会話、そのやり取りは俺の知る秋本と同じ匂いを感じた。
なんだかすっごく安心する。
知っているようで知らない世界の中で、俺の親しみある何かを見出せた。
それが凄く安心する。
なにより、此処にいてもいい。
その台詞に救われた気がする。
何だかんだいっても、やっぱ不安だったんだ。
未知の世界でひとり、彷徨うのって。
ホッと息をつき、俺はさっきまで座っていた自分の位置に腰を下ろす。
鞄を脇に置いて、テーブル台に上体を委ねた。
自然と下りてくる瞼は、安堵からだったに違いない。
満腹、疲弊し切っていたっていうのも勿論、理由に挙げられるけどさ。
「坂本。お風呂、あんたから先に…、あれ。寝てるの?」
程なくして、秋本の声が聞こえてくる。
気配が俺の隣に感じられた。
「幽霊じゃないのよね」
そっと髪を撫でてくる手は、きっと俺よりも大きくてしなやかな手をしているに違いない。
彼女の笑声が俺の鼓膜を打つ。
あたたかいものに包まれるのは一体なんだったのか、容赦なく睡魔に襲われている俺には分からなかった。
散々惰眠したってのに。
そのあたたかいものは良い匂いがした。
とても良い匂い、安心するぬくもりと甘い香りに包み込まれて、俺の精神は安定する。
厄日の中で見つけた、確かな、安定剤だった。
⇒2章
【2】
変わった世界
今、秋本は30。アラサーだという。
じゃあもし、俺がその世界で生き続けていたら(いやちゃんと現在進行形で生きているんだけどさ)、秋本と同じように30になっていたんだろうか?
大人になった俺はどうなっていたんだろうな。
残念なことに15の姿のままで、15年後の世界に飛んじまった浦島太郎の俺には想像もつかない。
変化した世界と、不変の俺、世界はどう俺を見ているんだろう―――…?
* * *
恐ろしい光景を目の当たりにして、飛び起きるってことはよくある現象だ。
誰しもが経験しているその現象を、人は悪夢と名目している。
俺も例外でなくこの15年間、悪夢と呼ばれる夢を幾度となく見てきた。
悪夢を見る度、布団を跳ね除けて起床。
夜明け前の自室を見渡し、「夢か」と安堵の息をついてもう一寝入りするってのがお馴染のパターンなんだけど。
今回は“悪夢”ではなさそうだ。
カーテン越しから感じる射すような朝日によって叩き起こされた俺は、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
満目一杯に広がった光景は見慣れない天井。無愛想な天井が俺に早く起きろと急かしているよう。
瞬きをして寝返りを打つと、初めて見る毛布が視界に飛び込んできた。
そっと触れて感触を楽しむ。
わりと気持ちの良い毛布の手触りだけど、家の毛布ではない。こんな毛布、初めて見る。
上体を起こして、ひとつ欠伸。
室内をぐるっと見渡す。見慣れない壁に、見慣れない窓、見慣れない部屋。此処は一体…。
まだ目覚めていない脳みそをそのままに、布団から抜け出てドアノブに手を掛けた。扉をそっと引いて廊下に出る。
素足でフローリングを歩いているせいか、足の裏に無機質な冷たさが伝わってくる。
どことなく俺の体温を奪うよう。
おかしいな、靴下を脱いだ覚えはないんだけど。
ぼーっとする頭でリビングに入ると、そこにはテレビを観ながら珈琲を啜っている女性の姿。
俺に気付いて、「おはよう」子供っぽい笑みを浮かべてくる。
―…秋本だ。
「疲れてたみたいだから、起こさなかったんだけど…、よく寝てたわね。もう11時よ」
15年後の秋本が俺の目の前にいる。
そっか、夢じゃなかったんだ。
夢だったらどんなに良かったことか。
一抹の期待を砕かれた気分だったけど、表には出さず、俺は綻んでくる30の姉さんにおはようと返した。
どうやら昨日、俺は疲れてリビングで眠ってしまったらしい。
気を利かせて秋本が俺を寝室まで運んだらしいんだけど(靴下を脱がせた犯人は秋本だったのか)、なんだか申し訳ない気分になった。
何から何まで手を焼かせたような気がしてならない。
彼女は気にしてない素振りだったけど、「着替えがないのよねぇ」別件で眉根を寄せていた。
シャツやズボンは古着で良ければ貸せるけど、下着となるとうんぬんかんぬん。
確かに俺もそれはご免被りたい。
ナニが悲しくて女性物の下着を15年後の世界で経験しなければいけないのか!
「まあ、今日買い物に行く予定だし、下着と着替えも買いましょ。
二日も三日も同じものを着られちゃ、私がドン引くし。毎日洗うにしても、その間どうするんだって話しだし」
買い物。
まだ完全に目覚めていない頭で、俺は彼女に尋ねる。買い物に行くのか、と。
「だってこのままじゃ居心地悪いでしょ」
「例えば歯ブラシを共有できる?」秋本はそれこそご免被りたいと大袈裟に肩を竦めた。
一日分でもいいから、何か俺の物を買っておかないと不便だと言ってくれたけど…、それって秋本に買わせるってことだよな。
俺、金持ってないし。
それに俺、この世界にいつまでいられるかも分からない(というか、状況を分かってない)。無駄遣いさせるような気もする。
曇る俺の顔を一瞥した秋本は、「ねえ坂本」元気付けるように微笑んできた。
「余計な心配はしないで。私がしたくてしてるだけだし。
それに混乱してもしょうがないけど、落ち込んで気鬱になってちゃ、本当に鬱になるわ。少し、気晴らしをしましょう? あんたの表情、昨日から曇ってばっかりよ」
晴れるわけないじゃないか。
こんな状況下になってるんだから。
この状況を素直に喜べる奴がいるなら、是非とも俺の前に連れて来て欲しい。
喜んで交替してやるから。
「買い物が終わったら、あんたがいたって神社にも行きましょう。
ほら、元気出す。しっかりご飯食べて。あ、そうだ。あんた、昨日お風呂に入ってないんだから、食べ終わったらシャワー浴びてきなさいよ」
テキパキきびきびと言ってくれるけど、お前が俺の立場になってみろって。
元気どころかへこむから。
畜生め、他人事だと思ってるだろ? 秋本。
軽く不貞腐れながら、皿の上のロールパンを取って半分に裂く。
と、俺はそこで問題点に気付いた。
「外に出ても大丈夫かな」
仮にも俺、失踪してるんだろ?
買い物なんて安易に行けないんじゃ。
「大丈夫。キャップ帽貸すわよ」
……、それが解決案?
いやそれ、かなり適当じゃね?
呆ける俺に、
「顔が隠れたらこっちのもんよ」
秋本は大真面目に答えた。
マジかよ、大丈夫なのかよそれ。
不安を感じつつ、俺は何気ない気持ちでテレビを観た。
丁度芸能人のニュースが流れているけど、その報道に俺は目を丸くした。
「え、マジで!」
思わず素っ頓狂な声を上げて、その報道を食い入るように見つめる。
だって俺の好きだったアイドルが離婚報道をしてるんだぜ?
そりゃあ驚くっ、てか、結婚してたの? 嘘、マジで?!
「しかも老けてるっ!」
やっべ、あの美貌はどこ行っちまったんだよ。
確かに面影は俺の好きだったアイドルと重なるけど、でも、でもさ。
「はあ? しかもこれでバツ2?! 一回、結婚して離婚してたのかよ。マジかよ…、すっげぇショックだ。
あ、これって今、注目浴びてるアイドルの勝子ちゃんじゃん! うわぁ、やっぱ老けてる」
別の意味でショックな未来を見た気がする。
夢見る純情ボーイの夢を砕かれたっつーか。
CMに入ったテレビを呆然と見つめて、
「華も枯れるんだな」
率直な感想を述べた。
向かい側で聞いていた秋本は笑声を上げる。
「そう思ってもしゃーない。しゃーない」
ドンマイだと励ましてくれる。
CMが終わったテレビは、芸能ニュースから普通の日常ニュースへと変わる。
俺は目を丸くした。
ニュースキャスターがとあるタワーについて報道してるんだけどそのタワー、“東京スカイツリー”っていうらしい。
15年後の未来は新しい東京タワーができるのか?
なんかもうびっくり仰天だな。
15年で日本も此処まで変わるなんて。
驚き呆ける俺に何を思ったのか、秋本がテーブルに何かを置いてこれを見てと声を掛けてくる。
「あ。それ」昨日、携帯ショップで見た薄い携帯? ポケベル? じゃんか。
名前はスマートフォンだっけ。
「これね、タッチ動作なのよ」
「タッチ動作? うわっ、画面が変わった。触っただけで変わるのか?」
興味津々にスマートフォンを見ていた俺は、「これと違うのか?」リビングに放置されていた通学鞄からポケベルを取り出して秋本に見せる。
「なつい!」
秋本は別の意味で興奮した(なついってなんだ?)。
ポケベルを手に取って、あったあったと勝手に触り始める。
だから俺も勝手にスマートフォンを触らせてもらった。
スッゲェな触っただけで、画面がパッパッパッと変わっちまうなんて。
触りながら、「これはポケベルか?」相手に質問。
「携帯の進化版よ」
秋本は返事しつつ、ポケベルを操作している。
「今の時代、ガキんちょでも携帯を持つ時代なのよ。私達なんて携帯とか高級品も高級品だったのにね」
「父さんの持ってるの、PHSだしな」
「ははっ。それもなつい」
だからなんだよ、なついって。
KYと同じ流行り言葉なのか?
片隅で疑問を抱く俺は、スマートフォンをタッチして遊ぶ。流れるように画面が現れる。
それが面白くてしょうがない。
これで何ができるんだろう?
俺は秋本に質問を重ねた。
こんなにハイテクなんだから、すっげぇことができるんだろうな。
「なんだろう?」
電話でしょ、メールでしょ、テレビでしょ、音楽でしょ、インターネットでしょ、秋本の数を挙げていく姿を一目見ただけで俺は結論付けた。
未来はハイテクなんだって。
もしかしてロボットとかも、もういたりして。
猫型ロボットがいてもおかしくないかもな。
だけど残念な事に、そこまで技術は発達していないみたいだ。
「なんだ」
ロボットがいたら面白いだろうに、俺はスマートフォンの画面を横にスライドした。画面が横に流れる。オモシレェな。
夢中で触っている間、秋本が微笑ましそうに笑みを浮かべて頬を崩していたことを俺は知らなかった。
「やっと笑ったね。坂本」
勿論、彼女の独り言も俺の耳には届かなかった。
15年後の技術を存分に楽しんだ俺は、朝食兼昼食を済ませると秋本に言われるがまま浴室に向かった(シャワーを浴びろって煩いんだ)。
下着はしょうがないから、着ている物をもう一度着用するとして、問題は秋本から押し付けられた着替えだよな。
俺的には制服で行動したいんだけど、あいつが許してくれなかった。
というのも制服で買い物に出掛けるのは、俺にとっても、秋本にとっても不味い。
なにせ今日は平日で火曜日、俺は学生だし、あいつは教師。
平日の街中を秋本の知り合いに見られたら、教師として死活問題だとか。
そりゃそうだ。
教師と学生が平日の街中をぶらついてるんだ。
何かあるんじゃないかって思われてもおかしくないだろう。俺もあいつの教師人生に支障をきたしたくはないし。
なにより秋本は平日にも関わらず、仕事を休んで俺の傍にいてくれている。
面倒見の良さに目を瞠るほどだ。
秋本曰く、俺のことが心配だし、仕事に行っている間、問題行動を起こされたら敵わないとか。
そんなことしねぇよって反論はしたけどさ、
「じゃあ。ひとりで留守番できる?」
私がいない間、外出しないって言い切れる?
強く言われて俺はぐうの音も出なかった。
ぶっちゃけ、秋本が出勤している間、自分がなんで此処にいるか、行動を起こしていると思う。
それによって問題行動を起こしてしまったら…、秋本の般若が脳裏に浮かんでしまった。
思わず、身震いみぶるい。