「那智っ……!!」
飛び起きた瞬間、強烈な目まいが襲った。
だけどあたしは無我夢中で足音を追いかけた。
靴のかかとを踏んだまま玄関を飛び出すと
アパートの階段の下に、見覚えのある細い背中が見えた。
朝日を浴びて輝く、黒い髪。
「那智っ……」
ふり返ったその顔は、驚きに強張っていた。
アイ、と唇が動くのが見える。
追いかけちゃいけない。
追いかけちゃいけない。
でも――
わかっていても
体が勝手に動いた。
「那智っ!!」
階段を駆け下りる。
病み上がりの足に力が入らない。
前のめりになった体が段差を踏み外し、あと数段を残して落下した。
受けとめてくれたのは
あの温かい腕だった。
懐かしさなのか
感謝なのか
愛情なのか
あたしを突き動かすこの感情は
いったい何。
答えなんか見えなくて、ただただ那智の胸にしがみついた。
「……藍」
あたしをそっと離そうとした那智の手が、止まる。
迷いが伝わってくる沈黙。
見上げると、切なそうに目を細める那智の顔があった。
「那――」
名前を呼び終わる前に、彼の体があたしから離れた。
グン、と勢いをつけて後ろに引く上体。
「何してんだよ」
斗馬くんが、那智の後ろから肩をつかんでいた。
力任せに引っぱられた那智が、わずかによろける。
斗馬くんは間に割り込むようにして、あたしの前に立った。
「斗馬く……」
「――藍が」
聞いたこともない低い声に、あたしは慄いた。
「藍が誰を選ぶとしても、止める権利なんかねぇって思う。
俺以上に幸せにしてくれる男なんだったら。
でも……こいつはダメだ」
何かが変だった。
斗馬くんは那智のことをよく知らないはず。
なのに“こいつはダメ”という言い方は、彼らしくない。
よく見ると斗馬くんの息は切れていて、ここまで走ってきたのが分かった。
お見舞いのために来たというよりは……
あたしから那智を引き離すために、駆けつけたような。
斗馬くんが那智の方に向き直った。
「お前らが一緒にいても、ふたりで堕ちていくだけだ。
お前に必要な女の子は、他にいるんじゃねぇのかよ」
「斗馬くん……?」
状況が見えなくて間に入ろうとするあたし。
斗馬くんはそれを手で制し、那智をにらみつけた。
那智は静かに斗馬くんをにらみ返すと
ポケットから携帯を取り出し、どこかに電話をかけ始めた。
「――俺」
いったい、誰にかけているんだろう。
「さっさと出てこいよ。どうせ近くにいるんやろ?」
え……?
那智は言うだけ言うと電話を切って、ポケットに携帯をしまった。
たっぷり30秒以上の静寂。
いつの間にか太陽は姿を消して、まるで昨日までの続きのように小雨がぱらぱら降り始めていた。
誰も来ないんじゃないかと思った、そのとき。
ためらうように、その人影が現れた。
「メグ……ちゃん」
顔を合わすのは1年以上ぶりだけど、間違いない。
近くのマンションの陰から出てきたのは、那智の彼女の、相賀メグ。
理解できる範囲を超えた事態にぼう然としていると、那智が簡潔に言った。
「俺と同じタイミングで藍の男が来るのは、おかしいやろ?
誰かがそいつに連絡したとしか思われへんかった。
そんなことする奴、限られてるからな」
じゃあ、斗馬くんがここに来たのは、メグちゃんが連絡したということ?
でもどうして、ふたりの間に接点が……。
混乱する頭を必死で整理していると、ふと数日前のことに思い当った。
音楽室にいたとき、斗馬くんの携帯に届いたメール。
あのとき斗馬くんはメールを読んで、変な表情をしていたんだ。
もしあれが、メグちゃんが送ったものだとしたら。
知らない女の子からの突然のメールに、あんな表情になったのだと納得できる。
あたしがそこまで考えついたところで、続きを説明するように斗馬くんが言った。
「ここ数日、藍と連絡がとれなくてヤキモキしてたんだ。
そしたら今朝、彼女からまたメールが来た。
……藍たちが“姉弟”になった経緯も、ぜんぶ聞いたよ」
あたしは青ざめた。
斗馬くん、聞いたんだ。
お父さんたちの事故のこと、知ってしまったんだ。
「お前らにとってはお互いが唯一の身内なんだろ。
死んだ親のこと考えれば、普通は恋愛感情なんか抱けねぇよな。
だから藍が好きだった男はそいつじゃないって、俺、自分に言い聞かせてたんだ。
……さっきこの目で、お前らが抱き合ってんの見るまでは」
斗馬くんは普段、とても優しい言葉を選ぶ人だ。
耳に心地いい、温かい言葉を選んでくれる人。
そんな彼の、いつになく突き刺すような言い方に、あたしは震えが止まらなかった。
傷つけてはいけない人を
あたしは傷つけてしまったんだ。
全員が黙りこんでいると、メグちゃんがこちらに歩いてきた。
「藍さん」
うつむいていた顔を上げると。
突然、火花のような痛みが、左の頬で弾けた。
横面を叩かれたあたしは、水たまりの上に倒れこんだ。
「藍っ!」
ふたり分の声が響く。
那智と斗馬くんは、一瞬、顔を見合せて
那智がメグちゃんを押さえ
斗馬くんがあたしに駆け寄った。
「嘘つき!!」
尻もちをついたままのあたしに、金切り声が飛んでくる。
「那智は弟だって、あたしに言ったくせに! 心配することは何もないって言ったくせに!!」
「メグっ」
那智がなだめても、彼女の興奮はおさまる気配がない。
かわいい顔を涙で汚して叫ぶ姿は壮絶だった。
思わず目をそらすと、硬い表情の斗馬くんと目が合った。
――『嘘つき』
メグちゃんの言葉が、斗馬くんの顔に重なって見える。
嘘なんかじゃ、
なかったんだ……。
那智を弟と思おうとしたのも。
斗馬くんを好きになったのも。
けっして嘘じゃない
だけど――
「…ごめんなさい……っ」
メグちゃんの叫び声が消えた。
那智と斗馬くんも、息を呑んだのが気配でわかった。
あたしは水たまりの上に両手をつき、おでこを地面にこすりつけて土下座をした。
「ごめんなさい……っ」
許してください、なんて言えない。
あたしも自分が許せないから。
ごめんなさい、メグちゃん。
ごめんなさい、斗馬くん。
ごめんなさい。
お父さん。
おばさん。
……那智……。
「……やめろよ」
あたしの頭を上げさせようとするのは、斗馬くんだった。