北の宮へ戻ってから、紗和は庭に面した縁へ座った。暁臣も、少し間を空けて腰を下ろす。晴れていた。何日ぶりかの光が、白砂に落ちている。
紗和は自分の手を見た。祭文を取り戻した。盗んだのではないと、分かってもらえた。自分の仕事を、自分のものだと言えた。嬉しいはずだった。それなのに、胸の中には大きな穴が空いていた。
「珠緒は、昔からああだったのでしょうか」
暁臣は庭を見たまま答えた。
「私には、分からない」
「そう、ですよね」
「君も、今日すべてを決めなくていい」
紗和は隣を見た。
「好きだった時間まで、間違いにする必要はないと思う」
涙が滲んだ。
「でも、私、気づかなかったんです」
「気づけないようにされていたのだろう」
「それでも」
「信じたことは、君の落ち度ではない」
紗和は顔を伏せた。誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。珠緒の優しさを喜んだ自分が、愚かだったのではないと。嬉しかった気持ちまで、恥じなくてよいのだと。
隣で、衣が動いた。
「手を取っても、よいか」
紗和は頷いた。手袋越しに、大きな掌が指を包む。泣きやむことも、元気を出すことも求められなかった。ただ、そばにいてくれた。紗和はその手を握り返し、声を殺さずに泣いた。
*
それから半月、二人は解呪の準備を進めた。取り戻した祭文。北の砦の書付や祖父の手控え。三つを合わせ、最後の手順が明らかになった。まず、荒れを鎮める。次に、封じた道を開く。そして、清めた器へ穢れを移す。器に必要なのは、砦の祭壇に残っていた、欠けた鏡だった。
暁臣はそれを、戦の記録とともに北の宮へ運ばせていた。捨てられなかったのだと言った。救えなかった者たちがいた場所のものだから、と。紗和は鏡を包む布をほどいた。縁の文字を、指で追う。
「これです」
暁臣が覗き込む。
「祭文の、最後の句。移す器の名が、ここに」
老祈祷師が読み合わせ、深く頷いた。
「道がつながりましたな」
ようやく、終わりが見えた。だが暁臣は、手放しで喜ばなかった。
「紗和に、どれほどの負担がかかる」
「いつもの鎮めより、長くなります。ただし、私どもが周囲を支えます。以前のように、ひとりで力を使わせることはいたしません」
「途中で止められるか」
「封じを解く前ならば」
暁臣は紗和を見た。
「無理なら、やめる」
紗和は頷いた。
「はい」
以前なら、絶対にできますと言っただろう。倒れてもよいと、思ったかもしれない。今は違う。終わったあとも、この人と生きたかった。
「具合が悪くなったら、必ず申し上げます」
暁臣の表情が緩んだ。
「約束だ」
*
解呪は、満月の夜に行われることになった。前の晩、紗和は眠れずに庭へ出た。月が池に映っている。
「冷える」
背後から声がした。暁臣が、羽織を持って立っていた。紗和の肩へ掛け、隣に並ぶ。
「殿下も、眠れませんか」
「少しな」
「私もです」
しばらく、池を眺めた。遠くで夜回りの足音がする。
「終わったら」
暁臣が言った。
「どこへ行きたい」
紗和は考えた。
「祖父に、報告をしたいです」
「では、行こう」
自然な返事だった。紗和は隣を見た。
「殿下も?」
「迷惑でなければ」
「迷惑など」
慌てて首を振ると、彼の口元が緩んだ。
「では、決まりだ」
紗和は羽織の襟を握った。解呪が終われば、鎮めの役目はなくなる。この宮にいられるとは言ってもらった。
それでも、聞いてみたかった。今度は恐れからではなく、自分の望みを伝えるために。
「殿下」
「何だ」
「呪いが解けても、朝のお茶をご一緒してよいですか」
暁臣が紗和を見た。
「それだけか」
胸が、小さく跳ねる。
「書庫にも、いてよいですか」
「ああ」
「庭の花が咲いたら、お知らせしても」
「ぜひ、そうしてくれ」
目の奥が熱くなった。
「では、寂しい夜に、お顔を見たいと申し上げても?」
暁臣の表情が変わった。一度、目を伏せる。それから、紗和へ向き直った。
「それは、私のほうが言いたかった」
いつもより、低い声だった。
「君が休んでいた間、朝の席がひどく広かった。書庫へ行っても、話しかける相手がいなかった」
紗和の指が、襟を掴む。
「体が回復することだけを考えるべきなのに、早く笑いかけてほしいと思っていた」
手袋の指先が、頬に触れた。
「そばにいてほしい」
紗和は目を閉じかけ、また開いた。この顔を、見ていたかった。
「私も」
声が震えた。
「殿下の、そばにいたいです」
暁臣はすぐには動かなかった。ただ、その目が痛いほど優しくなった。
「明日が終わったら、改めて話をさせてくれ」
「はい」
「役目の話ではなく」
紗和は頷いた。暁臣が身を屈める。額へ唇を寄せられる、その直前に、紗和は思わず彼の衣を掴んだ。彼が止まる。
「嫌だったか」
「違います」
慌てて首を振った。
「急でしたので」
暁臣は少し身を引いた。
「すまない」
距離が戻ってしまう。紗和は衣を離せなかった。嫌ではなかった。驚いただけだった。むしろ、離れてしまったことのほうが寂しかった。
「紗和?」
その声に、覚悟を決めた。
「もう一度、お願いします」
言ってから、息を止める。暁臣も動かなかった。月明かりの中、その耳が少し赤く見えた。
「君は、時々」
「はい」
「私が何を我慢しているのか、分かっていない」
胸が強く鳴った。
「では、教えてください」
暁臣は目を伏せた。困らせてしまっただろうか。そう思った次の瞬間、頬を包まれた。
「明日が終わったら、きちんと尋ねる」
「何を、ですか」
「君に、口づけてもよいか」
顔じゅうが熱くなった。それなのに、目を逸らしたくなかった。
「今、お返事をしては、いけませんか」
暁臣が息を詰めた。恥ずかしくなって俯きかけた、その前に。額へ、温かなものが触れた。今度は、逃げなかった。目を閉じ、彼の衣を握る。唇が離れると、すぐ近くで声がした。
「明日も、同じ返事を聞かせてくれ」
紗和は彼の胸元へ額を寄せた。
「はい」
小さな返事は、きっと聞こえていた。



