途中でケータイが振動して、両方ともメールだった。
一通はバイト仲間からの、「旅行楽しんでる?★」というメール。
もう一通はお母さんから「明日着くから」という報告と、結婚式の日にち間違いを謝罪する内容だった。
当たり障りのない返信をしてから、私はメールBOXを閉じてふと電話帳を開いた。
ケータイの「グループ1」に登録されている
"桂川碧"の文字。
ケータイ番号と、メールアドレス。
公園の前で足を止めて、食い入るように見つめていたけれど
……やっぱりこれは消してしまおう。
そう思って、削除キーを押した。
"削除しますか?"
…一瞬躊躇ってから、YESをプッシュする。
"削除されました"
その文字を確認しないまま、ケータイをパコンと閉じた。
来ないメールを
鳴らない着信を
待つこともない。
私達の曖昧な関係は、あの日の夏にきちんと整理されたはずなのに。
幼なじみから、幼なじみへ。
何も変わることはないと思ってたのに。
…本当は初めから、だったのだろうか。
それとも途中から?
だとしたら、いつからだろう。
さっぱり分からない。
それでも少なくとも、今の私にとって碧は"優しいお兄ちゃん"ではない。
そんなものはいらない。
…麻美さんの場所が、どうしようもなく羨ましかった。
碧に触れたいし、触れられたいと思った。
だけどそれは、身勝手な気持ち。
今更誰にも必要とされない気持ち。
邪魔にしかならない気持ち。
…だから、言わない。
私は笑うしかない。
"碧は私のお兄ちゃんだよ"
そんなこと、
言いたくないのに。
言わなくちゃいけない。
「…っ、ダメじゃん私……」
結局あの頃と何も変わらない。
本当の気持ちを、
胸の奥にある本当の想いを、
伝えることも出来ない。
……涙が零れた。
気が付けばとめどない涙が溢れてきていた。
「あお、い…っ」
好きだよ。
好きだよ。
大好き。
―――だけど、言わないよ。
夏海ちゃん遅いね、と麻美が言った。
時計を見上げるともう22時を過ぎている。
「…知らねぇよ。そのうち帰ってくるだろ」
飛び出していって最初のうちは、そう流していた。
どうせ俺が行ったとしても拒まれるだけだ。
そう思ったから。
でもさすがに三時間を過ぎるとそうも言ってられなくなった。
「…」
「…」
夏海の座っていた椅子ばかりに目を遣ってしまう。
イライラと、指を弾いた。
「……ったく」
「…あ、碧…?」
…何やってんだ、アイツ!
そう思った時には、無意識に体が動いていた。
咄嗟にケータイだけを引っ掴んで、玄関に向かった。
母さんと香奈は何も言わずに見送ったけど
麻美は玄関まで追い掛けてきた。
「あ…碧」
困惑した表情を俺に向けてくる。
そりゃそうだ。
母さんとは少しは慣れたとはいえ、香奈のことはよく知らない。
父さんだっていつ帰ってくるかも分からない。
俺にいて欲しいに決まってる。
ちゃんと分かってる、
けど。
「…ごめん」
俺は深い反省を込めて、麻美に謝った。
胸が痛かった。
「けど…夏海は、ああ見えて弱いんだよ」
「…」
「泣いてる時は傍に居てやらなきゃいけなかったんだ。…昔から、ずっと」
どうして気付いてやれなかったんだ。
帰郷してから…俺に会うたび、夏海の瞳は震えていた。
何かを堪えるように。
…さっきだって、家を出ていく小さな背中は震えていた。
―――ずっとずっと、泣いていたのに。
「…だから、悪い。皆は先に寝てろ。何時になるか分からないから、って、そう言っといて」
「……分かった」
麻美はすごくいい女だ。
俺にはもったいないぐらい。
少し困った顔を、それでも気遣うような笑みを見せてくれた。
「気を付けてね」
ドアを開けて、外に出る。
同時に俺は最低だな、と自嘲した。
婚約者の麻美よりも
とっくに振られた幼なじみを優先する。
…何故それでも麻美は、俺を愛してくれるのだろう。
愛される心地よさに流された、と言っても正直のところ嘘ではない。
夏海のことを考えるたびに痛むココロを優しく溶かすのは、紛れもなく彼女…麻美の存在だった。
麻美を愛したいと思うようになった。
だからこそ彼女からのプロポーズを受け入れた。
――ココロは一つしかない。
踏ん切りを付ける時はもうすぐそこまで来ている。
いっそ想いをぶつけて、夏海に俺をメチャクチャになじってもらおうかと思った。
それでも8年ぶりに再会した夏海は、想像以上に綺麗になっていた。
どうしようもなく、苛立った。
"一度ぐらい、俺のことで傷付けばいい"
…本気でそんなことを言いたかったはずはない。
でも、幼い頃からほんの少しも汚れる様子を見せない彼女に苛立ったのも確かだった。
だから、もしかしたら俺の結婚に戸惑って飛んで来てくれたのかもしれない。
そんな淡い期待を、いっそ打ち破って欲しかった。
なのに。
……泣きそうな顔を、する。
そんな夏海に、気持ちを抑え切れなくなって。
無理やり抱き締めて、無理やりキスをしていた。