親友の言うとおりにしたら、冷酷皇弟の花嫁にされました





 翌朝、迎えに来たのは、年配の女官ひとりだった。

「槙と申します」

 落ち着いた声で名乗ったその人は、紗和の足元を見た。

「お荷物は、それだけですか」
「はい」

 着替えの風呂敷と、祖父の形見の辞書。それから、自分の覚え書きを綴じた帳面。私物を増やすほど、あの部屋には馴染めなかった。槙は何も尋ねず、風呂敷へ手を伸ばした。

「こちらをお持ちしましょう」
「いいえ、自分で持てます」

 強い声が出てしまい、紗和は慌てて頭を下げた。

「申し訳ありません。お手を煩わせるわけには」
「では、重くなったらおっしゃってください」

 叱られなかったことに、かえって戸惑った。槙はもう歩き始めている。紗和は風呂敷を抱え直し、そのあとを追った。北へ向かうにつれ、人影が少なくなる。華やかな衣擦れが遠ざかり、雨の音が大きくなる。

 渡り廊下の先に、深い緑に囲まれた宮があった。荒れた場所を想像していたが、白砂には落ち葉ひとつない。軒先では小鳥が雨宿りをし、庭の奥には白い花をつけた古木があった。

「殿下のお体には、お許しなく触れないように」

 部屋の前で槙が言った。紗和は抱えた荷に力を込める。

「はい」
「それから、具合が悪ければ私に申し出てください。夜でも構いません」

 予想していなかった言葉に顔を上げると、槙は穏やかに続けた。

「慣れない場所では、自分で思うより疲れるものですから」

 御簾の向こうへ声がかけられる。

「殿下。新しい女官が参りました」

 しばらくして、低い声が返った。

「通せ」

 紗和は部屋へ入り、畳に両手をついた。

「本日よりお仕えいたします、紗和と申します」
「顔を上げてくれ」

 恐る恐る身を起こす。部屋の奥にいたのは、想像していたよりずっと若い青年だった。黒い衣に白い手袋。長い髪を背へ流したその人は、整った顔に濃い疲労を滲ませていた。恐ろしい人というより長く眠れていない人に見えた。

「ここへ来ることを、自分で承知したのか」
「女官長より、お申しつけを」

 皇弟の目が、槙へ向いた。槙が静かに一礼する。何か間違えたのだろうか。紗和は慌てて言い添えた。

「ですが、私にできることでしたら何でもいたします」
「何でも、とは言わないほうがいい」

 胸が冷えた。

「申し訳ございません」
「責めているのではない」

 すぐに、声が続いた。

「ここでの勤めについて、どこまで聞いている」
「身の回りのお世話を、と」
「私の体のことは」

 答えられずにいると、暁臣は手袋に包まれた指へ目を落とした。

「噂のすべてが真実ではない。だが、触れれば危険なのは本当だ」

 逃げ出したくなるほど、怖かった。それでも、目を逸らせなかった。脅すための言葉ではないと、分かったからだ。

「ここに暮らすだけで害が及ぶわけではない。不安なら、別の勤め先を探させる」
「別の……?」
「今日、決めなくていい。まずは休め」

 行く場所などない。実家へ戻れば縁談が待っている。珠緒にも、また迷惑をかけてしまう。

「私、ここでお勤めしたいです」

 暁臣は黙って紗和を見た。その沈黙が怖くて、言葉を重ねる。

「教えていただければ覚えます。今度こそ、間違えないようにいたしますから」
「紗和」

 初めて名前を呼ばれた。

「ここに置く条件として、失敗しないことを求めているわけではない」

 握り締めていた指が、少し緩んだ。何と答えればよいのだろう。暁臣はさらに何か言いかけ、不意に顔を歪めた。白い手袋が胸元を掴む。

「殿下」

 槙が駆け寄った。襟元から、黒い痣のようなものが覗いている。それは、生き物のように首筋へ伸びていた。

「薬を取ってまいります。紗和殿は、そこに」

 槙の足音が遠ざかる。暁臣の呼吸が乱れた。畳についた手が滑り、体が傾く。紗和は、考えるより先に手を伸ばしていた。

「触れるな」

 鋭い声がした。けれど支えようとした指は、手袋と袖の隙間に触れていた。熱い。そう思った次の瞬間、暁臣の震えが止まった。首筋の痣が、薄くなっていく。紗和は息を呑んだ。

「……何をした」
「分かりません」

 触れた手首を見つめる。今、離してよいのだろうか。離した途端、また苦しくなるのではないか。

「痛むところは」

 問われ、顔を上げた。

「ありません」
「本当に?」

 頷くと、暁臣は長く息を吐いた。その息が震えているのを聞き、紗和はようやく自分がどれほど近くにいるかを知った。慌てて手を引く。暁臣の指が一度だけ動いたが、紗和を掴むことはなかった。

「助かった」

 掠れた声がした。

「ありがとう」

 今度こそ叱られる。そう思っていた。だから、お礼を言われるなんて、少しも考えていなかった。


 その日のうちに、医師と祈祷師が呼ばれた。紗和には熱も痣もなく、脈の乱れもない。老いた祈祷師は紗和の指に細い銀糸を結び、小さな鈴を揺らした。

「鎮めの力ですな」

 鈴は、触れてもいないのに鳴った。

「穢れを祓うほど強いものではありませぬ。ですが、殿下の内で荒れるものを一時的に眠らせることができる」

 暁臣の表情は変わらなかった。

「この娘への害は」
「今のところはございません。ただ、使えば疲れます。限度を確かめねば」
「では、今日は終わりだ」

 紗和は慌てた。

「私は、まだ何ともありません」
「何ともなくてもだ」

 暁臣は少し考え、言葉を足した。

「助けてくれた相手を、働かせすぎたくはないんだ」

 紗和は口を閉じた。祈祷師が、髭の奥で笑ったようだった。