確かめの場は、祭殿の一室に設けられた。女官長、宮司、記録役の役人。
珠緒は、その前へ姿勢よく座っていた。紗和を見ると、心配そうに眉を寄せる。
「無理をしなくてもよかったのに」
いつもの声だった。周囲の誰もが、親友を気遣う言葉だと思うだろう。紗和は一礼し、向かいに座った。少し遅れて、暁臣が入った。人々が深く頭を下げる。上座を勧められた彼は、紗和の少し後ろに座った。
「私は、この女官の勤め先を預かる者として立ち会う。解読の是非は、記録で確かめてほしい」
それだけ言い、口を閉じた。宮司が二枚の清書を広げた。珠緒が提出したもの。紗和が北の宮で書いたもの。中央の数行が、ほとんど同じだった。
「珠緒殿。まず、解読を始めた経緯を」
珠緒は落ち着いて答えた。
「祭文の整理を命じられ、紗和にも一部を手伝ってもらいました」
「紗和殿にも?」
「古い文字を読むのが好きだと、以前から聞いておりましたので。ただ、慣れない文字ですから読み違いも多く、私が直しながらまとめました」
宮司が紗和を見る。
「相違はありますか」
「あります」
声は震えた。それでも続けた。
「最初に祭文を預かったのは私です。珠緒には、清書の確認と提出をお願いしました」
「示すものは」
紗和は帳面を差し出した。
「読み始めた日からの覚えです。文字ごとに、考えたことを残してあります」
珠緒が悲しそうに目を伏せた。
「それは、私が説明したことを写したのでしょう」
胸が縮んだ。だが、紗和は帳面を見た。ここには、自分がいる。誰にも見せず、読めない文字に悩んでいた自分が。
「では、一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
珠緒が顔を上げる。紗和は、祭文の四行目を示した。
「ここを、なぜ『ほどく』と読んだのですか」
「文脈からです」
「どの文脈でしょう」
「前に、閉じるとあるでしょう。だから、逆の意味だと」
紗和は頷いた。
「私も最初はそう考えました。ですが、それだけでは隣の字とつながりません」
辞書を開き、紙片を挟んだ頁を示す。
「この字は、古い祈りの言葉では『結び目』を意味します。衣の結び目ではなく、内と外の境に置かれた結び目です」
宮司が身を寄せた。
「続けてください」
「ですから、穢れを祓うのではなく、封じた道を開く手順だと考えました。ただ、この行だけでは、開いた先で何をするのか分かりません」
「次の行は」
「清書では、空欄にしました」
宮司が二枚を見比べた。珠緒のものにも、同じ空欄がある。
「なぜ空欄に?」
珠緒が答えた。
「判読できなかったためです」
紗和は帳面を指した。
「私は最初、『空へ返す』と読みました。でも、字の形が合わず、取り消しています。その跡が、ここです」
細い線で消された言葉が残っていた。
「そのあと、北の宮で同じ句を見つけました。続きは『器へ移す』です」
「その書付は」
「こちらに」
槙が、封をした包みを差し出した。北の宮の所蔵印がある書付だった。宮司は並べて、長く見つめた。
「なるほど」
珠緒の指が、膝の上で強張る。
「ですが、それだけで、紗和が最初から読んでいたことには」
「それについては、こちらを」
女官長が、一枚の記録を出した。祭文の貸し出し帳。最初に借りた者の欄には、紗和の名があった。
「預けた際、私は紗和に、読めたところまで覚えを残すよう命じています。その後、珠緒から、紗和には難しかったので自分が引き継ぐと報告を受けました」
「それは、紗和が異動することに」
「異動が決まる前です」
女官長の声は冷静だった。
「日付を確かめてください」
紗和は、机の縁を見つめた。あの別れの日より前にまだ書きかけの祭文へ向かっていた頃に、珠緒は自分の仕事として報告していた。
宮司が帳面を閉じる。
「主たる解読を行ったのは、紗和殿と認めるのが妥当でしょう。珠緒殿の清書は、この帳面を元にしたものと見られます」
「お待ちください」
珠緒の声が高くなった。すぐに息を整える。
「私は、ただ、この子を助けたかったのです。うまく説明できないところを、代わりにまとめようと」
紗和は顔を上げた。
「では、どうして、私が盗んだとおっしゃったの?」
珠緒の目に、怒りが浮かんだ。次の瞬間には、涙が滲む。
「あなたが、私を疑うからよ」
「疑ったから、盗んだことになるの?」
珠緒は答えなかった。女官長が口を開く。
「今回の件を受け、過去の失敗についても確認しました」
供物目録が机へ置かれた。
「下書きには、欠けていた品の記載があります。受け取りをした役人も、珠緒からは最後の一枚を渡されなかったと証言しました」
「それは、私も渡されていなくて」
「ですが、紗和には、枚数まで確認したと話しましたね」
珠緒の頬から、血の気が引いた。
「また、祭文の写しに用いられた見本は、すでに廃された旧式のものです。保管棚から借り出したのは、あなたでした」
「取り違えたのです」
「その可能性も含めて、調べます」
女官長は、淡々と言った。
「ですが、旧式だと知ったあとも、紗和には正しい見本を渡したと報告しましたね」
部屋が静かになった。紗和は珠緒を見つめた。
「珠緒」
親友の睫毛が震える。
「私、何かしたかしら」
聞きたくなかった。けれど、聞かずにはいられなかった。
「あなたを、困らせるようなことを」
珠緒は唇を噛んだ。
「そういうところよ」
小さな声だった。
「何も知らない顔で、そんなことを聞くところ」
紗和は動けなかった。珠緒が顔を上げる。
「私は、ここへ来るために何年も作法を習ったわ。誰に頭を下げるか、何を覚えれば認められるか、ずっと考えてきた」
「うん」
「それなのに、あなたは少し古い文字が読めるだけで、祭殿の方に呼ばれるようになった」
少し。祖父の蔵書の匂いが蘇った。寒い日も、目が痛くなるまで読んだ夜も。分からなくて悔しくて、辞書を抱えて泣いたことも。珠緒には、少しのことだった。
「私がいなければ、宮中へ来られなかったくせに」
珠緒の声が震える。
「私が教えてあげたのに。守ってあげていたのに。どうして、私より先へ行こうとするの」
紗和は膝の上の手を見た。震えていた。悲しくて、悔しくて。それでも、今ここで珠緒を慰めたいとは思わなかった。
「女官になる道を教えてくれたことは、今も感謝しているわ」
珠緒の目が戻る。
「あなたがいてくれて、嬉しかった日もある。本当に、たくさん」
「だったら」
「でも、そのために、私の仕事をあなたのものにしなければならないの?」
珠緒は黙った。
「助けてくれたことと、傷つけられたことを、同じにはできないわ」
口にすると、胸がひどく痛んだ。長い年月を、自分の手で切り離しているようだった。それでも、言わなければならなかった。
「祭文を返してください」
紗和は頭を下げた。
「これは、私が続けたい仕事です」
女官長が頷いた。
「祭文は正式な記録をつけ、北の宮へ移します。珠緒は、調べが終わるまで職を離れ、居室で待機するように」
「女官長様、私は……っ」
「申し開きは、書面で受け付けます」
それで、場は終わった。紗和は立とうとして、膝に力が入らないことに気づいた。すぐ後ろに、暁臣がいた。何も言わず、手を差し出している。紗和はその手を取った。部屋を出る間際、呼び止められた。
「紗和」
振り返ると、珠緒はひとりで座っていた。
「昔みたいに、戻れないの?」
紗和はすぐに答えられなかった。川辺で花を編んだこと。父の葬儀のあと、隣にいてくれたこと。蜜菓子を、紗和の皿へ置いたこと。全部が嘘だったとは、思いたくない。きっと、嘘ではない時間もあった。
「私は、戻りたくないの」
珠緒の顔が歪む。
「今の私のままで、いたいの」
それ以上は言わなかった。暁臣の手を借りて、部屋を出た。



