「もう、無理だよ」
私も修弥も。誤魔化すのはもう無理。
「…んだよ、それ…」
修弥が私の肩からするりと手を離す。離す、というよりも、落としたという方が正しいかもしれない。
「修弥も、もう無理でしょう…もう無理しなくても良いよ。
もう、流れで一緒にいるのはやめよう?」
涙がこぼれる。
本当は零したくないのに。
じわじわと落ちる涙が、雨と同じようにぼたぼたと地面に落ちて輪っかを作るのを見つめた。
「お前は」
修弥の声が低くなって、少し震えているように聞こえて少しだけ視線を上に上げた。
少し、空からの雨が――…止まったように思った。
雨の音が止んで静かに…
「お前はずっとそんな風に思ってたのか」
修弥はいつのまには傘をさして無くて、顔が濡れている。
泣いてるの?
なんでそんなに――…悲しそうな顔をするの?
初めて見る修弥の表情に言葉を失って、私も同じように傘をするりと地に落とした。
雨が、静かな空間。
「もう、いいよ。わかった」
何かを言いたいと思ったけれど、言葉にすることが出来なくて、私から背を向けて傘もささずに歩いて行く修弥を止めることも追いかけることも出来ない。
行かない方が良いんだと、頭の中では叫んでいるのに、だけど動けない。
行かないでと言えばいいのかと思いながら、そんなことは無意味だと体が告げる。
「修弥…」
きっと誰にも聞こえなかっただろう。
背中が遠くなって、もう手を伸ばしても触れることは出来ない。
少し手を伸ばしても、ただ雨が私の手を濡らしていくだけ。
「修弥」
どうしたら、この辛さから逃げられるんだろう。
諦めて、手放しても何も変わらない。
何もかもを拒否しても、涙が溢れるんだ。
「まって」
最後の呟きは、トラックのブレーキ音でかき消された。
何も変わらなくて、ただただ心が濡れて濡れて、凍える繰り返しの日々。
涙でぼんやりとしか見えない視界には、ただ、修弥の悲しそうな顔がずっと映る。
何度繰り返せばこの痛みから解放されるの?
何度繰り返せば、何も感じなくなるの?
何度繰り返せば、この世界は、晴れるの?
■
目が覚めるよりも前に、意識が先に目を覚ました。
――なんど、繰り返せば終わりはくるんだろう。
そんなことを思いながら、ゆっくりと、今度は目も明けて朝を感じた。
相変わらず朝だというのに薄暗い空が窓から広がる。
気が、狂ってしまいそうだ。
重い体を持ち上げて、そのままベッドに腰掛けてうなだれる様に頭を下げた。
考えたくないのに、それでも考えてしまう。
今日の終わりなんて知りたくなかった。何も回避できないのであればなおさらのこと。
全てを切り捨てて離れてしまえば楽になるのかと思ったのに、それでも何も変わらない、むしろ余計に辛いだけじゃない。
――あんな顔をさせたかったわけじゃない。
修弥のあんな顔を見たかったわけじゃない。あんな顔をするなんて思ってもなかったんだ。
なんで、なんであんな…
私と一緒にいる意味は何なんだろう。
なんであんな悲しそうな顔をするの?
何度も何度も繰り返せば、あの終わりだって苦痛じゃなくなるの?
「実結ー」
今日も相変わらず、私を呼ぶ母の声に、大きなため息が落ちる。
母の声にぐいっと、力を振り絞って体を持ち上げて1階に向かった。
一歩一歩進む度に、今日の終わりが近づいてきている気がしてもう、進みたくない。目眩で倒れそう。
いや、倒れてしまいたい。
行きたくない。
もう今日を過ごしたくない。
今日という日で立ち止まるのであれば、今この場所この時で立ち止まることができればいいのに。
全てを捨てることが出来ればいいのに。
感情さえも捨てることが出来ればいいのに。
自分がどうしたいのかが毎回分からない、
修弥が無事に過ごせればいいと思うのは嘘ではないけれど、そんなのただ、自分が苦しまないでいたいからだ。
自分の為なんだ。
何だって良いのに。修弥の事なんて切り捨てられればいいのに、それをするには一緒の時間を過ごしすぎたのかもしれない。
もう、あの頃には戻れないと、そう思うけれど。
どうでもいいと、思ってるのに、それでもやっぱり傷む。
何度も何度も繰り返しているのに、自分の気持ちは行ったり来たり。
時間と一緒に自分の時間も何度も繰り返される。
「どうしたの?青い顔して」
1階に下りて母の声に顔を上げると、母が私の額に手を当ててきた。
「熱はないみたいね」
そんなにひどい顔をしているのだろうか。
うつろな瞳をしているだろうことは何となく感じて、そのまま眺めるように目の前のカレーを見ていた。
悪いけれど手を付けられるほど元気じゃない。
「…今日、休みたい」
いっそのこと、家の中に閉じ籠もっていたらいいんじゃないの?
どこにも行かず、ベッドで布団を被って息をひそめてすごしたら、何かが変わるんじゃないの?
私がいなかったら、修弥は出かけないかもしれない。
私がいなかったら、あのこと一緒に過ごせるかもしれないでしょう?
私はもう見なくても済む。
あんな光景を。
もう味わうこともない。
あんな、痛みを。
「休みたい…」
どこにも行かずに、ただ、家の中で祈る方がよっぽどマシだ。
「何言ってるの。熱ないんだから」
私の言葉に母が呆れ気味にそう言ってそのままキッチンへと背を向けた。
母の返事に反応することも出来なくて、そのまま座ったまま、ただカレーを眺めていた。何も出来なかった。
動くと時間が過ぎていってしまいそうな感覚。
何もしなくても過ぎていることは分かっているのに、それでも動きたくなかった。
考えることすらしたくない。
「実結、いつまでそうしているの。早く学校行きなさい」
母の声が、無理矢理私を動かすまでただ座っていた。
家を出たのは結局いつもよりも少し遅い時間。この時間ならもう遅刻になるかもしれない。
急げば間に合うのかもしれないけれど、そんな気力もない。
行きたくなくてこのまま背を向けて学校とは逆方向に走っていきたいくらいだ。
傘をさして、とぼとぼ歩く私を雨が包み込む。
ぴたりと足を止めて、雨の音を聞いた。毎回変わらない雨の音を聞いて足がすくんでしまう。
修弥の顔が何度も何度も目の前にちらつく。
――なんで、あんな表情をしたの?
聞きたいけれど、聞くのは怖い。聞いたところで修弥は何も分からないだろうけれど。
前を見つめると、終わりのない道がずっと続いている。
先に進むはずの道なのに、私にとってはぐるぐると回るだけの道に見える。
――もう、いやだ。
そう思って、くるりと来た道に向かって振り向いた。
逃げ出したかった。
「実結?」
びくん、と体が大きく跳ねる。