翌日、祭殿から若い記録役が訪ねてきた。紗和の帳面と、祭文の貸し出し記録を照らし合わせるためだった。古い文字に詳しく、話が早い。
「この読み方は、初めて見ました」
記録役が感心したように言った。
「お祖父様の辞書ですか」
「はい。地方によって意味が変わる字も、書き留めてあって」
「ぜひ、こちらも拝見したいのですが」
「もちろんです」
久しぶりに、文字の話だけで会話が弾んだ。記録役が帰ったあとも、紗和は少し嬉しかった。自分の考えを、筋道立てて説明できた。質問されても、答えられた。少しずつ、できることが戻ってきた気がした。奥で書付を読んでいた暁臣へ、顔を向ける。
「殿下。今のご説明で、不足はなかったでしょうか」
「ああ。よく伝わっていた」
返事はいつもどおりだった。けれど、こちらを見ない。紗和は近づいた。
「お疲れですか」
「そうではない」
「では、何かお気に障ることを」
「ない」
暁臣は書付を置いた。
「楽しそうだったな」
「古い文字のお話ですか」
「ああ」
「はい。詳しい方でしたので」
正直に答えると、彼は頷いた。
「それは、よかった」
よかったというわりに、声が少し硬い。紗和が首を傾げると、暁臣は額へ指を当てた。
「君が仕事を認められて、喜ばしいと思っている」
「はい」
「それと、私の知らない話で笑っているのを、少し惜しく思うのは、別のことらしい」
意味を理解するまでに、時間がかかった。理解してから、顔が熱くなった。
「殿下も、ご一緒にお話しくだされば」
「君の笑顔を惜しんだ挙げ句、会話に割って入るのは、あまり格好がつかない」
紗和は口元を押さえた。笑ってはいけない。けれど、嬉しかった。いつも落ち着いている彼が、こんなことを言うなんて。
「今、何を考えている」
尋ねられ、紗和は手を下ろした。
「殿下にも、見ていただきたいと思っていました」
「何を」
「私が、自分で説明できたところを」
暁臣の表情が変わった。紗和は照れながら続けた。
「いちばんに、褒めていただきたかったので」
彼はしばらく黙り、それから隣の座布団を引き寄せた。
「では、こちらへ」
紗和が座ると、暁臣は目を合わせた。
「よく話せていた。あの帳面を残した君は、立派だった」
欲しかった言葉を、まっすぐに貰った。嬉しくて微笑むと、暁臣は一瞬だけ目を逸らした。
「やはり、惜しいな」
何が、とは聞けなかった。
その夜、紗和は帳面を読み返していた。頁の間から、折り畳んだ紙が落ちた。春祭りの供物目録の下書きだった。一枚足りないと叱られた、あの目録。最後の一頁まで、確かに揃っていた。あの日、誰に渡したのか。思い出した瞬間、指先が冷えた。
珠緒だ。写し終わるのを待ってくれていた。急ぐと紙を折ってしまうから、私が持っていくと笑っていた。祭文の見本も。品を届ける時刻も。すべて、珠緒から受け取っていた。紗和は帳面を閉じた。疑いたくなかった。
けれど、疑わなければ見えないものがあると、もう知ってしまった。槙に相談すると、彼女は下書きを預かり、女官長へ届けると言った。
「よろしいのですか。まだ、間違いだっただけかもしれないのに」
「ですから、調べていただくのです」
槙は紗和を見た。
「初めから、あなたが悪かったことにしなくてもよいのですよ」
紗和は頷いた。何度も教わる。そのたびに少しずつ、できるようになる。自分の心も、文字を読むときと同じなのかもしれなかった。



