きみとぼくの、失われた時間



「はぁあ?! あ、あ、あんただったの、遠藤! こ、こんなクサイラブレター書いたの、あんたなわけ?!」


わなわなと震えている秋本は犯人に最低だと呻く。

素知らぬ振りで軽く両手を挙げる遠藤は口笛を吹き、にへらへらと笑声を漏らす。まんま酔っ払いの態度だ。


「だって坂本を応援したくなってよ。ちょーっち手を貸したわけだ。
だけど今読み返すとクサイな。激笑える。んでもって、これをだーいじに取ってる秋本も一途だよなぁ」


「なッ…、え、え、遠藤ぉおおお!」

「なんですか? ツーンデレセンセイ」


もうついていけねぇや、アラサーの会話。

「ぶっ飛ばすわよ」バンバンテーブルを叩いて怒りを示す秋本と、「照れるなって」揶揄している遠藤を交互に見やり、俺は溜息をついた。


酔っ払い、すこぶるメンドクセェ。ほんとメンドクセェ。


だけどこの何気ない光景の中にも、俺の居場所は存在している。


どうしてだろう、そう思うと、とても心が暖かくなった。
  


完全にデキ上がったアラサー組がテーブルに伏して、もしくはごろんとその場で横になってしまった頃、俺は重い腰を上げて寝室に足を忍ばせた。


通学鞄を肩に掛け、毛布を片手にリビングへ戻ると各々それを肩から掛けてやる。

途中から何杯目か数えるのも疎ましくなったほど、二人は飲んだくれた。


それだけ日頃のストレスが溜まっているのか、それとも。
 

すやすやと眠っている同級生にフッと笑みを零し、俺は踵返す。

音を立てないよう移動して洗面所へ。
そこで姿を確認してみる。


いつものように映っていないかと思いきや、驚愕。

鏡には薄っすらと俺の姿が映っていた。


それも透けている箇所だけ映っている。


部分的に映るなんてなんとも言えぬホラーだけど、それでも俺は自分の姿がそこに映っている現実に嬉々を感じた。


「あ」俺はふと変化に気付く。
 

そっと左の手の平を鏡面に添えた。

鏡面世界の俺の手と、現実の俺の手の大きさが違う。

鏡面の手の方が大きい。
まるで成長したような手の平。


これは俺の手なのか?

それとも別人の手?


結んだり開いたりして真偽を確かめる。

俺の意思を宿したリアルの手は、鏡面の手と物事に連動している。


嗚呼、これは俺の手だ。

俺の手なんだ。じゃあなんでデッカイんだろう?
 


と、鏡越しに目が合った。
 

誰と目が合ったか、それは部屋の主。

テーブルに伏して夢路を歩いた筈なのに、彼女は俺の背後に立っていた。

鏡に映っているようで映っていない幽霊に泣き笑いする秋本は、「行く?」と声を掛けてくる。

うんっと頷いて俺は行って来ると綻び、体ごと振り返る。

「俺、家に帰らないと。どうしても、帰らないといけないから」

酒臭さを身に染み付かせている秋本は、「そう」と相槌を打って笑みを返してくれた。

 


「悔いは残したくないでしょうから、あんたの好きにしなさい。けど約束は忘れないでよ」

「また帰って来るよ。絶対に戻って来る」
 


約束だと目尻を下げる。

信じてくれる彼女と一度だけ、抱擁し合い、俺は玄関に向かった。

こうして見送ってくれる彼女が起きているということは、もう片方の酔っ払いも狸寝入りしているに違いない。


まったく空気を読んでくれる親友だな。

えーっとKYっつーんだっけ?

あれ、それは空気が読めない人間を指すんだっけ?


んじゃあ、ノットKYだな、親友は。
 

「いってらっしゃい」


履き慣れたスニーカーを履いてしまった俺に、いつもの言葉を掛けてくれる彼女。


俺達は決して恋人ではない、ただの両想い同士だ。
 


だからこそ余計な言葉を掛けず、彼女は俺を見送ってくれる。
 

俺は彼女に向かって、満面の笑顔を作り、ドアノブに手を掛けて挨拶を返した。





「おう。いってきます」





⇒5章
  




【5】
  
 

  See you again
 
 



 


2011年の未来で俺は知った。


時を過ごす大切さ、尊さ、そして君達と大人になる愛しさを。



のらりくらりと今この時を過ごす。
 

それだけでもその一刻一刻は砂金にも勝る価値がある―――…。
 
 

 
* * *
  
 
俺の家庭、坂本家は極々平凡な四人家族。


某株式会社に勤めているリーマンの父さん、週3日の割合でパートに励む母さん、二つ年上の兄貴に俺。

どっこにでもいそうな普通の家庭でとびっきり裕福でもなければ、とびっきり貧乏でもない、そこそこの生活をしている家庭だった。
 

それなりに仲の良い家族だったとは思う。

よく会話も交わす家族だったし、幼少は兄貴と一緒に遊びにもよく連れて行ってもらっていた。


兄弟同士、仲もそれなりに良かった。


まあ、喧嘩もしょっちゅうだったし(いっつも俺が泣かされていたっけ)、兄の特権のせいでよくパシりにもされていたけれど、何だかんだで仲は良かった。
 


いつまでもこの関係が続くんだと思っていた、ある日のこと。


睦ましかった両親が手の平を返したように喧嘩をするようになった。

原因は不景気での経済圧迫、家計への打撃、子供の教育費問題。加えて父さんの減給。


冷え込む経済のせいで父さんの会社が社員の給料を減らしてしまったらしい。

しかも春のボーナスもその年から無し。


子供は成長に伴って教育費も掛かるもんだから、父さん、母さんは堪ったもんじゃない。
 

最初こそあれやらこれやら節約しようと話を進めていたんだけど、段々と節約に対する意見と物の価値観が食い違ってきて、ついには自分達の不満を爆発。


水掛け論で収拾のつかない喧嘩を勃発させてしまった。


すぐに収まるだろうと思っていた喧嘩も決着が付かず、その日を境に、二人の仲に亀裂が入ってしまった。


俺が中3に進級した頃だった。



契機はちょっとしたことだったというのに…、両親は毎日のように喧嘩喧嘩けんか。

顔を合わせれば、何かしら嫌味を飛ばしたり、愚痴を飛ばしたり、自分達の我慢していたことを主張したり。

居心地が悪いってもんじゃない。いい加減にしてくれと何度思ったか。


だけど、安易に口を出せば逆ギレは目に見えていた。

実際、俺は何度も止めに入って逆ギレされてしまったのだから。

いつしか止め入る行為をやめちまった。
バカを見るのはこっちだから。
 

その頃からかな、一々両親が息子達の成績等々で嫌味を飛ばすようになってきたのは。


何かあれば鬱憤を晴らすように息子達のだらしなさを指摘して、延々と愚痴ってくる。


要領の良い兄貴は成績の基準をいつもクリアしていたし、家事もそれなりにこなせていた。


頼れる兄貴だったから、両親も安心して家を任せられる長男だと思っていたようだ。



対して俺は家事なんてメンドクセェ、勉強もイマイチな次男。恰好の餌食だった。

叱られる度に不貞腐れたし、反論もしたけど、結局最後は親に軍配が挙がる。


だって向こうは正論を述べているんだ。


そりゃあ、俺の分は悪い。


だけど俺は俺なりに両親の事を気遣っていたつもりなんだ。


家事はしないし、勉強も全然だけど、二人が喧嘩しないよういつも会話作りに励んでいた。つまらないことでも話題を挙げて、場の空気を和ませようと努めていた。


兄貴には伝わっていたみたいだけど、両親には伝わらず、能天気だと悪態つかれたことも多々。


兄貴はいつもそんな俺を小ばかにしていた。

勿論、それも空気を和ませようとする手法だって分かっていたから、俺も強くは反論しなかった。



それでも両親の仲に切れ込みは入る一方。


俺はある日、兄貴に聞いたんだ。

兄貴の部屋で、漫画を読みながら『もしも離婚になったらどうするんだろう』って。


肩を竦める兄貴は気にする素振りも見せなかった。思う点はないようだったけど、俺は不安で一杯だった。


兄貴と違って、俺はデキが宜しくない。


親が子供二人をいっぺんに引き取るとも思えないから、片方ずつ引き取るんだろうけど…、二人はきっと兄貴を取りたがる。


でも兄貴を半分にはできない。

片方は必ず俺を引き取ることになるわけだ。


落胆する親の顔を思い浮かべただけで、胃がキリキリと痛んだ。



『なあ兄貴…』

『あーうっせぇな。勉強に集中できねぇだろうが。お前、自分の部屋で読めって』



シッシと手で出て行けと合図してくる兄貴に構わず、『父さんと母さんはさ』子供を産んだことに後悔してるのか、と疑問を口にした。


少なくとも一人は欲しかっただろうから、兄貴は産まれても良かっただろうけれど。



でも次男の俺はどうなんだろう。


いつも目くじらを立てて俺を叱り飛ばしてくる両親に胸が重くなった。


まさか今更になって二人目を産んだことに後悔しているんじゃ…、一人だったら減給になってもどうにかなっただろうに。
 

『かもな』兄貴は素っ気無く返した。

『そっか』微苦笑する俺は漫画を持って部屋を部屋を出ることにする。

意外と今の言葉にはショックだったのかもしれない。


兄貴に否定して欲しかったのかも。
 

『自分達の都合で喧嘩している親なんだ。俺達“兄弟”を産んだことに悔いてるかもな』

 
冷たいようで優しい兄貴は鼻を鳴らして勉強に集中し始める。

漫画を片手に退室しようとしていた俺は、兄貴の言葉に思わず笑ってしまった。


嫌味を飛ばしても、皮肉を漏らしても、兄貴はやっぱり俺の兄貴。頼れる兄貴だった。