親友の言うとおりにしたら、冷酷皇弟の花嫁にされました




 雨が続いた。書庫には湿気を避けるため、火鉢が置かれた。紗和はそこで、解呪の手順を探していた。北の砦から運ばれた書付や祖父の辞書、自分が祭殿で読んだ祭文の覚えなど繋ぎ合わせてばらばらだったものが、少しずつつながり始めていた。

 暁臣は戦の折、砦に封じられていた穢れを、兵たちの代わりに身へ引き受けたという。本来なら、幾人もの祈祷師が支え、器へ移し直すはずだった。だが、儀式を知る者が戦で亡くなり、手順も失われた。以来、暁臣は体の内に封じたものを抑え続けている。祓おうとすれば、穢れは宿主へ深く食い込む。だから薬も祈祷も、一時の苦痛を和らげることしかできない。ならば、閉じた道をほどき、外へ移せばよい。

 紗和は、そう考えていた。だが、最後の句が読めなかった。珠緒のもとにある祭文があれば。何度もそう思った。返してほしいと手紙を書いたが、もう少し待ってほしいと返ってきた。親友を急かすのも悪く、手元の資料で調べ続けた。一方で、鎮めの時間を少しずつ長くした。

「今日は、十分だ」

 暁臣は止めた。

「あと少しだけ」
「紗和」
「昨夜は、お休みになれましたか」

 問うと、彼が黙った。紗和は夜中に、槙が薬を運ぶのを見ていた。朝には何でもない顔をしていても、眠れなかったのだと知っていた。

「少しでも、楽になっていただきたいのです」

 それは本心だった。だが、本心だけではなかった。役に立たなくなれば、優しくされる理由がなくなる。珠緒の言葉を打ち消したくて、かえって役目へしがみついていた。

     

 その朝、紗和は書庫で倒れた。文字が二重になった。立ち上がろうとした途端、膝から力が抜けた。床へ落ちると思った体を、誰かに支えられる。

「紗和……!?」

 暁臣の声だった。返事をしたつもりだったが、うまく音にならなかった。目を覚ますと、自室の天井があった。額が冷たい。体は鉛のように重かった。

「槙様」
「お目覚めですか」

 槙が、額の布を取り替えた。

「力の使いすぎだそうです。しばらくは、鎮めも書庫もお休みですよ」

 紗和は起き上がろうとした。

「殿下は」
「ご自分のお部屋です」
「私、今日は」
「今日は、何もしません」

 きっぱり言われ、布団を掴む。槙は少し声を和らげた。

「倒れるまで勤めてほしいなどと、どなたも望んでいませんよ」

 分かっている。それでも怖かった。休めば、いなくてもよいと分かってしまう。

「すみません」

 槙は何か言いかけ、やめた。代わりに、枕元へ水を置いた。

「飲めるだけ、どうぞ」

 夕方、暁臣が見舞いに来た。紗和は布団から出ようとして、すぐに止められた。

「そのままでいい」

 いつもより、少し掠れた声だった。顔を見るのが怖かった。けれど見ないままでは、もっと怖い。

「申し訳ありませんでした」

 暁臣は隣へ座った。

「私も、止めるべきだった」
「殿下のせいでは」
「無理をしていることは、分かっていた」

 紗和は唇を噛んだ。

「もう、しばらく力が使えません」
「医師から聞いた」
「お勤めも、できなくて」
「休んでいればいい」

 簡単に言われ、かえって涙が込み上げた。

「役に立たない私でも、ここにいてよいのですか」

 暁臣は、すぐには答えなかった。紗和は俯いた。言ってしまった。ずっと隠していた願いを。しばらくして、衣擦れがした。暁臣が、少し近づいていた。

「紗和。私を見てくれ」

 涙で滲む視界を上げる。

「ここを出たいのか」

 紗和は首を振りかけ、止まった。

「それとも、出なければならないと思っているのか」

 二つの問いは、まるで違っていた。唇を開く。声が出なかった。暁臣は急かさなかった。庭で、雨垂れが一滴落ちる。その音を聞いてから、ようやく言えた。

「……いたいです」

 暁臣の眉間が、わずかに緩んだ。

「ここに、いたいです」
「では、いてくれ」

 静かな声だった。紗和は泣きながら首を振った。

「ですが、何も」
「何も、ではない」

 彼の手が動いた。
けれど、頬へ届く前に止まる。

 白い手袋。触れようとして、ためらうその手を見て、胸が痛んだ。

「君が来てから、朝に人と茶を飲むようになった」

 暁臣が言った。

「食事の席で、書物の話を聞くようになった。庭の花が咲いたことを、その日のうちに知るようになった」

 紗和は彼を見つめた。

「鎮めてもらったことには感謝している。だが、それだけなら、君が倒れたと聞いて……」

 言葉が途切れた。暁臣は視線を落とした。

「こんなに、怖くはならなかった」

 胸が強く鳴った。嬉しくて、悲しくて、涙ばかりが落ちる。暁臣は手巾を置いた。あの朝と同じ、白い手巾だった。

「今は休め。返事を求めに来たのではない」

 立ち上がろうとした彼の袖を、紗和は掴んだ。自分から引き留めたのは、初めてだった。

「もう少しだけ」

 小さな声になった。

「ここに、いていただけませんか」

 暁臣はゆっくりと座り直した。

「眠るまで」
「はい」

 紗和は袖の端を握ったまま、目を閉じた。

     

 再び目を覚ますと、部屋の灯りが小さくなっていた。障子の向こうは暗い。枕元には、暁臣がいた。壁へ背を預け、目を閉じている。

 帰らずにいてくれたのだ。身じろぎをしかけ、自分の手を見る。まだ、彼の袖を握っていた。皺になった布に気づき、慌てて指をほどく。

「離さなくていい」

 低い声がした。

「起こしてしまいましたか」
「眠ってはいなかった」
「ずっと、こうして?」
「少し目を休めていただけだ」

 そんなはずはない。握った袖のせいで、自由に動くこともできなかっただろう。

「申し訳ありません。お疲れでしょうに」

 暁臣は紗和の手を見た。

「嬉しかった」
「何が、でしょう」
「君が、引き留めてくれたことが」

 熱のせいではない温かさが、頬へ広がった。彼は視線を落としたまま続けた。

「だから、勝手に帰る気にはなれなかった」

 帰らせなければ。彼にも休んでもらわなければ。そう思うのに、口から出たのは違う言葉だった。

「もう少しだけ、お願いしても?」

 暁臣が顔を上げる。

「何を」

 紗和はためらいながら、もう一度袖へ手を伸ばした。

「ここに、いてください」

 彼は答える代わりに、座り直した。紗和が掴みやすいように、袖を寄せて。

「いる」

 その一言を聞いて、紗和は安心して目を閉じた。

  
 三日後、熱が下がった。部屋での読書を許され、紗和は槙に頼んで書庫から一冊だけ運んでもらった。だが、本を届けたのは暁臣だった。

「槙は、私に持たせた」

 少し不服そうな顔に、紗和は笑ってしまった。暁臣が目を細める。

「ようやく笑ったな」

 恥ずかしくなり、布団の端を整える。ふと、彼がもう一冊、薄い綴じ本を持っていることに気づいた。

「そちらは?」
「君の祖父殿について、少し調べさせた」
「祖父を?」
「君の力を使わずに、呪いを解く方法がないかと思ってな。古い祭文に詳しかったのなら、ほかにも書付を残しているのではないかと」

 渡されたのは、地方の文庫に収められていた祖父の手控えの写しだった。見覚えのある、細い文字。胸がいっぱいになった。

「原本は持ち出せないそうだが」
「これで、十分です」

 頁を撫でる。祖父がここにいるようだった。暁臣は、紗和の力がなくてもよい方法を探していた。鎮めを続けさせれば、それで済むのに。

「ありがとうございます」

 声が震えた。暁臣は首を振った。

「こちらこそ、祖父殿の知恵を借りる」

 二人で同じ頁を覗き込んだ。以前なら、近さに戸惑って身を引いていた。今は、引きたくなかった。