安じゃないわけないじゃんか。

俺の意思関係なしに15年後の世界に飛ばされてみ?

誰だって怖いじゃんかよ。


時間をトリップしただなんて、どっかの漫画や小説でありそうなネタだけど、俺は物語の主人公みたいにその世界を元気ハツラツに冒険なんて出来ないぞ。


だって俺、ただの中坊なんだからさ。


ワケの分からない事象が起こったら畏怖する。現に怖じる気持ちでいっぱいだ。
 

「怖いや」


俺が今、何者で、何処にいるのか、生きているのか、死んでいるのか、それさえ分からない。それが怖い。

失踪事件を起こした俺は一体、誰なんだろう。
なんで此処にいるんだろう。

どうして俺は15年後の世界に飛ばされたんだろう。
 

透き通った雫がジーパンの上に落ちて微かに滲む。

幾度となくジーパンを滲ませるそれは、まるで雨のようだと思った。


ふっと頭にキャップ帽が被される。状況を把握する前に抱き込まれた。

驚いて思わず瞬き。
ぱちぱち、瞬きする度に雫が頬を伝った。


「ダイジョーブ」


女性特有の声、柔らかなソプラノが俺の鼓膜を打つ。


「こうして傍にいるから、あんたはひとりじゃないよ」


涙の量が増えたのは何故だろう。
 

「坂本はひとりじゃない」


何度も繰り返してくれる秋本は、俺の頭を強く抱き締めて、その言葉、態度で教えてくれる。ひとりじゃない、と。
 

お前さ、なんで此処まで俺に優しくしてくれるんだよ。

中学のお前はあんなに疎ましいって言ってたくせに、ほんっと分かんねー奴だな。

ほんっと、わけわかんねぇよ。


こんなことされたら、また好きになっちまうだろ(本当は現在進行形で秋本のこと、好きだけどさ)。


「ねえ坂本。あんた、なんで此処で寝てたの?」

 
俺を落ち着かせるように、でもって自分の疑問を解消するように質問を重ねる彼女。

こんなところで寝ていたなんて風邪でもひきかねないのに、ご尤もなことを仰る教師は何かあったのかと生徒の気持ちに目を向ける。

さすがは教師だよな。鋭い。

観念して俺はポツリと零した。


「居場所を探していた」と。

 
「さっきも言ったけどさ、俺は居場所を探してたんだ。
昨日…、お前にとっては15年前になるだろうけど、その日、色んな嫌な事が重なっちまって。家じゃあ両親が喧嘩してるし、外じゃあれやこれやらで自分の存在意義を見失いそうになるし。
なんかもう自暴自棄になっちまってさ。自分の居場所を探して、此処に流れ着いた」
 

自分ちっぽけだなぁって、自己嫌悪しちまってたんだ。

ありの儘の俺を受け入れてくれる場所を探していた。


俺は教師にそう吐いた。

白状してしまうと案外スッキリするもんだ。

まさか外であれやらこれやらの“これ”に秋本の失恋が入ってるとは、口が裂けても言えなかったけど。


俺が“俺”である場所はどこか、俺って一体なんなのか。

その意味を探し、探し、探して流れ着いた神社は15年前のあの日(と言っても、俺には昨日のことなんだけどさ)静寂に包まれている。

不気味なほど静かだけど、俺にはしごく心地良い。


スンッと鼻を鳴らして、鼻の頭を掻く。

静寂がささくれた心を癒してくれるような気がした。
   

「今の地球にはさ」


ふと秋本が壮大なスケールで話題を切り出す。

地球を例に挙げるところがいかにも教師らしい。
  
 
「70億もの人がいるの。自分なんてその数値の一部。私もあんたも、その一部にしか過ぎないわ。
一個人と世界人口を比較したら、そりゃあちっぽけにだって思うわ。この町の人口と自分を比較しても答えは同じ。一個人なんて豆粒のようなものよ」


でもね、坂本。

一個人はちっぽけでも、その一個人が他の一個人と繋がりを持つことで世界の視野が拡がる。

また他の一個人と繋がることで視野が広がる。


この意味、分かる?

分からないって顔をしてるわね。


つまりね、ちっぽけなあんたでも繋がりを持った誰かにとっては“ちっぽけ”じゃなくなるのよ。誰だってそう。

ちっぽけだって自己嫌悪しても、繋がりを持った誰かにとっては“ちっぽけ”じゃない。


だってこの15年間、あんたのために涙を流した人がいる。

あんたが失踪した日から、ずっとあんたのことを捜している人がいる。

諦めず捜している人がいる。


嗚呼、坂本健って少年を親身に心配した人がいた。


失踪したことに不安を抱く人がいた。

いつか顔を見せてくれるだろうと希望を持った人がいた。

 
誰かはあんたのために祈り、誰かはあんたの幸せを願い、誰かはあんたのために再会を望んだ。

私はその光景を目の当たりにしてきた。
 

あんたに昨日言ったわよね、私が泣いた意味を考えなさいって。


それってつまり、そういうことよ。

私にとってもちっぽけじゃなかったってこと。心配してたのよ、15年間、ずっと、そう、ずっと。