きみとぼくの、失われた時間



背中に回される腕が震えているのに気付いた。

力の限り抱擁を返している俺もまた、彼女と同じように震えているに違いない。
 

「好きなのよ」


アラサーは、まるで堰切ったように15年分の気持ちを俺に伝えてくる。 

やめてくれと言っても聞きやしない。

ただ馬鹿の一つ覚えに、温めていたの感情を俺に伝えてくる。


秋本から見れば、俺は子供もコドモ。

たかが中坊の同級生だろうに、彼女は好きだと教えてくれる。


密接になる体から伝わる鼓動と一緒に、気持ちを教えてくれる。
 

嗚呼、胸が焼け爛れそう。

消えられねぇじゃんかよ。

俺、15年の月日を経て告白の返事を貰っちまった幸せ者だから、余計消えたくなくなるじゃん。
 

「私さ、馬鹿だから。坂本に好きって言ってもらえるのが当たり前になっていたのよね」

「秋本…」

「当たり前が当たり前じゃなくなる時…、事の重大さを知る。ホンット愚行な知り方ね」


難しい言葉使うんじゃねえよ、センセイ。

生徒に分かりやすく噛み砕いて説明してくれって。俺、国語は大して得意じゃないから、愚行とか言葉が難しいぞ。
 

泣きたい気持ちを押し殺し、俺は上擦った声で幸せ者だと彼女に伝えた。

そしてお礼を言った。

気持ちを教えてくれてありがとう、好きになってくれてありがとう、こんな俺をずっと捜してくれてありがとう、何度もなんどもお礼を告げた。

15年前、お前に失恋したと思っていたけど俺はお前の心にちゃんといたんだな。


俺はお前を好きになって良かったんだな。



お前の中に、俺の居場所あったんだな。
 

顔を上げて彼女の瞳を見つめた。潤んだ瞳に向かって笑ってみせる。

泣きそうな笑みかもしれないけど、俺も男だ。精一杯見栄を張ってやる。


「お前は美人になったよ」


本当に美人になった、自信を持ってこれからの恋愛に望める。

ほんとだぞ。マジだぞ。嘘じゃないんだぞ。

アラサーって馬鹿にしてきた俺だけど、俺はお前の笑顔に何度も救われた。


大人びたその笑みに胸を熱くした。

その優しさに鼓動を高鳴らせた。


俺は15のお前に恋して、30のお前にも恋していた。


きっと、そう、きっと。
 

目に掛かっている前髪を払って、俺は秋本の頬を撫でる。


「惚れた相手が言うんだ」


お前は美人さんだ、自信持てよ。
頬を崩して繰り返す。お前は良い女だよ。


どうしてだろう、繰り返しているうちに何だか虚勢が崩れてきた。

言葉に形作っていくうちに、傍にいられないって実感が湧いてきたのかもしれない。


俺の視界が微かに揺れる。


もっと男前に何か言ってやりたいのに、気の利いた言葉を言ってやりたいのに、言葉が宙で迷子になってしまう。


その点に関しては俺、やっぱり子供なのかもしれない。


ふっと秋本が俺の目尻を片親指でなぞってきた。
 

「あんたはさ」


まだ私のこと、好き? 15の自分に対する気持ちは知っているけれど、30の自分に対する気持ちはまだ聞かせてもらっていない。

だから教えてと、何処となくヨユーある笑みを作ってくる。垢抜けたその笑みに年の差を感じる。

同級生でありながら、同級生じゃない俺等。

気持ちはなんとなく生徒と教師の恋愛物語を綴っているよう。


だけど俺達は正真正銘、1996年に同じ場所・時間・教室で生きていたクラスメート。


15と30、俺は二度、同じ人物に恋した。


つまり俺の気持ちは二倍、好きってことになる。



「俺は秋本のこと、好きじゃない」
 


好きの二乗は“好き”じゃないと思うんだ。

なあ、秋本。俺はお前のこと、好きじゃないよ。

だけど、お世辞にも最愛の言葉を言うつもりもない。


だってまだまだその言葉を口にするには早いコドモ、不似合いだって鼻で笑われちまう。
 

だからこの言葉を贈ろう。


着飾った言葉じゃない、真摯な言葉、コドモな俺でも似合えるこの言葉を。




「俺は秋本が大好きだ。どーしょーもないくらいに」




泣きから、見る見る泣き笑いに、まるで雨空からぽっかり青空が顔を出したように彼女の表情が崩れる。

それは俺の知る、俺の知った、秋本の笑顔。
否、初めて見る眩い笑顔。記憶の秋本と目前の秋本が笑顔が一致して、新たな彼女の笑顔が彩られる。
 

秋本が両膝を付いているせいか、少し俺の方が背丈的に高い。


そっと彼女を見下ろして、俺はキャップ帽を取っ払って床に落とす。

期待と予感を察知してた彼女の両頬を包んで、俺は体感があるうちに感じた。


その柔らか頬と、ぬくもりと、しとやかな唇を。


一度目は俺から彼女へ一方的な口付けを、

二度目は彼女から俺へ一方的な口付けを、



そして三度目は意識し合って口付けを。



そうして15年分の空白を埋めあうように何度も唇を重ね合った。

何度も、なんども。




* 
  

2011年の夜空にぽっかりと浮かぶ半月は優しい色を放っていた。

1996年の夜空に浮かんでいた月もこんな色をしていただろうか。


うん、きっと放っていたに違いない。

だってあの空に浮かぶ月は、遙か昔から地球を見守っている衛星なのだから。


それこそ人間が原始人だった時代から見守っていただろう。

月にとっちゃ15年なんて月日、爪先くらいの時間帯なんだろうな。
 

先に校舎を出て夜空を見上げていた俺は、視線を戻し、そしてそのまま下に流す。

左足先から膝にかけて半透明になっている俺の体。まんま幽霊になった気分で、心情は複雑。

どうせなら両足が透けてくれたら気分も、少しはマシだったかもしれない。


目前の現実はジワジワと時に侵食されている気分に陥る。
 

例えるなら、そうだな。時という名の毒に足が侵されている、みたいな?
  

敢えて、その足を見なかったことにした俺は頭の後ろで腕を組み、秋本が来るのを待つ。

彼女には駐車場前で待っていると告げているから、もう来る頃だろう。


俺は校舎に寄り掛かり、敷き詰められている砂利をザクザクと爪先で蹴飛ばして暇を弄ばせる。


程なくして彼女が姿を現した。
 

半端幽霊少年を目にして、なんとも言えない表情を浮かべている。

嗚呼困った。
俺もなんとも言えない表情でしか彼女を迎えられない。


静寂というよりは沈黙が似つかわしい、この空気。先に空気を裂いてくれるのはいつも秋本からだ。

「しょうが焼きにでもするか」

今晩の献立を口にしてくる彼女は、俺の大好物を作ってやると明るく笑った。

嬉しい申し出だけど、俺は帰れない。

もう彼女の部屋には帰れない。帰るつもりもない。


俺が此処で秋本を待っていたのは、ちゃんとお別れを言うためだ。
 


「秋本、あんがとな。だけど俺、行かなきゃ」
 

廻り始めた時の中、この2011年という時代で俺はやるべきことがある。

だから帰れないと彼女に告げる。
晴れて念願の両想いになった矢先の破局だなんて、時って残酷だよな。

けど、このままじゃ俺は悔いを残すような気がしてならない。
 

すると彼女、「ご飯を食べる時間も無さそう?」突拍子もないことを聞いてきた。

真ん丸に目を見開く俺は体内時計と相談してみる。

まだ大丈夫とは思うけど、急ぐに越したことはないし。


生返事でその場を凌ぐ。
 

秋本は大丈夫なら一旦帰りましょうと、いつもどおりキビキビと振舞って見せた。


いやだから、帰れないって。

だって時間が経てば経つほど、俺の体は透明度は全体に広まる。

現に左足が透け始めているんだ。

この光景は俺以上に、きっと傍にいてくれる人が辛いと思う。


俺は帰れない。
秋本の傍にもいられない。

やることを済ましたら、ひっそりと消える予定だ。
 

「あんたって馬鹿ね。そう意地を張らなくてもいいのに」


目尻を下げて俺に歩んでくる秋本は、目の前に立ってそっと右肩に手を置いてくる。

「ひとりじゃ」寂しいでしょ、秋本は柔和に綻んだ。


「あんたって泣き虫だから、何かあったらすぐ泣くじゃない。寂しさのあまり、またビィビィ泣いたりして」

「な、泣かねぇっつーの」


決まり悪く唸る。

秋本の前で泣いたことがあるから強くは反論できなかった。

顔を顰める俺に、「それに消えるなら」彼女は儚い微笑を浮かべ、目を細めてくる。


「私の前で消えて。最後まで、あんたを見送らせてよ」
 


心臓を鷲掴みされたような錯覚に陥る。

秋本、お前、自分が何を言ってるのか分かってるのか。

お前の願いは、ガキの俺でも理解できるほど、辛いものなんだぞ。


俺が秋本だったら、絶対に辛い、その願い。


けれど彼女は俺に言うんだ。

突然消えられた方がもっと辛いのよ、と。
 

そんなことされてしまったらまた自分は何年もなんねんも、淡い期待を抱いて捜してしまう。帰りを待ってしまう。


だったらちゃんと現実を受け止めたい。


秋本はそうのたまった。


「大丈夫」私は大人だから、余裕があるのだと胸を叩く。

根拠のない強がりだ。

俺は尻込みしたけれど、彼女の言い分も理解できる。


不本意だとはいえ、忽然として消えたせいで、俺は大切な人達を傷付けてしまったのだから。
 

「それにね」


あんたに帰る場所を作ったのは私よ、秋本は軽く俺の頬を撫でる。

言ったことは最後まで責任を持って果たしたい。
教師らしい台詞には、確かな好意が含まれていた。今の俺には分かる。
 

「消えるんだぞ」「ええ」「辛いぞ」「分かってるわよ」「今なら撤回できるぞ」「しないわよ」「嫌って言ったら」「泣く」「ガキ」「煩いわよ」「アラサーのくせに」「そのアラサーとキスしたのは?」「………」
 

どうあっても秋本先生は譲ってくれないらしい。

泣きたい気持ちを抑え、俺は葛藤の末に承諾。
俺を好きだと言ってくれる彼女の最初で最後の我が儘を受け入れることにした。


すべてが終わったら、またお前のところに戻って来ると約束を取り付ける。

最後は彼女の傍で迎えると微笑した。


……なんだか、こんなことを言うと本当に死ぬみたいで嫌な気分になるけど、表には出さなかった。出したところで現状は変わらない。
 
 

時間は押しているけれど、夕飯だけは絶対に食べて行きなさいと彼女に強くと言われたから俺は助手席に乗り込んだ。

半幽霊になり掛けているにも関わらず、俺の腹の虫は元気に鳴いてくれているしな。

まったく、どーなってるんだ俺の体は。
透け始めても生理的欲求をするなんて。

「あら」運転席に乗り込んだ秋本は、ハンドバックから取り出したスマートフォン画面を見て目を削ぐ。

「遠藤から着信が」しかも五分おき、凄い数、目を見開いて電話を掛けた。


そういえば俺、遠藤に連絡してそのまんまだったな。あいつのことだからきっと。


「うん。うん。今から帰るところ。あんた今、私のマンション前にいるの? え、坂本? いるわよ。
……坂本、遠藤から。すっごく怒ってるんだけど」

「え、あ…おう」


マジかよ、出るの、超怖いんだけど。
 
恐る恐るスマートフォンを受け取って、「もしもし」俺は遠慮がちに相手に声を掛ける。


『坂本。マジ、ざけてるんじゃねえぞ!』


相手の怒声に脳みそがぐらぐら、嗚呼、耳の鼓膜が破れそう。
 

ちょっと距離を置いて、「遠藤あのさ」状況を説明しようとするんだけど、なあにが親友でありがとうだバカヤロウ。お前、俺にシメられたいのか? ああん? すぐツラ寄越せ、お望みどおりシメてやっから!


息継ぎなしに罵倒してくる。

もはや感服の域だ。


ここまできて喧嘩だけは避けたい。俺は落ち着くよう相手を宥める。

だけど遠藤はこれが落ち着いてられるか畜生、お前みたいな奴はいっぺん、俺がシバき倒してやる。年なんてカンケーねぇんだからな。

やっぱり息継ぎなしに罵倒。


すっげぇ、一語一句噛まないお前、マジすげぇ。


―――…嗚呼、ごめん遠藤。俺はまたお前を傷付けちまうな。ずっと探してくれていたのに。


「遠藤。俺、あんま時間が無いんだ。お前ともっと喋りたかったけどな。このままじゃ数日も経たず、消えちまう」

『消えるなって言葉は、安易に使うなって言っただろうが。ぶっ飛ばすぞ』


じゃあなんて言えばいいんだよ、他に表現が見つからないっつーの。成仏する、とか?
 


発進する車、ゆるりと体が軽く揺れる。

「神社のご神木がさ」

教えてくれたんだ、お前にはもう時間がないって。

『だったら』

そのご神木とやらを切り倒せば、この事態は免れるのか?
罰当たりなことを言う遠藤に、俺はものすっごい慌てた。


今の遠藤ならやりかねない。
 

「馬鹿言うなよ!」『どっちが馬鹿だっ。くそ燃やせばいいのか』「ぶ、物騒だぞ!」『るっせぇ!』「祟られるって」『俺はその木を呪いてぇよ!』「え、遠藤」『やっぱ燃やすか』「や、やめろって!」

 
駄目だ、遠藤は完全に頭に血が上っている。
 

運転席まで聞こえるであろう俺達の会話に、秋本は子供ねぇっと肩を竦めて微笑。


男って幾つになっても子供よねぇ、能天気に笑ってくれる秋本を余所に俺は憤っている遠藤を宥めに掛かっていた。


延々続くであろうやり取りだと思われていた会話も、車がマンションに到着することで打ち切られる。

通話のまま下車した俺はスマートフォンを片手に、ビクつきながら秋本と駐車場を後にした。

重い足取りでマンション入り口に向かうと、そこには憤った阿修羅…、じゃね、親友様が仁王立ちしていたりいなかったり。


ゴクリと生唾を飲む俺は自然と秋本の背に隠れてしまう。


情けない?

馬鹿、相手は憤ったアラサーだぞ。大人だぞ。怖いじゃねえかよ。
 

ブツッ、スマートフォンから電話の切れる音が。


同時にギッとこっちを睨んでくる親友(アラサー版)。


秋本は「よっ」愛想よく手を挙げているけど、俺は超ビビッて相手の顔を直視できない。




愉快気に秋本は首を捻って俺を見下ろす。
 

「お待ちかねよ」人差し指で前方を指す秋本に、意地悪だと苦言。

背の陰から出るに出られない俺に焦れた遠藤が、ぐわっしぐわっしと大股でこっちにやって来る。

「坂本!」怒声を上げる親友はあっという間に、秋本の後ろに回ってくる。

憤怒している相手を直視した俺は大慌てでスマートフォンを秋本に押し付けると、一目散に逃げた。


が、襟首を掴まれて捕獲されてしまう。


ズルズルと引き戻された俺は逞しい腕によって首を締めてしまった。

宣言どおり、俺はシメられた。


「ちょ。遠藤、ぎ、ギブ! 子供いじめ良くない!」

「子供ぶってんじゃねえぞ! テメェもアラサーだろうが、あーん?」


ぶってるんじゃなくって、俺は15のガキだっつーの! そりゃそれなりに大人かもしんねぇけどさ。

アップアップしている俺なんてお構いなしに、遠藤は何がごめんで何がありがとうだこの野郎が、と腕力を強くする。
 

く、苦しい…、成仏する前に召されそう。
 

腕を叩いてマジでごめんと叫んだ刹那、俺は自分の左手の変化に気付いて驚愕。

息苦しさもそのままに、動きを止めて恐る恐る左手の甲を見つめた。

指先が薄っすらと半透明化している。


左上半身の侵食が始まったんだ。

この調子じゃ三日も持たないんじゃないか。


持って最高一週間かもしれない。


遠藤が舌打ちする。


「やっぱあのご神木か」


切り倒したら解決すんだろ、そうだろ、子供染みた暴言に俺は頓狂な声を出す。

馬鹿、そんなことしたら最後、社会から問題視されるって。
罰当たりもいいところだし、何よりお前、そんな事件を起こしたら職を失うぞ。神社の神様だって怒るに違いない。