親友の言うとおりにしたら、冷酷皇弟の花嫁にされました


「ごめんなさい、紗和。私、あなたを守れなかった」

 珠緒の涙が、握り合った手の上へ落ちた。その温かさを感じながら、紗和は先ほど告げられた言葉を思い返していた。


『明朝より、北の宮へ異動。皇弟・暁臣殿下のおそばに上がるように』

 女官長はそれだけ言うと、机の上の書付へ目を戻した。理由を尋ねる余地も、辞退する隙もなかった。

「本当に、私なのね」

 確かめても仕方のないことを尋ねると、珠緒は唇を噛んで頷いた。窓の外では、春の雨が細く降っている。

 宮中へ上がった日も、こんな雨だった。あの日は珠緒が傘を差しかけてくれた。濡れた袖を手巾で拭き、これからは毎日一緒ねと笑ってくれた。

 それから三月。紗和には、珠緒以外に親しく話せる相手ができなかった。

「私からもお願いしたの。女官長は、もうお決めになったとおっしゃって」
「珠緒のせいではないわ」

 慌てて首を振る。珠緒には、ずっと助けてもらっていた。父を亡くし、家に残った借財のため、母から縁談を勧められたときも。相手が父より年上だと知り、どうしても承知できずにいたときも。

 女官になる道を教えてくれたのは、珠緒だった。採用試験に必要な書付を揃え、推薦もしてくれた。作法を教え、宮中へ入るための口添えまでしてくれた。

 それなのに、紗和は失敗ばかりだった。
 春祭りの供物目録には、大事な一枚が足りなかった。祭文を書き写せば、使ってはならない古い言葉が混じっていたし言われた時刻に品を運んだつもりが、遅いと叱られたこともある。
 三度確かめた。間違えないように、覚えも残した。それでも不備があると言われるたび、紗和は自分を疑うようになった。

「私がもっときちんと働けていたら」
「あなたは悪くないわ」

 珠緒の指が、手の甲を撫でた。

「少し、宮中のお勤めが難しかっただけ。昔から一度にたくさんのことをするのは苦手だったでしょう?」

 そうだっただろうか。故郷では、祖父の蔵書を整理しながら家事をし、父の看病もしていた。忙しくはあったが、何もできない娘だと思ったことはなかった。

 けれど、宮中はやはり違うのだろう。祖父の書斎で褒めてもらえた程度のことは、ここでは通用しないのかもしれない。

「北の宮なら、ほかの女官たちに気を遣わずに済むわ。あなたには、そのほうがよいかもしれない」

 珠緒は微笑んだ。だが、紗和の指先の震えは止まらなかった。北の宮には、呪われた皇弟が住んでいて戦場から恐ろしい穢れを持ち帰り、触れた者の命を奪うのだという噂だ。

 気に入らない者を闇へ沈めるとも聞いた。どこまでが本当なのか、紗和には分からない。ただ、北の宮へ続く渡り廊下を、人々が避けるように歩く姿は何度も見ていた。

「私、何をすればよいのかしら」
「身の回りのお世話よ。詳しいことは、向こうにいる女官に聞けばいいわ」
「殿下は、お世話の者をお望みなの?」

 珠緒の手が、わずかに強くなった。

「紗和」

 顔を上げると、親友は困ったように眉を下げていた。

「そのように尋ねたら、殿下のおそばへ上がるのが嫌だと言っているように聞こえてしまうわ」
「そんなつもりでは」
「分かっているわ。私には、ちゃんと分かるもの」

 珠緒は紗和の肩を抱いた。

「でも、ほかの方にも同じように伝わるとは限らないでしょう。だから、気をつけて」

 また、間違えるところだった。紗和は小さく頷いた。

「ありがとう」

 何を言えばよいのか。何を飲み込まなければならないのか。宮中へ来てから、分からないことが増えていく。昔はもう少し、上手に人と話せた気がするのに。

「何かあったら、お文をちょうだい」

 珠緒の衣から、甘い練香が匂った。

「私だけは、何があってもあなたの味方よ」

 その言葉に、ようやく息ができた。北の宮へ移っても、ひとりになるわけではない。紗和は親友の肩へ額を寄せた。その向こうに見えた机には、古い祭文が広げられていた。女官長に読めるかと尋ねられ、紗和が預かったものだった。三晩かけて、ようやく読み筋をつかんだところだ。

「祭文のことも、ごめんなさい。中途半端になってしまって」
「気にしないで。続きは私が引き受けるから」

 珠緒が背を撫でてくれる。紗和は目を閉じた。最後まで、親友に迷惑をかけてしまった。

 本当にそう思っていた。