きみとぼくの、失われた時間



嗚呼。

声にならない声が漏れる。顔がくしゃくしゃになる。視界がぶれる。


崩れるように秋本は少年を抱き締めて膝を折った。
 

鞄を落とし、つられて膝を折る少年は突拍子もない秋本の行動に息を殺す。

「街中で何するの、お姉さん」

途方に暮れる少年を掻き抱いて、


「何処に行ってたのよ!」


怒声を上げた。


積もりに積もった感情を相手にぶつけて、背中に軽く爪を立てる。

ずっと捜していた。ずっとずっと心配していた。
皆、あんたがいなくなって心配していた。
 
化粧が崩れることも構わず目尻から雫を流し、肩を上下に動かし、相手の両頬を包んで馬鹿と連呼。
 

「あんたがいなくなってっ…、どれだけ私が…、わたしがっ。
散々好きだって言っておいてっ、消えるなんてっ、あんまりでしょ? ねえ?!」
 

そう責め立てると、「好きって…」少年は今度こそ迷子になったような顔を作ってしまった。

可哀想なほど途方に暮れている少年に、「私よ」私が秋本桃香よ、更なる混乱を与えてしまう。



桃香は自分で手一杯だった。
 

あれほど捜していた人物が此処にいるのだ。
もうなりふりなど構っていられない。

声を上げ、泣きながら秋本は少年の体をただひたすら抱き締める。

彼が幽霊だろうと、なんだろうと、こうして目の前にいる。


それだけで自分にとって嬉々であり、願ってもない奇跡なのだから。
 

成されるがままその場に座り込む少年を飽きもせず、いつまでも、いつまでも、それこそ声が嗄れるまで泣き続けた。



秋本にとって、少年、坂本健とはかれこれ15年ぶりの再会だった。



⇒1章



【1】
  
 

  15の坂本 健
 
 
 
 



浦島太郎。


誰しも一度は読んだことのある童話だろう。



俺はまさしく、その童話の浦島太郎だ。



おかしいな。

俺、竜宮城に寄り道した記憶なんてないのに。







「私が秋本桃香よ。秋本桃香なのよ」



見慣れた街、でも見知らぬ街を彷徨っていた俺に声を掛けてきた姉さん。 
 
相手のことなどお構いなしに抱き締めてきたその姉さんは、散々人を捲くし立てた挙句、自己紹介をして俺を混乱に陥れた。


お前があの“秋本桃香”ってどういうことだよ。


お世辞でもパッと見、中学生には見えない。
どっからどう見ても成人した女にしか見えないお前が、あの秋本桃香? 


そりゃあ、面影はあいつに似てる似過ぎてるけど。


だけど俺の知る秋本桃香は15歳、俺と同級生だぞ。
 

なんでお前、成長してるんだよ。
背丈も顔立ちも、ナイスなことに胸も、全部、成長しちまって。
 
 
泣きじゃくる姉さんの腕の強さを感じながら、ただただ俺は窮し切っていた。
 

此処は何処だ?

俺の知る街だよな?


なのになんで俺は街に親しみを感じないんだ?
  
 


「おれ、どうしちゃったんだろう」




いつまでも放してくれない姉さんの腕の中で瞼を下ろす。

もう一度、寝ちまいたい。


これは夢だと、誰かに言われたい―――…。






1996年の某月某日金曜。
曇りのうち晴れ。
  
 

その日、俺、坂本健は自暴自棄に似た感情を抱いていた。
 

ひとことで言えばそうだな、何もかもが嫌になっちまったってところだ。
 

今朝からツイてなかったんだ。

登校するまで親の大喧嘩を脇目に飯は食わないといけないし、学校に着いたら着いたで数学の宿題があったことを思い出すし、授業時間に忘れたことを素直に謝ったら二倍宿題を出されたし。

 
かと思えば昼休みの時間、俺がヘマしちまったせいで親友を怒らせて喧嘩しちまうわ。

極めつけに今日こそは…、と好きな女の子に気持ちを伝えようとしたら、バッドタイミングなことに隣のクラスの奴に告られているシーンを目撃。

俺が告白している時とは180度違った態度で、はにかんだ笑みを見せていたもんだから気分は地面にめり込む勢いだった。
 

そうか、俺の気持ち、超迷惑だったんだな。

 
じゃないと他人(ひと)にあんな表情、見せないだろ。

俺には一度だって見せてくれなかったぞ、あんな笑み。


粋がった悟りを開いてみるけど、わりと、嘘、結構悲しみに暮れた。

失恋ってほろ苦く、しょっぱいんだなぁっと落ち込んで下校。
 


取り敢えず、失恋は置いておいて、怒らせた親友をなんとかしないと慰めても貰えない。
 


傷心を引き摺ったまま帰宅した俺は詫びの品を贈ろうと、俺と親友がこよなく愛しているアーティストの限定版CDを手に取って鞄もそのままに外出。


その際、居間で母さんがばあちゃんの家に電話を掛けて「もう駄目なの私達」縋るように話していたもんだから、ああ、もう駄目なんだ、父さんと母さん。


と、他人事のように思ったり思わなかったり。


両親が駄目になったら兄貴と俺、どうなるんだろう。


少なくともどっちとも兄貴は引き取りたいだろうな。

成績良いし、気が利くし、家事も快く引き受けるし。





 
鬱々とした気持ちを抱きながら、親友の住むマンションに着いた俺はビニール袋に包んだCDを郵便受けに投函。
 

そのまま踵返して帰路を歩こうとしたんだけど、丁度親友の姿を発見して声を掛けようと思った。
 

だけど、その行動は止まっちまう。

あいつは同級生の友達二人と和気藹々駄弁りながら帰っていた。


なんとく声を掛けづらい、咄嗟に曲がり角の塀陰に隠れる。


そんな俺の耳に飛び込んできたのは、親友の遊びの誘い。




「明日さ、三人で遊ぼう。俺の家でゲームしようぜ。坂本? 知るかよ。ぜってぇ呼ばねぇ」


 

相当怒ってるらしい。

いつもの俺だったら、「やっべぇ。謝り倒すしかねぇよな」で済むことだった。

けど、その時の俺は色んな事が重なって悲観気味。

自嘲を零して、こんなことを思ったんだ。


親友って思ってるの、俺だけなのかもなぁって。


大きな疎外感を抱いてしまった。

誰よりも仲が良い親友とたった一回の喧嘩で、たった一回の除け者行為で、俺の心はポッキリ折れかけた。
 
 
親、親友、片恋。


三つの心労がいっぺんに圧し掛かったからかもしれない。


押し潰されそうな感情を抱きながら俺は帰路の途中、自分の存在について考えた。

なにもかもがちっぽけに思えたのは俺が弱いからなのだと結論。

自己嫌悪に自暴自棄、此処には俺の居場所なんてないのかも、女々しくも馬鹿馬鹿しい念を抱き、小さな自嘲を漏らして帰路から脱線。
 

家に帰ることを諦め、自分の居場所を探すために住みなれた町を右へ左へ彷徨した。 


今、考えると居場所探しという名目の自分探しだったのかもしれない。




嗚呼、俺が“俺”であるための場所は何処だろう。

 


強い気持ちに駆られた俺は暮れる空の下。

くたびれた通学鞄をお供に商店街を通り抜け、行きつけの駄菓子屋を横切り、墓地の側の沼地を眺めて、居場所を求めて、もとめた。


それこそがむしゃらに。
 

ついに辿り着いた場所、そこは住宅街から外れた神社だった。
 

性格上、まったく立ち寄らない神社は閑寂として人の気がまるでなかった。


都会から隔離された場所というべきなのか、それとも人から忘れ去られた聖域というべきなのか、なんの神様が祀(まつ)られているのか分からないけど、神社は物寂れていた。


だけど俺にはひどく心地が良くて、迷う事無く塗装の剥げかけた鳥居を潜り、石段を上って、本殿前に立つ。


見れば見るほど古びた本殿だ。

それなりに由緒ある神社なのか…?
 

両隣の苔の生えた狛犬を眺めた後、俺はおもむろに生徒手帳から十円玉を取り出す。

お守り代わりにしていた貴重なギザ十だけど、小一時間お邪魔するんだ。

それなりのことはしないと罰が当たる。


これ以上の不幸・不運はごめんだ。


俺は賽銭箱に十円玉を放って、パンパンと手を叩き合掌。
 

頭を下げて、「お邪魔させてください」俺には他に行く場所がないんです、此処の神様に事情を説明した。

傍から見れば怪しいこと極まりないけど、此処には俺と神社の神様、それから狛犬くらいしかいない。


盛大な独り言を漏らしたって大丈夫だろう。


 

神様に頭を下げた後、俺は近くのご神木らしき大木下に移動。
腰を下ろして一休みさせてもらうことにした。
 

「凄いな。でけぇ」


根本に寄りかかる俺はご神木を見上げて感嘆、ご神木は大層立派な図体をしている。

一体お幾つなのだろう、百年はゆうに過ぎてるよな。

ぱちぱち、ぱちぱち、何度も瞬きをしてご神木を見つめる。


「静かだな。すっげぇ心地が良い」


ご神木から目を放した俺は改めて神社を見渡した。

神社自体は寂れているというのに、此処の空気を吸えば吸うほど俺に安心を与えてくれる。

まるで俺を受け入れ、んにゃ、歓迎してくれているよう。

自意識過剰かもしれないけど、貴重なギザ十を賽銭に放った俺に居場所をくれているのかもしれない。


心なしかご神木から熱を与えられているような気がした。

木肌と自分の体を密着させると心身あたたかくなる。


吹き抜ける風の心地良さ、安心させる空気、誰かが側に居てくれるようなぬくもり。

すべてが悲観している俺の慰めになってくれる。


気分が落ち着くと、今度は今日一日の底知れぬ悲しみが込み上げてきた。
 
  
なんで今日はこんなに厄日なんだろう。


父さん母さん、喧嘩ばっかだし。

親友の(俺がそう思ってるだけかもしれないけど)遠藤を怒らしちまうし。

片恋を抱いている秋本にはこっ酷くフラれるし。
 

なんとなく生きている毎日の中で、俺は人生一番の厄日を迎えた気がした。



あーあ、俺の居場所、いっぺんになくなっちまった気分だ。


俺ってなんだろう。
なんでこんなにも厄日なんだろう。

前触れはなかったんだけど…、今日は金曜だけど13日だっけな?

いや違う。13日は過ぎたし。



―…もういいや、ごちゃごちゃしてきた。考えるのはやめよう。



持参していた通学鞄を地面に投げると、俺はそれを枕に地べたへと寝転んだ。
 
 
「明日は土曜…休み、か。月曜、学校に行きたくないな」


いつまでも此処にいたいかも、大きな欠伸を一つ零して俺は目を閉じた。

不思議とすぐに襲ってくる睡魔。
ゆらゆらと浮き沈みする意識の中、寝返りを打って俺はご神木と神社の与えてくれる安らぎに甘んじた。


あたたかいな、ぬくもり溢れる此処は本当にあたたかい、あたたかいよ。



俺に居場所をくれる神社の神様に感謝をしながら、ゆっくりと夢路を歩く。


ざわざわと囁く葉の声を聞きながら、頬を撫でる頬を感じながら―――…。




それから俺はどれほど眠っていたのか分からない。

射すような夕陽の眩しさ、擽ってくる風のさざめきで何度か意識が浮上することはあったけど、その夢の中のぬくもりが心地良くて沈潜。深いふかい眠りについた。

眠りに底があるとしたら、俺は眠りの奥底で身を丸めて眠っていたに違いない。
 

ゆらり、ゆらり。

ゆらり、ゆらり。
 


ゆらり、ゆらり。
 


まるで揺りかごのような、優しい揺れの時間の中で俺は眠り続けた。
ただひたすらに眠り続けた。

夢は見ていない。

真っ白な空間とでもいえる夢の中で、貪るように眠っていた。


厄日から逃避したい一心で。

 



起きる契機を掴んだのは肌寒さからだった。
 



今まであたたかかった空気に陰りが射したような、急な冷え込みを感じて俺は目が覚めた。

重たい瞼を持ち上げた先に待っていたのは、真っ暗な神社。

朦朧とする意識が覚醒するまで、暫し時間が掛かったわけだけど、此処が家ではなく神社だということを思い出して俺は飛び起きた。


その拍子に体にのっていた落ち葉が数枚、地面に滑り落ちる。


だけど些細な事を気にする余裕のない俺は、「やっべぇ」どんくらい寝ちまったんだろう、と慌てふためいた。


静まり返っている神社は本当に真っ暗で、微かに本殿や狛犬があるんだって分かる程度。

とっくに日は暮れてしまったようだ。



「一時間居座るつもりがっ、うっわぁ暗っ。今何時だろう? 早く帰らないと親にシメられる」



どんなに親同士が喧嘩をしても、門限は煩いんだよな。

急いで立ち上がった俺は制服についた土埃を払うと、通学鞄を肩に掛けて駆け出した。

「お邪魔しました!」鳥居を潜る際、神社の神様に挨拶。

平坦な石段を下って家路を走った。