親友の言うとおりにしたら、冷酷皇弟の花嫁にされました



 その日、紗和は朝から書庫にいた。雨が降り始めたことにも気づかず、辞書と古い書付を見比べていると戸口に人の気配がした。

「まだ、ここにいたのか」

 顔を上げると、暁臣がいた。

「はい。もう少しで、この行が読めそうなのです」
「そうか」

 頷いたものの、彼は立ち去らなかった。紗和が筆を置くと、暁臣は庭へ目を向けた。

「いい茶葉が手に入ったんだ。一緒にどうだ?」
「でしたら、こちらが済み次第――」
「ああ。急がなくていい」

 そう言い、窓際へ座る。手に取った本を開いた。紗和は書付へ目を戻した。だが、先ほどまで読めていた文字が、急に頭へ入らなくなった。茶の支度ができたのなら、槙が呼びに来るはずだ。

 なぜ、殿下ご自身が。気になって顔を上げると、目が合った。暁臣が先に本へ視線を落とす。しばらくして、また見られている気がした。

「殿下」
「何だ」
「その本、先ほどから同じ頁ではありませんか」

 暁臣の指が止まった。紗和は慌てて俯いた。

「申し訳ありません。お邪魔を」
「邪魔をしているのは、私だろう」

 彼は本を閉じた。

「朝から、君の顔を見ていなかったから」

 筆を握ったまま、動けなくなった。暁臣が立ち上がる。

「続きを読んでいてくれ。茶は、あとでも淹れられる」
「あの」

 呼び止める声が、思いのほか大きくなった。彼が振り向く。紗和は筆を置き、書付の上へ文鎮を載せた。

「私も、少し休みたいと思っていました」

 暁臣の目元が和らぐ。

「そうか」

 その短い返事が、嬉しかった。

 一緒に廊下を歩く間、紗和は何度も、緩みそうになる口元を引き結んだ。

     

 鎮めのために手を取るときも、最近は落ち着かなかった。手袋の下に隠されていた暁臣の手には、細かな傷が多い。剣を握る人の手だ。初めは痣が薄れるか確かめることに必死だったのに、今は指の長さや掌の温かさが気になる。

「今日は、ここまでだな」

 鎮めを終えると、暁臣は必ず先に手を離した。疲れさせないように。長く引き留めないように。その気遣いを、嬉しいと思っていた。指が離れていく。それを見ながら紗和は頷き、膝へ戻した手を思わず握った。もう少しだけ。そんなことを考えた自分が、恥ずかしかった。

「寒いのか」

 暁臣が尋ねた。

「いいえ」
「手を握っている」

 見られていた。紗和は慌てて指をほどいた。

「何でもありません」

 暁臣は、すぐには手袋をはめなかった。紗和の手を見て、それから顔を見る。

「私も、似たようなことをしていた」
「え?」
「君が部屋を出たあとに、手を握る」

 紗和は息を止めた。暁臣は自分の掌を見下ろし、少し困ったように眉を寄せた。

「温かさが残っているうちは、つい」

 胸の音が大きくなった。聞かれてしまいそうで、顔を上げられない。

「今も、寒くはないのです」

 ようやく、それだけ言った。

「ただ、離れるのが、少し寂しかっただけで」

 しばらく、返事がなかった。言わなければよかった。そう思いかけたとき、暁臣がゆっくり手袋をはめた。そして、その手を差し出す。

「これなら、君の力を使わせずに済む」

 白い手袋を見つめる。

「よろしいのですか」
「私から頼んでいる」

 紗和は指を重ねた。静かに握り返される。鎮めのためではない。役目でもない。ただ手を繋いでいるのだと気づいた途端、頬が熱くなった。庭で風が鳴った。どちらも、しばらく何も言わなかった。


 その数日後、紗和には微かな頭痛があった。熱はなく、食欲もある。けれど夕方になると、文字が見づらくなった。鎮めの時刻が近づくにつれ、焦りが募る。ここへ来て、ようやく役目を得たのだ。
 休みたいなどと言えば、呆れられるかもしれない。暁臣の部屋へ向かうと、彼は一目で紗和の顔を見た。

「何かあったか」
「いいえ」

 いつもの返事が出かけて、止まる。できない日は、できないと言ってほしい。槙も、暁臣も、そう言っていた。確かめるようで申し訳ない。けれど、口にしてみたかった。

「少し、頭が痛くて」

 声が小さくなる。

「今夜は、お休みさせていただいてもよろしいでしょうか」

 暁臣が立ち上がった。紗和は肩を震わせた。

「槙を呼ぶ。熱は」
「ありません」
「吐き気は」
「それも」
「では、部屋で休め。医師に診せよう」

 叱責はなかった。理由を疑われることもなかった。かえって、紗和は動けなくなった。

「殿下は、よろしいのですか」
「薬がある」
「でも」
「紗和」

 目を合わせるように、暁臣が少し身を屈めた。

「休んでよいかと尋ねたのだろう。よいと言っている」

 紗和は、何度も頷いた。翌朝には、痛みはほとんど引いていた。それでも、食堂へ向かう足は重かった。昨日は親切でも、今日は違うかもしれない。役に立たない娘だと思われていたら。

 部屋へ入ると、暁臣は庭を眺めていた。紗和に気づき、向かいの席を示す。

「粥にした」

 昨日までと、同じ声だった。

「食べられそうか」

 紗和は座り、膝の上で手を重ねた。

「お怒りでは、ないのですか」

 暁臣が眉を寄せる。

「なぜ」
「昨日、お役目を果たせませんでしたから」

 彼は湯呑みを置いた。

「私も、体調の悪い日は仕事を休む」
「ですが、殿下と私は」
「粥が冷める」

 静かな声で遮られた。それから少し困ったように、言葉が続いた。

「食べながらでも、その話は聞ける」

 匙を持ち温かい粥が喉を通った途端、涙が落ちた。自分でも驚いた。袖で拭おうとすると、暁臣が手巾を差し出した。白い、何の飾りもない手巾だった。

「まずいか」

 紗和は泣きながら首を振った。

「おいしいです」
「なら、よかった」

 彼は理由を尋ねなかった。紗和が落ち着くまで、庭を眺めていてくれた。その横顔を見ながら、紗和は思った。この人のそばに、いたい。帰る場所がないからでも、役目があるからでもなく。明日の朝も、同じ卓につきたかった。