「いってらっしゃい」彼女に言われて、「いってきます」反射的に返す。
それでいいのだと彼女は綻び、もう一度遠藤に宜しくと目尻を下げた。
次いで、「ゆっくり話すといいわ」意味深に彼の肩を叩く。
困ったように一笑を零す遠藤は扉を開けた。
手を振る秋本の見送りを背で受けながら、俺を連れて部屋を後にする。
まさか遠藤宅にお邪魔する羽目になるとは…、予想外だった。
通学鞄を腕に抱えたまま、遠藤とエレベータに乗る。
しんと静まり返る空気が嫌で、俺は相手を流し目。
視線に気付くリーマンに疑問をぶつけた。
「お前。今何センチ?」と。
くつりと喉で笑う遠藤は、「174cm」意気揚々と答えてくれた。
ちきしょう、高いじゃんかよ! 日本人の平均身長(男性)に達してるんじゃねえの?!
ぶすくれる俺に、「お前はちっさいな」160ねぇだろ、揶揄を含んでポンポンと頭を叩く。
「うっさい!」あと1センチでジャスト160センチだと反論するも、相手はお可愛らしい身長だと肩を竦めるだけ。
まるで相手にしてくれない。
クソ、ノッポめ。
俺だってアラサーだったらそんくらい伸びてるよ! ……た、多分だけど。
マンション近くの私有地駐車場に遠藤の車は停めてあった。
私有地だから金を払っていない車は停めちゃいけないんじゃ…、俺の疑問に遠藤は一時間くらいなら失敬しても大丈夫だろうと返答。
人情で大目に見てくれるだろうと、ご都合なことをのたまった。
憮然と息をつく俺は助手席に乗り込んで、車の扉を閉める。
何気なくサイドミラーを覗き込んで自嘲。やっぱり鏡に俺は映っていない。
運転席に座る遠藤はシートベルトを締めて、エンジンを掛け始めた。
「なあ。坂本」
俺にシートベルトを締めるよう指示し、バックミラーを弄る遠藤は遠慮がちに口を開いた。
「お前って」ぶっちゃけ幽霊なのか、内容は意外とストレート。一部始終、俺の体を透ける光景を目の当たりにした故の疑問だろう。
しかし遠藤は細かいところにも気が付いていた。
「昼間、気絶しているお前を後部席に乗せて運転しようとしたら…、バックミラーにお前の姿、映ってなかったからさ」
幽霊なのかと思ったのだと遠藤は意見する。
だけどお前、超健康そうだし物食ってたし実体あるし、幽霊って柄じゃないよな。
軽く笑声を漏らすリーマンに、俺もつられて微苦笑。
「俺自身も幽霊かどうか分からないや。生きてるのか、死んでるのか、それさえ分からない。
気付けば2011年って世界にいて、アラサーのお前等に再会した。成長したお前等に再会したんだ」
訪れる静寂。掛かったエンジン音だけが車内を満たす。
「幽霊ならいつか俺は」
消えちまうかもしれないな、力なく言うと、
「じゃあ幽霊説はなしだ」
ぶっきら棒にリーマンは言い放った。
幽霊が飯食えるかよ、やめだやめ、お前は幽霊じゃねえ。
アクセルを踏んでハンドルを左に切った。
言い出しっぺのくせにシケ込むなよと横暴なことを仰るアラサー。
大通りに向かうために車を走らせる。
「消えるとか言うなよ。ようやく再会できたんだ。消えるとか、簡単に言うなって。頼むから」
萎む声。
瞬きをして俺は遠藤の横顔を見つめた。脇見をすることもなく、相手は凛と澄んだ声音で伝えてきた。
「お前を探してたんだ」
ずっと、そうずっと、探していた。
一方で待っていた。お前の帰りを待っていた。
はっきりと告げて来る遠藤に声を失う。
ずっと探していた、待っていた、お前が俺を?
「ま、話は追々。坂本、お前に懐かしい曲聴かせてやるよ。おっと、お前にとっちゃ流行の曲かもしれないけど」
コンポの電源を点けて、遠藤は曲を流してくれる。
俺はらんらんに目を輝かせた。遠藤が流してくれた曲は、大好きなアーティスト。
俺と遠藤がこよなく愛しているアーティストの曲が流れて、ついテンションが上がった。
「まだ活動してる?」胸を弾ませて遠藤に聞くと、「バリバリだぜ」おかげでファン歴も長いながい、返答に俺は俄然テンションが上がった。
調子に乗って後で1996年以降の新曲も聴かせて欲しいと両手を合わせる。
不本意ながらも折角未来に来たんだ。
少しはこういった楽しみがあってもいいと思う。
振り回されるだけの未来なんて疲れるだけだしな。
「んー」考える素振りを見せる遠藤は横目でこっちを見てきた。
で、ニッと笑みを浮かべる。OKという意味だ。
「マジサンキュ!」愛してやってもいいんだぜ、投げキッスをおくってやると、
「さぶいことはやめろって」ご丁寧に突っ返してくれた。
「うわ、ひっでーの。俺の気持ちを簡単に返しちまうなんて。泣くぞ」
「泣け泣け。一向に構わねぇよ。あ、胸は貸してやんねぇから」
馬鹿馬鹿しい会話に揃って笑声を上げる。
年齢の壁を越えた、久々のやり取り。
本当の意味でやっと空気が砕けた瞬間、それは15年前の俺達に戻った瞬間でもあった。
*
遠藤はアパートに住居を置いていた。
結婚していた当時はマンション暮らしだったそうだけど、離婚後、アパート暮らしに乗り換えたらしい。
アパートっていっても、新築ほやほやの三階建アパートでめちゃくちゃ綺麗。西洋風のアパートはとてもお洒落チックだった。
というかメルヘンチックだ。
階段の手すりからして先端がくるんとカールしているという凝りよう。
しかも螺旋階段ときた。なんとも建築家の性格が出ている。
「お前に似合わないアパートだな」おちゃらけたら、「うるせぇよ」不機嫌に返された。自覚はあるようだ。
遠藤の部屋は三階にあった。
リーマンと一緒に鉄板板のような薄手の螺旋階段を上って、吹きぬけた廊下を歩く俺は外から見える景色に足を止める。
三階から見える景色は光ばっか。
主にマンションの光が外界に零れている。
点々と発光している丸い光はまるで、でっかい蛍の光のよう。
何してるんだという声で歩みを再開する俺は、急いで遠藤の後を追い駆けた。
扉を半開きにして待ってくれている遠藤に片手を出して、俺は部屋にお邪魔させてもらう。
照明が点けられる玄関はがらんとしていた。
秋本の家の玄関はヒールやら、ブーツやら、サンダルやらでごちゃごちゃしていたけど、遠藤の家の玄関は必要最低限の物しか置いていないみたい。
男女のファッション意識の違いを見せられたような気分になった。
だけど片付いた玄関と違ってリビングは結構、散らかっていた。
四隅に山積みされた新聞、リモコンの他にティッシュ箱や漫画本、携帯ゲーム機等々多数の物で占められたテーブルに、椅子の上に放置されたワイシャツ。
一人暮らしの男に相応しい部屋だ。
同じ男として親近感が湧くのは、普段の俺もあんまり片付けられない類だからだろう。
なんとなく安心はした。
秋本の部屋は散らかしちゃいけませんオーラがムンムンだったから、尚更安心。肩の力が抜ける。
ジャケットにハンガーを通しながら、適当に座ってくれと遠藤。着替えたら珈琲を淹れてくれるそうだ。
じゃあ遠慮なく、俺は通学鞄を脇に置いて椅子に腰掛けた。
にしても鞄、重かったな。
秋本が多分、着替えを入れてくれたんだろうけど、それにしても…、鞄を膝に置きなおして中身を確認してみる。
「ゲッ」俺は声を上げた。
マジかよ秋本、お前、少しは考慮してくれって。
「教科書入れっ放しとか、重い筈だぜ。あいつ、何も見ずに詰め込みやがったな」
「んー? お、教科書じゃんか。しかも数学、ちょっと見せてくれよ」
懐かしい産物とご対面した遠藤は軽くテンションを上げて、俺に歩んでくる。
着替えてからゆっくり見ればいいのに、鞄に入ってる数学の教科書を取ってパラパラとページを捲った。
「ピタゴラスの定理とかあったあった」
まだ俺が習っていない章を開いて懐かしむ遠藤は、他にないのかと鞄を覗き込んでくる。
「他に?」あるとするなら、国語だろ、英語だろ、理科に…、歴史の教科書くらいしかない。
手っ取り早く金曜の時間割が詰め込まれてるんだと言いたかったけど、なにぶん相手は15年後の遠藤。
中3の時間割を覚えているかどうかが怪しい。
「そうだ。これ、もう古いんだろ? 秋本に見せたら、超興奮されたんだけど」
「うわっ、ポケベル! 現物とか久々に見た」
大興奮の遠藤はポケベルを手に取って、あらゆる角度からその機械を観察。
「俺のは壊れたもんな」
いやぁ懐かしい、ホックホク顔でポケベルを見つめるリーマンは後でゆっくり見せてくれと頬を崩す。
んでもって着替えを再開、廊下の向こうに姿を消した。
見慣れつつある光景だけど、そんなに懐かしいのか。ポケベル。
共有できない懐古の念に若干寂しさを覚える俺は、ポケベルに目を落とし、おもむろに宙に投げてキャッチ。暇を弄ばせる。
「ん。あ、これ。サッカーゲームじゃん」
俺はテーブルに放置されていたゲームのパッケージに手を伸ばす。
「あいつらしいな」
パッケージを裏返して微笑。
遠藤はスポーツ大好き少年だった。
プレイすることも大好きだし、観戦することも大好きだし、ゲームすることも大好きだった。それは今も変わっていないらしい。
家着に着替え戻って来た遠藤に、「相変わらずだな」ひらひらとパッケージを翳す。
「社会人になってもスポーツが好きなところ、お前らしいよ。実際に今も体動かしてんの?」
すると遠藤は生返事、「ゲームや観戦はよくするけどな」肩を竦めてくる。
そうなのか。
やっぱ社会人になると、体を動かす時間も減っちまうのか。
大人ってそういうもんなのか。
「なんか寂しいな。体動かせないって」
「……、いや、そうでもねぇよ。俺、もう滅多な事じゃ体を動かすこともしなくなったし。それが慣れちまった」
マジかよ。体を動かすこと大好き少年が、そんなことを言っちまう?
どっか決まり悪そうに頭部を掻いている遠藤を見つめて、「あ。」もしかして…、俺はキャツをまじまじと見つめる。
「アラサー遠藤、体が老いた? もう体、ついていかない?」
「てめぇ…、俺はまだ29だっつーの。ジジイ扱いしてんじゃねえぞ」
口元を痙攣させるリーマンが握り拳を作った。
「おっと口が滑った」
俺は小生意気に舌を出す。
よって、遠藤が俺の頭を鷲掴み。
そのままクラッシュしてこようとするもんだから、俺はギブギブと白旗を振った。
「お前が老いたことを気にしてるのは謝るって。大丈夫、アラサーはジジイじゃっ、アイデデデデッ! 子供を苛めるなって!」
「うるせぇアラサー。お前、見た目子供してんじゃねえぞ。あーん?」
「お、俺は心身15だってーの! こんのバツイチ!」
「コ・ノ・ヤ・ロ・ウ、言いやがったな?」
俺は相手の腕で首を締められた。
体格と力は歴然、勿論負けるのは俺、すぐにギブアップした。
解放された性懲りもなく俺はボソリと「大人げねぇっ」悪態を漏らす。
「んー?」なんか言ったか? 完全に相手の耳には届いているようだ。
向けてくる笑みに脅しが含まれている。
なんでもないですと軽く愛想笑いを浮かべる俺は、話題を逸らすように「このゲームしてみたいな」とテーブルに戻したゲームに目を落とす。
秋本の家で家事ばっかしてたから、こういった遊びにも不足している。
2011年は面白不安な世界ではあるけど、秋本の言うとおり俺には窮屈な世界かもしれないな。
「二、三日、お前を預かることになってるから、したけりゃ後でしてもいいぞ。安心しろ、時間はあるって」
「嘘。マジで?」
「まずは新曲、聴きたいんだろ?」
びっくりする俺を余所に、遠藤は珈琲を淹れてやると綻んで台所に向かう。
2011年の遠藤、秋本はやけに優しいな。
ふとした瞬間、30らしい大人の優しさを見せ付けてくれる。
これが15と30の違いなのかもしれない。
同輩が同輩じゃない、なんか侘しいけどしょーがないよな。
俺は心身15で、空白の15年間、神社で過ごしていたわけだし。
「ブラックはいけるか?」「いや無理」「だろうな」「あ。お子様って思っただろ?」「思った」
明日も仕事だっつーのに、疲労の色を一抹も見せず、俺の相手をしてくれる遠藤の優しさに感謝する。
10日前、あんなに怒らせたっていうのに、んにゃ、15年前あんなに怒らせたってのに…、ありがとうな。遠藤。
沢山の感謝を心中で贈った。
まったりと珈琲を飲んで談笑、各々風呂に入った後は寝室で大好きなアーティストの曲を聴かせてもらう。夜分遅いから音量は小で。
1996年以降からの新作を一つひとつ聴かせてもらう度に、俺は笑顔を零しちまった。やっぱいいよな、このアーティスト。
年が若くなるに連れて曲調にも変化が見受けられるけど、俺は嫌いじゃない。寧ろ大好き度が増した。
遠藤のベッドの上でCDの歌詞を開きながら、曲に耳を傾ける俺は「最高だよなぁ」へにゃっと顔の筋肉を緩ませる。
「男らしい声に惚れるけど、歌詞にも惚れる。何が最高か分かないくらい最高だ」
「リポーターとしては半人前の台詞だな」
「ですよねぇ」自覚はしてます、でも好き過ぎて言葉が出ません、俺は胡坐を掻いている遠藤におどけた。
笑みを返す遠藤は次の曲を掛けるために、コンポからCDを取り出す。
待っている間、俺は歌詞を熱心に読んでいた。
一字一句脳裏に焼き付けていこう。
俺の様子に頬を崩す遠藤は、「お前ほど」熱心なファンはいないよな、と口を開いてきた。
その言葉、そっくりそのままお前に返すんだけど。
お前もS級のファンだったじゃん。
一緒にCD買ってた仲だったしな。
「遠藤と割り勘してCD買ったこともあったなぁ。で、そのCDをテープに移して聴くってのがお約束だった。
ははっ、どっちがCDを持つかでジャンケンで決めるんだけど、いっつも俺、負けてたんだよな。たまーに勝つと、お前異常なほど悔しがってたっけ」
「……、お前はいっつも最初はグーで、お次がチョキだったからな」
「でも気付いてたぞ。お前、同情して俺に負けてくれてたって。お前、なんだかんだで優しかったからな。三回に一回の割合で、負けてくれてたな」
この瞬間の遠藤の表情に気付かない俺は、ふと顔を上げて寝室をぐるり。
ミニデスクに目が留まる。
歌詞カード置き、ベッドから下りた俺は散らかっているデスクを覗き込んだ。
物で溢れ返っているデスク上、小さな本立ても付いてる。
本立てに目を向けた俺は首を傾げた。
置いてあるのは卒業アルバムのようだけど…、小中学校のアルバムしかない。
高校の分はないのか?
「なあ遠藤。高校の卒業アルバムは?」質問に、「実家にある」平坦な声が飛んできた。
そっか、高校のお前、見てみたかったんだけど。
でもなんで高校の分は実家に置いてるんだ?
疑念に思いながら、俺は勝手に中学のアルバムを手に掴んだ。
で、中身を開く。
止める声がなかったから、見ても良いってことだろう。
ぱらっとページを捲って中身を拝見。そこには俺の知る同級生達が映っていた。
ページを捲ってもめくっても、俺の知る面子。
直接知らなくても、間接的に知ってる奴・見たことある奴が俺の記憶を擽る。
俺は自分のクラスのページを開いた。
集合写真と個人写真が載っている。
俺は目を細めた。
個人写真は春先にすぐ撮ったから、俺の分も載っているけど、集合写真は卒業直前に撮った写真なんだろう。
そこに俺はいなかった。
いやいるっちゃいるけど、右上に丸枠で映ってる。ある意味目立つ位置にいるな。
しょうがないよな…、俺、失踪しちまってるんだから。
不思議と冷静な気持ちで眺めることの出来た俺は、今頃皆、どうしてるんだろうと思いに耽った。
アラサーの遠藤、秋本には出会えたけど、他の皆は今、どこで、何をしているのか。15年後の姿を見てみたい気がする。
いつまで此処にいられるか、分かんないけどさ。
「なあ坂本、お前にちょっと見せたいものがあるんだ」
明るい声が飛んできたから、俺はアルバムをケースに仕舞って元の位置に戻した。
「見せたいもの?」
興味を注がれてベッドに上がる。
遠藤は窓際に置いているCD棚から、一枚のCDを取り出して俺に差し出してきた。
俺は目を削ぐ。
それはあの日、遠藤の家の郵便受けに投函した限定版のCD。
俺が小遣いを溜めて買ったヤツだったんだけど、遠藤を怒らせたから詫びの品に贈ったんだ。
若干動揺している俺は鼻の頭を掻く俺を余所に、「これお前だろ?」郵便受けに入れた、お前だろ、遠藤が質問してくる。
そういや宛て先も何も書いてなかったよな。
ただビニール袋に包んで、ポイっと投函したっけ。
今の遠藤になら言えると思ったから、「そうだよ」と頷き、明るく振舞った。
「お前にやろうと思ってさ。でもどう、渡せばいいか分からなかったから郵便受けに入れたんだけど…、あん時、超お前を怒らせちまったしな。
いやぁ、マジないよな。凡ミスしまくるわ、オウンゴールしちまうわ、馬鹿ばっかするわ」
……、ごめんな遠藤。
もうお前にとっちゃ昔かもしれないけど、俺、どうしてもお前と仲直りしたくてさ。
ははっ、思い出しても、許してもらえないことをしちまったって自覚はあるんだけどさ。
ああ、それでもお前、今の俺には優しくしてくれてるよな。
そういうところが大人だよなぁ。
誤魔化し笑いを浮かべていた俺だけど、相手の顔を見た瞬間、度肝を抜いた。