きみとぼくの、失われた時間



契機はちょっとしたことだったというのに…、両親は毎日のように喧嘩喧嘩けんか。

顔を合わせれば、何かしら嫌味を飛ばしたり、愚痴を飛ばしたり、自分達の我慢していたことを主張したり。

居心地が悪いってもんじゃない。いい加減にしてくれと何度思ったか。


だけど、安易に口を出せば逆ギレは目に見えていた。

実際、俺は何度も止めに入って逆ギレされてしまったのだから。

いつしか止め入る行為をやめちまった。
バカを見るのはこっちだから。
 

その頃からかな、一々両親が息子達の成績等々で嫌味を飛ばすようになってきたのは。


何かあれば鬱憤を晴らすように息子達のだらしなさを指摘して、延々と愚痴ってくる。


要領の良い兄貴は成績の基準をいつもクリアしていたし、家事もそれなりにこなせていた。


頼れる兄貴だったから、両親も安心して家を任せられる長男だと思っていたようだ。



対して俺は家事なんてメンドクセェ、勉強もイマイチな次男。恰好の餌食だった。

叱られる度に不貞腐れたし、反論もしたけど、結局最後は親に軍配が挙がる。


だって向こうは正論を述べているんだ。


そりゃあ、俺の分は悪い。


だけど俺は俺なりに両親の事を気遣っていたつもりなんだ。


家事はしないし、勉強も全然だけど、二人が喧嘩しないよういつも会話作りに励んでいた。つまらないことでも話題を挙げて、場の空気を和ませようと努めていた。


兄貴には伝わっていたみたいだけど、両親には伝わらず、能天気だと悪態つかれたことも多々。


兄貴はいつもそんな俺を小ばかにしていた。

勿論、それも空気を和ませようとする手法だって分かっていたから、俺も強くは反論しなかった。



それでも両親の仲に切れ込みは入る一方。


俺はある日、兄貴に聞いたんだ。

兄貴の部屋で、漫画を読みながら『もしも離婚になったらどうするんだろう』って。


肩を竦める兄貴は気にする素振りも見せなかった。思う点はないようだったけど、俺は不安で一杯だった。


兄貴と違って、俺はデキが宜しくない。


親が子供二人をいっぺんに引き取るとも思えないから、片方ずつ引き取るんだろうけど…、二人はきっと兄貴を取りたがる。


でも兄貴を半分にはできない。

片方は必ず俺を引き取ることになるわけだ。


落胆する親の顔を思い浮かべただけで、胃がキリキリと痛んだ。



『なあ兄貴…』

『あーうっせぇな。勉強に集中できねぇだろうが。お前、自分の部屋で読めって』



シッシと手で出て行けと合図してくる兄貴に構わず、『父さんと母さんはさ』子供を産んだことに後悔してるのか、と疑問を口にした。


少なくとも一人は欲しかっただろうから、兄貴は産まれても良かっただろうけれど。



でも次男の俺はどうなんだろう。


いつも目くじらを立てて俺を叱り飛ばしてくる両親に胸が重くなった。


まさか今更になって二人目を産んだことに後悔しているんじゃ…、一人だったら減給になってもどうにかなっただろうに。
 

『かもな』兄貴は素っ気無く返した。

『そっか』微苦笑する俺は漫画を持って部屋を部屋を出ることにする。

意外と今の言葉にはショックだったのかもしれない。


兄貴に否定して欲しかったのかも。
 

『自分達の都合で喧嘩している親なんだ。俺達“兄弟”を産んだことに悔いてるかもな』

 
冷たいようで優しい兄貴は鼻を鳴らして勉強に集中し始める。

漫画を片手に退室しようとしていた俺は、兄貴の言葉に思わず笑ってしまった。


嫌味を飛ばしても、皮肉を漏らしても、兄貴はやっぱり俺の兄貴。頼れる兄貴だった。
 


「―――…約1ヶ月ぶりの帰宅だよなぁ」
 
  

夜も深まった空の下。
 

俺は築何十年も建っている二階建の一軒家を見つめ、見つめて、静かに息を吐き出している真っ最中だった。

周囲に点々と見える外灯を視界の端で捉えながら、閑寂と佇んでいる我が家に俺は苦笑い。


どうしてだろう、生まれたその時から此処に住んでいた筈なのにちっとも我が家って感じがしない。

15年分、此処で暮らし、生きてきたっていうのに、我が家に帰って来たって実感が一抹も湧かない。


1ヶ月近く秋本の部屋で居候していた日々が充実していたせいか、それとも15年経った我が家の空気の変貌に驚愕していたせいか。


どちらにしろ、「ただいま」という気分にはなれなかった。

どちらかといえば「お邪魔します」と言いたくなるこの心情。


他人の家に見えて仕方がない。


「さあて、どうしようかな。中に入ろうか。だけど、父さん母さんには見えるのかな。俺の姿」

 
どうやら今の俺の姿が見える人物達は、この時代に飛んできた俺と関わった奴等だけみたいだし。

一応血縁という深い繋がりはあるけれど、こっちに来てから一度たりとも両親には会っていない。

会いたい気持ちがなかったわけじゃない。


だけど怖かった。

15年後の両親がどう変わってしまっていたのか、知るのがどうしても怖かった。


変に緊張感を抱いてしまう。どうすることもできず、石造りのブロック塀を力なく見つめる。

あのブロック塀を乗り越えて、よく中庭に侵入していたんだよな。

兄貴とヤンチャして母さんに叱られていたっけ。



ぐるっと周囲を見渡す。


景色は殆ど変わっていない。

ちょっち近所の家々が改築されたかな? って、思う点はあるけど、目分量では殆ど変化なし。


周囲が暗いから変化に気付けないのかもしれない。
 

俺の背後をバイクが通り過ぎる。

眩い光は瞬く間に風と消えた。

残像が瞼に焼き付く。
チッカチッカとした光が瞼の裏で宙を待っている。
 

はぁっ、鉛のような重々しい二酸化炭素を吐いて一つ深呼吸。

こうしていても時間が経っていくだけだ。

アクションを起こさないとな。


まずは裏に回って中の様子を見てみよう。

カーテンが仕舞っていなければ、窓から居間の様子とかが分かる筈。
 

差し足抜き足忍び足で裏に回った俺は、早速居間の様子を知るために窓をのぞき込む。

幸いな事に窓を覆っていたのはレースカーテンのみ、メインのカーテンは閉められていない。

網戸だけ閉められた窓を恐る恐るのぞき込む。

そこには懐かしい居間の光景。

脚の短い長方形のテーブルや箪笥、それに畳。


俺の知る居間がそこにはどどーんと存在している。


ただテレビだけは新しくなっているようだった。


俺が知るテレビよりも、ずっと大きいし綺麗だ。
 

そういえばニュースで地デジ放送は終了するとか言ってたもんな。

難しいことはわっかんねぇけど、そのせいでテレビを買い換えたり、アダプターってヤツを付けなきゃいけなくなったりしたんだろ?


ブラウン管はもう古いってことだけは俺でも理解できた。


真っ白なレースカーテン越しから居間を観察してみるけど、誰もいないようだ。


気配はなく、テレビの声だけが聞こえてくる。



と。



「来れない? 急過ぎるわ、聡。再来週の日曜には顔を見せに来るって言っていたじゃない」



ドスドスと喧(かまびす)しい足音が聞こえてくる。母さんの声だ。

何処となく焦ったような声音は15年前の声とまったく変わっていないように思える。

声に老けを感じられない。

「お父さんも楽しみにしていたのよ」

貴方や千恵子さん、孫の顔を見るの、心待ちにしていたのに。

落胆交じりの声、窓辺に立つ人気に俺は咄嗟に身を隠そうと思ったけど隠す場所がない。

周辺にあるものといえば植木鉢や物干し竿くらいだ。

 
けどレースカーテン向こうの母さんは気付かない。俺の姿は見えないようだ。

 
溜息をついて、そうっと相槌を打っている。元気のない萎んだ声に俺はなんだか胸を痛めてしまった。

母さんが窓辺から離れた頃合を見計らい、意を決した俺はスニーカーを脱いで植木鉢の陰に隠すと、窓から我が家に侵入。


1ヶ月ぶり、実質15年ぶりの帰宅を果たした。


居間に入ってまず目に付いたのは最新型のテレビの存在だ。
 

大きくて綺麗な液晶画面に見惚れていたわけじゃない。

俺が注目したのはテレビ台の下に置いてある写真の数々。

スペースに溢れんばかりの写真立てが敷き詰められている。

しゃがんでそれを手に取った。


これ、俺の写真だ。


中学に入学した時の写真。両親と写っている写真は、兄貴が写してくれたものだった。

他の写真にも目を向ける。

どれもこれも俺、そして兄貴の写真ばかりだ。


小学校の写真から、家族旅行の写真から、サッカーを持っている兄弟の写真まで。


母さんが飾ったのかな。

こんな風に写真を飾る性格じゃないのに。
 


俺は写真立てを戻して居間を探索。

物は増えているみたいだけど写真立て以外、興味を惹かれるものはなかった。


瞬きをして俺は廊下に出る。

丁度、話を終えた母さんが落ち込んだように電話を切っている姿が目に飛び込んできた。


同時刻、呼び鈴と共に玄関の扉が開かれる。

父さんが帰宅したようだ。

くたびれたスーツを身に纏っている父さんは、何故だろう、小さく見えた。


本当に小さく見えた。あんなに背中が広く見えていたのに。

母さんも老けたな。


白髪、目立ってるよ。


老けた父さん、そして母さんにカルチャーショックを覚えていると、夫婦の会話が聞こえてくる。


どうやら兄貴が再来週の日曜に帰って来る予定だったんだけど、それがおじゃんになってしまったらしい。

またキャンセルされてしまったと母さんが微苦笑を漏らして、父さんから鞄を受け取る。


「そうか」同じ表情を作る父さんは、諦めたような顔を滲ませてネクタイを緩めながら先導を歩く。
 

「聡がキャンセルしてくるのはいつものことだな。あいつは何かと理由を付けて、帰りたがらないから」
 

「そうね」母さんは首肯する。

俺の姿に気付かず(やっぱ見えていないようだ)、二人は寝室に入ってしまう。


俺も後に続いた。父さんからジャケットを受け取った母さんは、それにハンガーに通している。

何気ない光景だけど、俺にはびっくり仰天の光景だ。


二人が険悪なムードになってからは、そんなところ、一度たりとも見なかったから。


物寂しそうにしている母さんは、孫の顔が見たかったと未練がましそうに口ずさんでいる。

何も言わない父さんは家着に着替えると、先に食事にすると告げていた。


その一声により、母さんは食事の支度へ。

本人は居間で晩酌を開始した。
テレビを見る父さんの顔はやけに疲労している。顔色が悪いようにも見えた。

向かい側の席に腰掛けて父さんを見つめていると、母さんが料理を運んで戻って来る。

母さんも食事はしていなかったようで二人分の箸と皿がお盆には載っていた。


今日の献立は焼き餃子に豚汁か、父さんの好物だな。
 

夫婦はテレビを見ながら淡々と会話を交わしていた。

それは今日の日常だったり、テレビの話題だったり、ご近所のことだったり。


本当にどうでもいいことを会話している。

久々の光景に俺はちょっとだけ嬉しくなった。

俺の知る両親は喧嘩ばっかだったから。


「今度、大橋の子供が結婚するそうだ」
 

父さんと母さんは社内恋愛で結ばれたカップル。
 
だから父さんが同僚の名前を口にすると、「ああ。あの大橋さん」母さんは記憶を手繰り寄せて軽く返事。

もうそんな時期になってるのね、微笑ましそうに目尻を下げる母さんだったけど、一瞬にして表情が曇る。


「健と同い年だったわね。大橋さんの息子さん」

 
ということは30でゴールインね、母さんの問いに父さんは間を置いて頷く。

訪れた沈黙の重さといったら、どう表現すればいいやら。


俺は居た堪れない気持ちになった。


まさか次男が傍にいるなんて露一つ知る由もない両親は、静かに食事を進めている。

「もう15年か」


沈黙を裂いたのは父さんだった。
テレビを見る振りをして、写真立てに視線を流した。


「健がいなくなって15年。あっという間の15年だったな」


また沈黙が訪れる。

母さんが反応を示さないせいだ。


生きていれば30か、父さんのぼやきにようやく母さんが微動だにする。
 

「そういえばね」話題を切り替えることで場を乗り切ろうとする母さんは自分から切り出しておいて、俺の話題に触れたくないようだ。

父さんも察しているのか、それ以上の話題は出さない。


他愛もない話題で盛り上がろうと努めている。


その内、母さんが「足りないでしょ」なにかつまみになりそうなものを作ってくると腰を上げた。


台所に向かう母さんの背を見送った父さんは、意味深に溜息をついてビールを飲み干すと写真立てに視線を流す。目を細めた。

飽きることなく父さんを見つめていた俺だけど、不意に父さんが軽く両目頭を押さえていたことに心臓が凍りそうだった。

玄関先で見た父さんの小さな姿が、より一層小さく見える。こんなにも父さんは小さかったっけ。


淡々と食事を進めている父さんを向かい側でいつまでも見つめていた俺だったけど、居た堪れない気持ちになって腰を上げる。

 
重い足取りで台所に向かった。

 
ひものれんを潜って中に足を踏み込むと、母さんが父さんのためにつまみをこしらえている。

メニューはチヂミみたいだ。


ザックザク、ニラを適当な大きさに切り分けている。

微かに香るニラ特有の匂い、まだ俺の嗅覚は2011年に通用するみたいだ。
 

俺に背を向けて材料をこしらえる母さんは、不意に手を止めた。

手拭用であろうタオルを掴むと、それで目と鼻を擦る。

振り返った母さんの表情に俺は言葉を失った。
疲労しきったその表情、本当に母さんは老けてしまっている。しごく老けている。