満月の夜。北の宮の祭室には、幾重もの白い紐が渡された。中央に、欠けた鏡。その前へ暁臣が座り、紗和が向かい合う。周囲には、老祈祷師と補佐の者たち。槙は入り口で二人を見守っていた。
暁臣が手袋を外した。紗和は、その手を取った。傷の多い指。初めて触れたときは、ただ熱いと思った。今は、その温かさを知っている。
「始めます」
祭文を読み上げる。古い言葉が、静かな部屋を満たした。暁臣の腕へ、黒い痣が浮かぶ。握った指が強張った。
紗和は一度、呼吸を整えた。
怖い。だが、ひとりではない。周囲の祈祷師が、声を受け継ぐ。白い紐が張り、鏡の縁の文字が淡く光った。暁臣が苦しげに眉を寄せた。触れた手から、冷たいものが伝わってくる。体が重くなった。それでも、まだ続けられた。
曖昧な我慢ではなく、確かめていた。息はできる。声も出る。暁臣の手を、握っていられる。
「紗和」
呼ばれた。紗和は彼の目を見た。問いかけている。
大丈夫か。
やめるか。
紗和は頷いた。
「続けられます」
暁臣も頷いた。最後の句へ進む。閉じた道を、ほどく。抱えたものを、器へ。暁臣の胸元から、黒い糸のようなものが立ち上った。
鏡が低く鳴る。紗和の指が痺れた。老祈祷師が杖を打つ。
「今です」
最後の言葉を唱えた。鏡の光が弾ける。風もないのに、白い紐が一斉に揺れた。暁臣の体が前へ傾いた。紗和は手を離さなかった。
重みを受け止め、肩を支える。初めて会った日と、同じだった。
だが、今度は。腕の下に、黒い痣がなかった。暁臣がゆっくり顔を上げた。紗和の名を呼ぶ。
返事をしようとして、涙がこぼれた。暁臣は空いた手を持ち上げた。途中で、止まる。
長い間、身に染みついたためらいだった。紗和は、その手へ自分の頬を寄せた。
熱すぎない。痛くもない。ただ、温かい。暁臣の指が、震えながら頬を撫でた。
「本当に……」
言葉にならない声だった。紗和は泣きながら笑った。
「はい」
彼の腕が、背へ回った。初めて、抱きしめられた。少しぎこちなくて、強くしすぎないように気遣う腕だった。紗和も、彼の衣を握った。
老祈祷師が咳払いをした。けれど、どちらもすぐには離れられなかった。
*
その夜は、医師の診察と祈祷師たちの確認に追われた。翌日も、その次の日も。解呪の報告を聞いた使者が訪れ、暁臣は久しく会っていなかった人々と顔を合わせた。よいことだった。彼が、人を避けずに済むようになったのだから。紗和はそう思いながら、書庫で同じ頁を何度も読み直していた。
「紗和」
戸口に暁臣がいた。立ち上がりかけると、彼がこちらへ歩いてくる。手袋は、なかった。見るたびに、まだ胸がいっぱいになった。
「お話は、終わったのですか」
「ああ」
「では、お休みになられたほうが」
「その前に、会いたかった」
言葉が止まった。暁臣は机を挟んだ向こう側へ座った。近いのに、少し遠い。
「私も、お話ししたいと思っていました」
「何を?」
何だろう。訪れた使者のこと。今日読めた書付のこと。いくらでもあるはずなのに、本当に言いたいのは違うことだった。
「そちらへ行っても、よいですか」
暁臣が瞬いた。それから、自分の隣へ目を向ける。
「もちろん」
紗和は立ち上がり、机を回った。隣へ座る。肩が触れるほどではない。けれど、向かい合っているときより、ずっと落ち着かなかった。暁臣が、掌を上にして手を置いた。紗和はそこへ、自分の手を重ねる。温かい皮膚の感触に、指先が震えた。優しく握り返される。
「まだ、不思議だな」
「はい」
「触れても、君が傷つかない」
彼は繋いだ手を、ひどく大切そうに見ていた。その横顔を見ているうちに、胸の奥から願いが込み上げた。
「あの夜は、皆様がいらしたので」
「儀式の夜か」
「はい」
紗和は少しだけ、彼のほうへ体を向けた。
「もう一度、抱きしめていただきたいです」
暁臣の指に力が入った。恥ずかしかった。それでも、言葉を引っ込めなかった。
「今度は、私がお願いしたくて」
暁臣は答えず、重ねた手をそっと引いた。背中へ腕が回る。ゆっくりと引き寄せられ、彼の胸元へ頬が触れた。衣越しに、鼓動が聞こえる。
速かった。自分と、同じくらい。
「殿下も、緊張していらっしゃるのですか」
「している」
隠さず答えられ、紗和は少し笑った。
「私もです」
「分かっている」
背を一度だけ撫でられる。
「分かっているのに、離したくない」
紗和は彼の衣へ腕を回した。
「では、まだ離さないでください」
頭の上で、小さく息を呑む音がした。抱く腕が、ほんの少し強くなる。紗和は目を閉じた。役目を果たしたから、ここにいるのではない。彼に触れたくて、自分から来た。暁臣の頬が、髪へそっと寄せられる。
「紗和」
「はい」
「先日の返事を、今、聞いてもよいか」
何のことか、すぐに分かった。紗和は顔を上げた。近くにある目が、まっすぐに自分を見ている。頬を包む手は、もう手袋に隔てられていない。
「口づけても?」
紗和は頷き、それから小さく言い直した。
「はい。私も、そうしていただきたいです」
暁臣の表情がほどけた。唇が触れたのは、ほんの短い間だった。離れると、彼は紗和の顔を確かめるように見つめた。紗和は照れながら、彼の袖を掴んだ。
初めて引き留めた、あの夜と同じように。今度は暁臣も、その意味を尋ねなかった。



