親友の言うとおりにしたら、冷酷皇弟の花嫁にされました




 珠緒から呼び出しの文が届いたのは、紗和が書庫へ戻る許しを得た翌日だった。祭文について、大切な話がある。そう書かれていた。暁臣に伝えると、槙を同行させると言った。だが、文には二人で話したいとあった。

「少しだけ、会ってまいります」

 暁臣は何か言いたげだったが、止めなかった。

「帰ってから、話せることがあれば聞かせてくれ」

 紗和は頷いた。東の渡り廊下の先にある小部屋で、珠緒は待っていた。

「顔色がよくなったわね。倒れたと聞いて心配したのよ」
「ごめんなさい。文を書くのが遅くなって」
「そんなことはいいの」

 勧められるまま座る。机には、祭文が広げられていた。紗和の胸が弾んだ。

「ああ、これ。返していただけるのね」

 伸ばしかけた手を、珠緒の掌が遮った。

「そのことなのだけれど」

 声が、少し低くなる。

「この解読を、どうして殿下のところで使っているの?」

 紗和は瞬いた。

「どうして、とは」
「私が進めていた仕事でしょう」

 理解できなかった。祭文の余白にある細かな書き込みは、紗和の字だ。

「もともと、私が女官長様から預かったもので」
「そうね。でも、困っていたから私が手伝ったわ」
「それは」
「あなたひとりで読めたことにしたの?」

 息を詰める。珠緒は怒鳴らなかった。ただ、悲しそうな目をしていた。その目を見ると、自分がひどいことをしているように思えた。

「私、そんなことは」
「祭殿にはもう、私の解読として提出してあるの」

 別の書付が置かれた。清書された祭文。下には珠緒の名があった。

「私の書いたものを?」
「一緒に調べたでしょう」
「でも、読めないと珠緒が言った文字は、私が」
「そんな言い方をするのね」

 珠緒の声が震えた。

「あなたを宮中へ入れたのは誰? 失敗するたび、女官長様へ頭を下げたのは?」

 紗和は膝の上で指を握った。

「感謝しているわ」
「なら、なぜ私の立場を悪くするの」
「悪くしようとは、思っていないの」
「では、この解読は私がしたことだと、殿下にもお伝えして」

 部屋が静かになった。外の廊下を、誰かが歩いていく。足音が遠ざかるまで、紗和は何も言えなかった。少し前までなら、頷いていただろう。珠緒を困らせたくなかった。恩を返さなければと、思っていた。

 けれど、読めない文字に向き合った時間がある。辞書をめくり、読み違いを直し、意味が通ったときの喜びがある。それを、自分ではなかったことにしたくなかった。

「それは、できないわ」

 声は小さかった。珠緒の顔から、表情が消えた。

「紗和?」
「私が読んだところは、私が読んだとお伝えしたい」

 珠緒は紗和を見つめた。やがて、ゆっくりと笑った。

「殿下がついていらっしゃるから?」
「違う」
「違わないわ。あなた、変わったもの」

 その言葉は鋭かった。

「以前は、私を疑ったりしなかった」
「疑いたくないわ」

 紗和の声が震える。

「だから、聞いているの。どうして私の書いたものに、珠緒の名前があるの?」

 珠緒は答えなかった。代わりに、書付を重ねた。

「今なら、まだ大事にせずに済むと思ったのだけれど」

 胸の内が冷えた。

「どういうこと?」
「祭殿には、皇弟殿下の女官が私の解読を持ち出したと、お話が上がっているわ」

 紗和は、親友の顔を見た。涙を浮かべていた目は、乾いていた。

「あなたを責めたくはないの」

 珠緒が言った。

「でも、私だって自分を守らなければならないでしょう」

     

 北の宮へ戻ったとき、紗和の手は震えていた。迎えた槙が、すぐに暁臣を呼んだ。

「何があった」

 問いかけに、返事ができなかった。祭文のこと、告発のこと。親友の顔から、笑みが消えた瞬間のこと。

「珠緒が」

 名を口にした途端、涙が落ちた。

「私が、盗んだと」

 暁臣は最後まで黙って聞いた。紗和がつかえれば水を差し出し、説明できずに謝れば首を振った。話し終えると、静かに尋ねた。

「君は、どうしたい」

 紗和は顔を上げた。罰してやると言われると思っていた。あるいは、自分が話をつけると。

「分かりません」

 正直に答えた。

「まだ、珠緒がそんなことをするなんて、信じたくないのです」
「そうか」
「でも、私が読んだものを、読んでいないことにはしたくありません」

 暁臣が頷いた。

「では、それを確かめよう」
「確かめる……?」
「誰が読んだか。どのように読んだか。残っているものを、一つずつ」

 紗和は、膝に置いた自分の手を見た。記録。祖父に、いつも言われていた。分かったことだけを書くな。間違えたことも、分からなかったことも残せ。後で読み直すとき、おまえを助けるから。

「帳面が、あります」

 紗和は立ち上がった。最初に祭文を預かった日から、読めた文字と読めなかった文字を書き留めていた。頁を開くと、細かな訂正が並んでいる。

「これは、同じ字を何度も書いているのか」

 暁臣が尋ねた。

「はい。最初は『焼く』と読みました。でも、意味が通らず、祖父の辞書を引いて」
「その過程を、説明できるな」

 紗和は頷いた。胸の底に、わずかな足場ができた気がした。その日のうちに、祭殿から召し出しが届いた。三日後、双方の解読を確かめる。それまで紗和は、祭文の原本に触れてはならない。暁臣は書付を読み、机へ置いた。

「私が同席する」

 紗和は迷った。いてくれれば、心強い。だが、彼の力で正しいことにしてもらうのは違う。

「私が、説明いたします」
「そのつもりだ」

 ためらいのない返事だった。

「君が話せるようにするために、私は行く」

 紗和は初めて、深く息を吸えた。