「そういうわけじゃない、けど。ただ、ちょっと、怖い」
「なんで?」
「……行ったら楽しいかもしれないし、すごく、辛くなるかもしれないから」

 ひとりごとのように吐き出した言葉に、彼は首を傾げただけだった。

彼にはいまいち理解できない感情なのだろう。悩む、ということを幸登はほとんどしたことがない。そんな彼を今まで見たことがない。

悩んだり、落ち込んだり、後悔したり。そういう感情が欠落しているのではないかと思うほど楽観的で思い立ったらすぐに行動する。

 そういう思い切りのよさはわたしにはないところだから尊敬するけれど、気持ちを分かり合えないことには、なんとなく面倒くささを感じてしまう。

 ふう、と深呼吸のようなため息のようなものを吐き出してから改めて答える。

「みんなには会いたいけど、また、後悔するんじゃないかな、と思って」
「なんだそれ、しょーもねえ。そんなんわかんねーじゃん。そんな気持ちなら金と時間がもったいないから行かねえほうがいいんじゃね? それもそれで千夏は後悔しそうだけど」

 呆れたようにそう言って、テーブルに置いてあった煙草を手にして立ち上がる。

 それがわたしにはバカにされたような気分になってむすっとした顔を向けた。

 しょうもないって……なにも知らない幸登にとってはそうかもしれないけれど、わたしにとっては大事なことなのに。悩んでいるのだから簡単な問題じゃないことくらいわかってくれてもいいんじゃないだろうか。

 人を不快にさせたことに気づかないで、煙草を咥えた彼がベランダのガラスを開ける。昨日ほど風は強くないけれど、凍り付きそうな寒さがリビングに広がった。

「寒いんだけど」
「しゃーねえじゃん」
「ベランダに出てガラス閉めてくれたらいいじゃん」

 文句にそれ以上返事はなかった。ベランダと部屋の中間に突っ立ったままスマホを片手に紫煙を吐き出している。都合が悪いとすぐ無視をするんだから。

 ふたつのマグカップを取り出して、出来上がったコーヒーを注ぐ。

わたしの分はミルクを入れて、彼はブラックのまま。同棲を決めたときに、雑貨屋で一目惚れしたころんと丸みのあるライトグリーンとコーラルピンクのペアのマグカップ。テーブルに置いて座ると、「さんきゅ」と灰皿に煙草を押し付けた。消し方が甘かったのか、ゆらゆらと白く細い煙が揺れている。

 まるで、わたしの心にくすぶったまま放置された苛立ちみたいだ。もしくは、後悔。


 気づいた幸登によって、残り火のようなそれは再びぎゅうっと押し付けられて消えた。