婚礼は、翌年の春と決まった。その前に二人は、紗和の故郷を訪れた。祖父の墓前に花を供え、紗和は自分で読み解いた祭文の写しを見せた。
暁臣はその隣で、深く頭を下げた。
「お祖父様のおかげで、助かりました」
短い言葉だった。けれど紗和には、何より嬉しかった。祖父が教えてくれたものが、この人につながっている。
そう思いながら、春の風に揺れる花を眺めた。
実家に挨拶に行った時母は最初、皇弟の訪問に青くなった。紗和が婚姻を望んでいると聞いても、しばらく信じられない様子だった。
だが帰り際、二人きりになると、ぽつりと言った。
「あなたは、昔から頑固だったわね」
紗和は少し笑った。
「そう、でしたか?」
「古い書付を捨てると言うと、いつも抱えて逃げたでしょう」
忘れていたことだった。庭の奥にある蔵を見る。
祖父も、父も、もういない。
けれど、自分が好きだったものは、なくなっていなかった。母は長く黙り、自分の手を見つめた。
「あの縁談を、あなたのためだと思っていたの」
紗和は答えなかった。
「家を守るのに必死で、あなたが嫌だと言っていることを、聞かなかったわ」
すぐに、すべてを許せたわけではない。それでも紗和は、母の言葉を受け取った。
「これからは、聞いてほしい」
母が頷いた。紗和も頷き返した。戸口へ出ると、暁臣が待っていた。
「話せたか」
「はい」
それ以上は尋ねず、手を差し出してくれる。紗和はその手を取った。
***
婚礼の日。槙は紗和の髪を整えながら、何度も目元を押さえた。
「槙様、私まで泣いてしまいます」
「泣いてはいけません。お化粧を直す時間がありません」
自分は泣いているのに。紗和が笑うと、槙も笑った。最後に挿されたのは、白い花の髪飾りだった。
鏡の中に、見慣れないほど華やかな自分がいる。
けれど、怖くはなかった。何かを間違えても、すべてが壊れるわけではない。分からなければ尋ねればよい。
嫌なら、そう言えばよい。嬉しいときには、嬉しいと伝えればよい。戸の向こうで、暁臣の声がした。
「入っても?」
槙が返事をし、戸を開けた。晴れ着姿の暁臣は、紗和を見るなり立ち止まった。何も言わない。紗和は少し不安になった。
「どこか、おかしいでしょうか」
「いや」
返事が、いつもより遅かった。槙が小さく笑う。
「殿下。そういうときには、お言葉にしていただかなくては」
暁臣は一度だけ槙を見た。それから紗和へ向き直る。
「綺麗だ」
まっすぐな声だった。頬が熱くなった。
「ありがとうございます」
槙がそっと部屋を出た。暁臣は前へ進み、紗和の手を取った。
「冷えている」
「緊張しているのだと思います」
「私もだ」
「殿下も?」
「君は、私を何だと思っている」
少し困った顔に、紗和が笑えば暁臣も笑う。それだけで、胸の強張りがほどけた。
「行こうか」
紗和は頷いた。けれど歩き出す前に、彼の手を少し引いた。
「一つ、お願いがあります」
「何でも」
紗和は目を細めた。
「何でも、とは言わないほうがよいのでは?」
暁臣が、珍しく言葉に詰まった。二人で笑った。それから紗和は、握った手に力を込めた。
「婚礼が終わっても、朝のお茶は、二人で飲みたいです」
暁臣は、ひどく優しい顔をした。
「ああ。明日も、その次も」
大きな宮で、皇弟の妻になる。まだ少し、現実味がなかった。
***
翌朝、紗和が目を覚ますと、暁臣はすでに起きていた。窓のそばへ座り、庭を見ている。呼ぼうとして、少し迷った。
殿下……夫となった人へ、これまでと同じ呼び方をするのが、何となくもどかしかった。
「暁臣様」
その人が、すぐに振り向いた。紗和は布団の端を握る。
「おはようございます」
暁臣はしばらく黙っていた。それから立ち上がり、そばへ来た。
「もう一度」
「おはようございます?」
「その前だ」
頬が熱くなる。
「暁臣様」
今度は、はっきりと呼んだ。彼は満足そうに目を細め、紗和の額へ口づけた。
「おはよう、紗和」
身を起こした紗和の肩へ、羽織を掛けてくれる。その手つきがあまりに自然で、紗和は思わず彼の腕へ触れた。
「どうした」
「夢ではないかと、少し」
暁臣がこちらを見た。そして、紗和の手を取る。指を絡めるように握られ、胸が跳ねた。
「これでも?」
紗和は頷いた。
「まだ、少し」
暁臣が身を屈めた。今度は額ではなく、唇に触れた。離れたあとも近くにある顔を、紗和は真っ赤になって見つめた。
「……目が覚めました」
「それは、よかった」
声は落ち着いていた。けれど、彼の耳も少し赤かった。
朝の茶は、いつもより遅くなった。槙は何も言わなかったが、盆を置くとき、たいへん嬉しそうな顔をしていた。
庭では、あの白い花が今年も咲いている。
初めてここへ来た日には、何かの役に立たなければ、居場所はなくなると思っていた。
今、隣には暁臣がいる。卓の上には、二人分の茶碗。書庫には、続きを待つ古い書物がある。
「何を考えている」
尋ねられて、紗和は顔を上げた。取り繕う言葉は、必要なかった。
「幸せだな、と」
暁臣は茶碗を置いた。紗和の手に、自分の手を重ねる。
「私もだ」
庭から、白い花びらがひとひら舞い込んだ。紗和は空いた手でそれを受け止め、笑った。
もう、その笑みを誰かのために小さくする必要はなかった。
終



