北の宮で迎えた最初の朝、紗和は日の出前に起きた。布団が柔らかすぎて、よく眠れなかった。昨夜は温かい食事を出され、湯も使わせてもらった。
何も返さないまま朝を迎えるのが、落ち着かなかった。井戸で水を汲み、廊下を拭く。半分ほど進んだところで、背後から声がした。
「何をしている」
振り返ると、暁臣が立っていた。昨日より、少し顔色がよい。
「お掃除を」
「それは見れば分かる」
紗和が立ち上がりかけると、彼は長い廊下の先を見た。
「ここを、ひとりで?」
「まだ半分ですが」
「槙」
呼ばれた槙が奥から現れ、紗和を見るなり額へ手を当てた。
「お仕事は朝餉のあとに説明すると申しましたでしょう」
「ですが、起きてしまいましたので」
「では、起きたまま休んでいてよいのです」
そんなことをしてよいのだろうか。迷っていると、暁臣が言った。
「私も起きてしまった。茶を飲むなら、一緒にどうだ」
皇弟と、朝の茶を?断る理由も、受ける作法も分からないうち、槙に手を洗うよう促されていた。庭に面した部屋に、湯気の立つ茶が置かれた。暁臣は庭を眺め、紗和は茶碗を見つめていた。
「毒は入っていない」
「そのようなことは」
「なら、冷める前に」
口をつけると、香ばしい味が広がった。ふと気が抜け、小さく息が漏れる。
「嫌いではないか」
「はい。おいしいです」
「そうか」
たったそれだけの会話だった。けれど、返事を間違えなかったか考えずに済んだことが、紗和には嬉しかった。朝餉のあと、槙から仕事を教わった。書庫の整理や薬の受け取り、暁臣が読んだ書付の保管などの仕事だ。鎮めは祈祷師の立ち会いのもと、一日に一度、短い時間だけ。
「できない日は、できないとおっしゃってください」
槙は念を押した。
「殿下は、我慢して倒れられるほうがお困りになります」
紗和は頷いた。その日、書庫で古い祭文を見つけた。かすれた文字を指で追っていると、戸口から声がした。
「読めるのか」
暁臣だった。
「全部ではありません。でも、祖父が集めていたものに似ていて」
「祖父殿は、祈祷師だったのか」
「いいえ。村の古い文書を預かる役でした。寺の書付も、田畑の帳面も、何でも家へ運び込まれて」
思い出して、笑みがこぼれた。
「雨の日には、家中が紙の匂いになりました」
暁臣は黙って聞いていた。話しすぎたかもしれない。紗和が口を閉じると、彼は棚の一角を示した。
「この宮にも似たものがある。私は読めないが捨てられずにいた」
「拝見してもよろしいのですか」
「そのための書庫だ」
紗和は恐る恐る一冊を取り出した。紙は古いが、保管がよく、文字も鮮明だった。頁を繰るうちに、周囲の音が遠くなる。
「初めてだな」
横から声がして、顔を上げた。
「何がでしょう」
「そういう顔を見た」
頬が熱くなった。子供じみた顔をしていただろうか。本を閉じかけると、暁臣は首を振った。
「そのままでいい」
静かな声だった。
「好きなものがあるのは、よいことだ」
その夜、紗和は珠緒へ手紙を書いた。北の宮は、噂ほど恐ろしい場所ではないこと。槙という女官が、親切にしてくれること。皇弟は危険を隠さず説明し、ほかの勤め先まで探そうとしてくれたこと。
自分にも、できる仕事が見つかりそうだということ。書き終えてから、暁臣の言葉をもう一度思い出した。祖父が亡くなってから、古い文字の話をしても、変わった娘だと笑われることが多かった。
紗和は熱くなった頬へ手を当てた。珠緒も、きっと喜んでくれる。そう思いながら、手紙を折った。
*
暁臣は、ときどき書庫へ来た。用事を言う日もあれば、ただ窓際で本を読む日もあった。最初は緊張したが、話しかけ続ける必要はないと分かると、その静けさが心地よくなった。ある午後、紗和は文字のかすれた書付を持ち上げた。
「殿下、これは」
「北の砦から運ばせたものだ」
「封じの儀式について書かれているようです。ただ、順番が……」
下段に、見覚えのある句があった。珠緒に預けてきた祭文と、同じ言葉だった。
「何か分かるか」
「以前読んだものと似ています。こちらには続きがあるので、合わせれば」
紗和は行を指で追った。
「祓う、ではなく、ほどく……?」
独り言のように呟くと、暁臣が身を寄せた。衣が触れ、紗和の指が止まる。
「すまない」
彼はすぐに距離を取った。
「続きを」
「は、はい」
文字へ目を戻す。だが意識の半分は、近づいた横顔に残っていた。穏やかな目をする人だと思った。目を合わせただけで怒鳴られるのではないかと恐れていたことが、今では不思議だった。
「文字が逃げたか」
紗和は、はっとした。
「申し訳ありません」
「冗談だ」
口元が、ごくわずかに緩んでいた。初めて見る笑みに、胸が跳ねた。



