目の前の白紙を見つめる。
もう、何度目だろう。
黒いインクで印刷されている文字。明朝体の冷たいフォント。
『進路希望調査』
この言葉が嫌いだ。
ペンを握っているのに手に力が入らない。
ふと、窓の外を見る。
教室に差し込む夕日は、鮮やかで、私の机上とは正反対だ。
ペンを無理やり走らせる。
『第一志望 未定』
『第二志望 未定』
『第三志望 未定』
『大学進学・専門学校進学・就職』
これは、『大学進学』に丸をする。
みんな、そうだから。
「えー、依未(えみ)また未定じゃん。先生に何か言われるよー」
顔を上げると、中学からの友達の夢華(ゆめか)が笑っていた。
ストレートヘアを揺らす夢華は、ナチュラルメイクでとても親しみやすい雰囲気だ。
何度も何度も、未定で出しては、先生に考え直せと言われた。
でも、いくら考えたってわからない。
「だって決められないんだもん。人生一度きりなんだよ?」
そう笑いかけると、
「だからでしょ!だから自分で決めるんだよ」
と彼女は澄んだ声を響かせた。
いいなあいいなあ。自分で決められて。
彼女の机の上にある美容専門学校のパンフレットに目がいく。
それが光を放っているように見えて。
朝に綺麗に巻いた自分の髪を指先でいじる。
「夢華は、美容師さんになりたいんだっけ?」
「そう!親には反対されてるけどね。まあ、諦めないけど!」
腰に両手を置く夢華が羨ましい。
いっそ、誰かが全部、正解を教えてくれればいいのに。誰かが私の人生の選択をしてくれたらいいのに。
お母さんが大学に行きなさいって言うから、大学を目指して。
お父さんが安定した仕事がいいなって言うから、公務員になりたくて。
先生が自分で考えろって言うから、自分で考えるふりをする。
自分では、決められない。間違えるのが怖い。この一つの選択で、自分の人生が決まってしまうかもしれない。考え始めると、止まらない。一度決めてしまったら、きっと戻れないから。私の『進路希望調査』はいつも同じ答えだ。
「でもー」
そう呟くと、
「じゃあ、もし、絶対に正解を教えてくれるものがあったら、使う?」
私の進路希望調査を見つめながら、夢華はなんでもなさそうなトーンで聞いてきた。
正解を、教えてくれる。そんなの、使わないはずがない。
「使う」
自分の声が、静かな教室に溶けていった。
「やっぱりかー」
二人でふっと笑って、先生に進路希望調査を提出しに行く。夢華も付き添ってくれて、渡り廊下をゆっくりと歩く。
先生には、
「まあ、一旦もらっとくから。よく考えろ」
と言われた。
少し迷惑そうな表情に見えたのは、気のせいだろうか。
十七歳の誕生日だった。
家族とケーキを食べて、プレゼントをもらって、夢華もお菓子をくれた。
もう空が夜へと色を変える頃、通知が来たスマホを見る。
『インストールが完了しました。』
え、と声が漏れる。
戸惑いながらもロックを解除すると、ホーム画面には、見慣れないアイコンがあった。
深い青色と紫色と黒が中心にかけてグラデーションになっていて、白い惑星のようなマークが真ん中に描かれている。
見たこともないアイコンに、入れた覚えのないアプリが私の目の奥まで飛び込んできた。
その下にはAnswer、とアプリ名が示されている。
何、このアプリ。
アンサー、そう呟いて考える前にアイコンをタップしていた。
ホーム画面が切り替わり、アプリの画面に占領される。
ダウンロード中の文字の下に、赤色のバーが伸びていく。
10%、50%、100%、完了。
画面がゆっくりと変わっていき、文字が浮かび上がってきた。
『あなたは、人生を間違えたくないですか。』
その質問に、心臓がどきっと跳ねる。
でも、すぐに『はい』のボタンを押した。
『本当に?』
この質問も、迷わず『はい』にする。
『私が、正解をお教えします。』
正解を、教える?
なんの正解を?どうやって?
瞬きの数が増えて、指が小さく震える。
次へ、のボタンへ震える指を伸ばした。
『名前はなんですか?』
これ、教えて大丈夫なの?下の方に出てきたキーボードを前に、息を吸う。心臓に急かされるように『依未』と入力した。
その後も、年齢や性格、いろいろなことを聞かれた。一通り質問が終わったのか、今度は青いバーが出てきて、ダウンロードが進んでいく。怪しいという感情がないわけではないけど、そんなことよりも正解に惹かれていた。
追加のダウンロードが終わると、『質問する』というボタンができていた。
半信半疑で『明日は電車かバス、どっちで高校に行けばいい?』と送信する。
少し待つと、『バスで行ってください。』と返信が来た。
本当かなんてわからないけど、私は信じるほかなかった。
次の日の朝、Answerの言う通りにバスに乗り、後ろの方の窓際の座席に腰を下ろした。
いつもは電車通学だから、なんだかバスの匂いも、運転手さんのアナウンスの声も、ゆっくりと過ぎていく景色も新鮮だ。
少し経つと、大きな交差点で渋滞にはまった。一応、余裕をもって少し早めのバスに乗っているけど、ギリギリになってしまったのだ。学校に着くと、不思議なことに、まだほとんどの生徒がいなかった。
すぐに担任の先生が入ってきて、「電車が止まってるそうだから、一限は自習で」
と言葉を残して去っていった。
二限の課題がまだ終わってなかったから、ラッキーだ。
Answerの惑星のマークのアイコンが頭に浮かぶ。
あれが言ってる通りにしたら、上手くいった。たまたまかもしれない。でも、今日は、上手くいった。
教室の中にいる数少ない生徒の息の音、ペンの走る音、ページをめくる音。いつもは聞こえない風の音までよく耳に入る。
三十分もすれば、廊下から聞こえる足音が多くなり、続々とクラスメイトたちが教室に入ってきた。
私の課題が終わった頃に、夢華が顔を出した。
夢華は私の一つ前の自分の席に座る。鞄を机にドンッと置いて、私の方を椅子ごと振り返る。いかにも重たそうな鞄だった。
「最悪だよー。電車止まるとか聞いてない!!」
眉尻を下げながらわざとらしく大きなため息を吐く夢華に、
「災難だったね」
と声をかける。
「ほんとだよ、依未はなんで間に合ったの?」
「私は今日、バスで来たの」
夢華は、首を傾げて
「なんで急に?」
と呟く。
なぜかアプリのことを話す気にはなれなかった。
「な、なんとなく」
「ふーん」
そう夢華は窓の外を向いた。でもすぐに私の方に向き直り、
「二限の課題やった?」
「今終わったとこだよ」
夢華は
「写させてー」
と目を輝かせながら私を見つめた。
「いいよ」
ノートを手渡す。
「まじありがと!」
私の机の半分を夢華のノートと私のノートが占領した。
いつもの光景に頬を緩ませながら、夢華のペン先を目で追った。
家に帰って、またAnswerのアイコンをタップする。まだ見慣れないフォントに、アイコン。
もし、本当に答えを教えてくれるなら。私が求めていたものが、手の中にある。
ぎゅっとスマホを握りしめた。
目が覚めて、顔を洗う。
冷たい水が目を覚まさせた。
まとわりついた前髪を手で乱雑に分けて、また冷たい水を被る。
ふわふわのタオルで顔を覆って、スマホを手に取った。
Answerを開く。今日は、何について聞こうかな?
適当に文字を打つ。
『今日、髪の毛巻くべき?』
『巻かない方がいいでしょう。』
示された通りにただ後ろで結ぶ。ストレートアイロンで髪を真っ直ぐにして。
いつもよりも早めに身だしなみを整えるのが終わって、ゆっくりと朝ごはんのトーストを頬張った。
四限の学年集会。
三十分を過ぎた頃、会は終わり、抜き打ちの生活点検が始まった。名簿を持った先生たちが出席番号順に並んだ生徒たちの髪の毛、スカート、メイクを、隈なくチェックしており、時々名簿に何か書き込んでいるようだ。生徒たちの不満の声が体育館に響き渡っている。
少しずつ私の順番が近づいてきた。
今日は最近見ない特に厳しい先生がいる。たくさんの女子のスカートやメイクに指摘していた。
周りにいる生徒はいつも通り、髪を巻いたり、濃い目のメイクをしたりしているせいで、再検査になっていく。
私は今日はAnswerのおかげで髪を巻いていないから引っかからなくて済んだ。
夢華はいつもストレートで薄いメイクだから、引っかかることはないだろう。
「依未、今日巻いてないね。」
ささやき声で、耳元から呟く夢華に
「ラッキー」
と毛先を触る。
「最近ラッキー多いじゃん」
夢華は肩で私の背中をトンっと押した。
へへっと笑う。
Answerはすごい。全部全部当てる。
なんて便利なんだろう。
次の日、昼休みに夢華がスマホで髪色を見せてきた。お弁当に入っていた野菜炒めを口に運びながら目を向ける。
「これ、どっちがいいかな!!次の長い休みで染めようかなって」
写真にはアッシュグレーのような色と、ミルクティーブラウン、と書いてある。どちらの色も淡めで透明感があって夢華によく似合いそうだ。私はミルクティーブラウンの方が合っていると思う。そう言おうとすると、口が結ばれる。手が勝手にAnswerを開いて、
『親友は色白で明るくて可愛らしい子。髪色はアッシュグレーとミルクティーブラウンどっちがいいかな』
『ミルクティーブラウンがいいでしょう。』
その答えを見てほっと胸を撫で下ろす。
「ミルクティーブラウンがいい!!」
「やっぱり!私もそう思う」
夢華はパッと花のように笑った。
すごいすごい。全部上手くいく。言う通りにすれば、怖くない。私はまたスマホをぐっと握った。
夢華と最寄り駅から歩く。
鳥のさえずりと、流れていく雲、頬に触れる風。
横にはふんわりと笑う夢華。でも、一瞬にして、その笑顔は消えた。
「どうかした?」
そう声をかけると、夢華はハッと私を見た。
澄んだ瞳が私を映す。
「なんか、迷っててさ。美容師になるために専門学校に行くか、大学進学するか。依未も真剣に悩んでるし、私、軽すぎるかなって。お母さんもお父さんも反対してるし。」
ふうっと小さく息を吐く音が聞こえた。夢華の指先は、前髪をつまんでいる。
「どうしよっかなーって。私さ、大学に行くべきなのかな」
手は次はスカートをつかみ、力なく微笑むその顔は、今まで見たどの表情よりも脆そうで。風に揺れる髪の毛が静かに煌めく。
何と声をかけるべきかわからなかった。
「えっと」
ポケットの中からスマホを取り出す。
ちょっとごめん、と呟いてAnswerを開く。
夢華は、うん、とまた笑って少し視線を落とした。
早く、私に答えを。
『夢華に大学に行くべきか専門学校に行ってもいいんじゃないか、どっちを伝えるべき?』
少し時間が過ぎると、
『大学に行くべき、と言ってください。』
「大学に行くべきじゃないかな」
何も考えずに発した台詞に、夢華は目を大きく見開いて、へっと笑った。
「依未にそう言われたら、何も言えないよ」
グサリ、と心に何かが刺さる気がする。
近くにいた鳩がバサバサと音を立てて一瞬で飛び立っていった。
さっきまで聞こえていた鳴き声も、翼の音も、もう聞こえない。
ただ空を見上げる夢華の横顔に、寂しさというか、悲しみというか、言葉にできない何かが漂っていた。
そんな夢華を励ます言葉が欲しい。
でも、何を伝えればいい?謝ればいい?
「ごめんっ、忘れて」
さっきの脆い笑顔で夢華は言った。
その後も夢華は何度も話題を振ってくれたのに、考えが巡るせいで、上手く受け答えができない。
もう夢華と別れる交差点まで来てしまった。
「じゃあね」
その夢華の目尻も、口角も、いつもと違う雰囲気をまとっているように感じた。
夢華は手を振りながら、もうひとつの道を歩いていく。
「また明日」
私もそう呟いて、夢華の後ろ姿を見送る。その背中が、いつもよりも小さく、重そうに見えた。
結局、私は何もできないまま家の玄関をくぐる。
メッセージアプリで夢華のトークを開いても、書くことが思い浮かばない。
ごめんなさい、と入力しては、何か違うな、と消して。話したい、と入力しては、おかしいかな、と消して。
わからなかった。どう行動すれば夢華を傷つけないか、私は傷つかないか。後悔しないか。
また、Answerを起動する。
『夢華に大学に行くべきって伝えたら、悲しませた。なんて言えばいい?』
いつもよりも解答までの時間が長い気がする。
『何も言う必要はないです。あなたが正しいから。』
そんなわけない。そんなわけないでしょ。
首の後ろの方をさする。
あんなに苦しそうに笑うのに。
とにかく、明日、学校で謝りたい。
そんな私の希望は、叶わなかった。夢華は学校に来なかった。体調大丈夫?と送ろうとしても、体調不良かもわからないのに、聞くのは変かな、と削除した。静かな放課後は久しぶりで、道に伸びる一人分の影がいつもよりも薄くて。惑星のアイコンを押して、入力する。
『夢華と仲直りしたい。なんて言えばいい?』
『何も言わなくていいです。』
だから、そうじゃなくて。息が早くなる。違うのに。
『夢華に言ったこと、間違いだったかな。』
『いいえ。』
違う。そんな言葉が欲しいわけじゃない。胸の奥底がすごく苦しい。夢華の方がずっと苦しいはずなのに。
世間の正解なんかよりも、夢華が求めているものが知りたいのに。なのに、Answerは私が間違えてないって肯定してくれて、安心する自分が嫌だ。
また夢華へのメッセージを入力しては消して。
明日は、来てくれるかな。
次の日も、夢華は来なかった。
放課後、ボーッと外を見つめる。
運動部の掛け声がわずかに耳に届いた。
『夢華はなんで学校に来ないの。どうすれば来てくれる?』
随分と長く待った。答えが全く表示されず、何度も再読み込みをする。
やっと出てきた文字は、
『解答できません。』
だった。なんで。急になんで。
なぜか運動部の声がうるさく感じた。
『夢華と元通りになる方法は?』
『解答できません。』
ねえ、どうして。
『夢華と一度会って話すべきだよね』
『解答できません。』
なんで教えてくれないの。
教えてよ。いつもみたいに。
もう。
Answerを閉じてメッセージアプリを開く。
とにかく、会わないと。このままなんて、絶対にいやだから。
『会いたい。近くの公園で会えない?』
長めに瞬きをして、送信した。
「お、ここにいたか。」
後ろの方から声が聞こえて振り向くと、担任の先生が後ろのドアから覗いていた。
その手には、一枚の紙。
「これ、いつでもいいから出してくれ。」
それを受け取って、表を向ける。
『進路希望調査』
その文字だけでため息が溢れ出てきた。
またか。また、この文字か。この冷たいフォントか。
「わかりました。」
「じゃ、早めに帰れよ」
先生は入ってきたドアへ向かう。とん、とん、と鳴る足音は小さく、遠くなっていく。
「あ、未定はやめろよー」
その言葉を言い残して、先生の背中は見えなくなった。
私だってやめたいよ。
ブブッ。
とスマホが振動した。
『いいよ。明日の六時でいい?』
明日の六時。それまでに、何を話せばいいか決めよう。決めないと。
『ありがとう。夕方、待ってるね。』
家に帰る道のりでも、Answerに尋ねる。
『夢華は、いつ学校に来る?』
『解答できません。』
『夢華は何を望んでた?』
『解答できません。』
なんでよ!なんで。教えてよ。
家に帰ってもまだ聞き続ける。いつもは隣に夢華がいるのにな。心がきゅっと縮こまる。
『夢華はなんて言われたい?』
『解答できません。』
『夢華ともう元には戻れない?』
『解答できません。』
スマホをベッドに放り投げる。
Answerの嘘つき。正解を教えてくれるんじゃないの?なんで求めているのに、教えてくれないの?
次の日もまた、夢華はお休みだった。ごめん。そう思っても、何もできない。毎日会っていたのに、たった数日会わないだけで、こんなにも、寂しい。学校から帰って、自分の部屋の時計を見る。もうすぐ、会うのに。やっと会えるのに。話したいことも、話すべきことも、決まってない。
焦る気持ちが募ってく。
家から公園までは歩いて十五分くらいで着くから、五時三十分に家を出るつもりだ。
Answerを開こうとして、やめる。
スマホをポケットに入れた。
時計が二十九分を指す。
そろそろ時間だ。
靴を履いて玄関の扉を開けると、日はまだ出ていて、長い影を伸ばしている。茜色が街を染めていくのを横目に見ながら足を進める。
公園には十五分くらい前に着いた。もちろん夢華はまだ来ていなかった。一人でベンチに座って夢華が来るのを待つ。
なんて言おう。汗ばむ背中をひんやりとしている風が撫でる。謝るしかない。謝って、今私に言えること、言わなくちゃ。
十分くらい経っただろうか。
「おまたせ」
聞き慣れた声が降り注ぐ。
目を腫らした夢華が姿を現した。
いつも見てたのに、ストレートな髪も、色白の肌も、なんだか久しぶりな気がする。たった数日なのに。
「全然待ってないよ」
夢華は私の隣に腰を下ろした。鼻を掠める夢華の匂いが、もう懐かしいと感じてしまう。
太陽はもう沈んで、涼しい風が頬を撫でる。空は、少しずつ深い色へと変わっていった。
細くゆっくり息を吸う。
「ごめん。」
「なんで依未が謝るの。依未は悪くないよ。」
夢華は眉を下げて小さく笑った。
「私、なんて言えばいいかわからなかった。自分で人生を決めて、ただ真っ直ぐに未来を見つめる夢華が羨ましかった。」
そこまで一気に話して、また息を吸う。手のひらがじんわりと汗ばむ。夢華は静かに私を見ていた。
「でも、この前言ったことは、夢華のこと、ちゃんと思えてなかった。本当にごめんなさい。」
夢華の顔を見て、頭を下げる。夢華は、
「顔を上げてよ。」
と小さく揺れる声を出した。大きく息を吸う音が聞こえる。
「私だってね、迷わないわけじゃない。わからないことのほうが多いよ。」
少しの沈黙が風に流れていく。
「あの日ね、帰った後、お母さんとお父さんにも怒られたの。真剣に考えろって。もっと真面目になれって。私はずっと真剣なのに。真面目なのに。」
夢華の顔を見ると、その頬に一筋の光が伝った。
「学校、行ってなくてごめんね。ちゃんと、考えたくて。」
震えた声に聞こえた。
「ううん」
夢華も、迷ってるんだ。怖いのかもしれない。
だとしても、ちゃんと自分で悩んで、本当に素敵な人だな、と思う。
静かな空気が二人の間を行き来する。
何か言わないと。とっさに声を出す。
「そういえば、夢華ってなんで美容師さんになりたいの?」
聞いてみて、思った。
あ、今じゃなかったかな、と。
でも、夢華は照れながら頬をかいて、
「昔はね、自分の顔がすっごく嫌いだったの。でもね、美容師さんが髪型を変えてくれて、それから少しだけ、自分を好きになれた。だからかな」
「素敵だね。」
心の底から思ったことを言ったのに、
「本当に思ってる?」
と冗談ぽく笑う夢華に
「本当の本当だよ」
と微笑みかける。
「私、わからないけど、夢華が選ぶ道ならなんでも応援したい。」
「ありがとう。私も、依未ならどんな夢でも絶対叶えられるよ。応援するって誓う。」
「ふふっ、ありがとう。」
二人で笑う。
夢華の笑顔はあの日とは違う。明るくて、眩しくて、名前の通り華やかで。
いつもよりも目が透き通っていて。
正解がいつでも正しいわけではないかもしれない。
Answerは、正解を教えてくれた。私は、それに依存していたのかもしれない。
スマホカバーを撫でる。
ツルツルとした感触が指から伝わった。
今日は、もう何も聞かなかった。
聞く必要がなかった。
次の日には、夢華が前の席にいる。
私は、この前先生から再びもらった進路希望調査を机の上に出していた。
ペンを握っては離して。全く変わる気配のないペンの軌道だった。
夢華は振り返ると、
「まーたもらったの?」
「もう、困っちゃうよ。」
と笑う。
「なんにもないの?夢。」
「うーん。人に優しさを与えるような仕事、かな。」
「素敵だね。」
そう夢華が口角を上げる。
「本当に思ってる?」
「本当の本当だよ。」
二人でまた笑い出す。
「じゃあ、どんな職業がいいのかな。」
夢華は顎に手を当てて、私の白紙を見つめる。
「保健室の先生とか、カウンセラー、とか?」
昨日考えていた職業を口に出すと、
「いい!依未の優しくて柔らかい雰囲気にぴったりだよ。」
「そう、かな」
なんだか真っ直ぐ夢華を見られなくて、視線をずらす。
「そうだよ!!」
机に置いていたシャーペンを握りしめて、紙の上を走らせる。
夢華は鞄を持って、椅子から立ち上がった。
「私は、今日はもう帰らないと。お母さんとお父さんと、ちゃんと話そうと思って。依未が背中押してくれたから。職員室、付いてけなくてごめんね?」
そう前髪をいじる夢華の表情がいつよりも強さに満ちていた。
「話すんだね。頑張ってね。」
「依未もね。」
手を振って、夢華の背中を見送る。
そのまましばらく夢華がいた席を見ていた。
第一志望は、保健室の先生になるための教育学部。
第二志望は、カウンセラーになるための心理学部。
そこまで一気に書いて、第三志望の空白を前にペンが止まる。
ふと、思いついたのはAnswerだった。
人の求める正解のアプリと、私が本当に求めていた正解のアプリ、人に寄り添うアプリは、どこかが違うように思える。
最後まで埋めて、教室を出る。
ガラッと職員室のドアを開けた。鼻にはコーヒーの匂いや紙の匂いが、耳には先生たちの声や足音が流れ込んできた。コーヒーをすする先生の元に行く。私の手には、もう白紙じゃない進路希望調査。
「先生」
そう呼びかけると、先生はコーヒーを置いて私の方を振り向いた。
「おお、どうした?」
その声はいつもよりも低い。
「これ、お願いします。」
先生は私が差し出した進路希望調査を手に取り、少し読んで、私の方を見た。
「先生になりたいのか。」
「うーん、保健室のですけど」
「いいじゃないか、第二志望の心理学部もそんな感じか。」
先生は少し伸びた顎の髭を撫でながら口角を上げた。
「はい、カウンセラーに」
「そうか、この情報デジタル系はなんだ?」
先生は第三志望の欄を指差した。
「それはまあ、なんか人に寄り添えるアプリ作りたいなってなんとなく。」
アプリか、そう呟いて先生は柔らかく笑った。
「お前は優しいし、周りをよく見ている。どんな道を選んでも、きっと人に寄り添えるだろう。」
なんだか恥ずかしくなって、視線をずらす。
「ありがとうございます。」
そう頭を下げて、職員室を後にした。足取りが今までよりもずいぶん軽い。そうか、自分で選ぶってこういうことなのかもしれない。
学校を出て、スマホを見る。
ロック画面には、いろいろなアプリから通知が来ていた。
Answerからの通知をダブルタップする。
『進路希望調査、出したよ。ちゃんと、書いた。』
そう送ると、
『その解答は、正解です。』
そのフォントは、いつもよりも優しく見えた。
私のこの解答が正解かなんて、まだ、わかんないよ。
そう呟いて見上げる空は、やけに広くて、青く思えた。
私が欲しかったのは、正解でも、間違えない確証でもないのかもしれない。
ただ、自分で道を決めるためのほんの少しの自信と勇気だけ。
「よしっ」
と大きな声で呟いた。私一人しかいない道に、私の声が消えていく。
『Answer』のアイコンを長押しする。
『アンインストール』のボタンに指を伸ばした。
『「Answer」を削除しますか?※内容は復元できません。』
ふと指が止まる。
はあ、私、まだ怖いのか。
もし、消してしまったら。
これからは頼れない。自分で選んで、自分で進んで、自分で責任を負わないといけない。
心音が鼓膜に響き渡る。
でも、それでも。
息を吸う。胸いっぱいに澄んだ空気が流れ込む。手を握って、また解いた。
『はい』
指で強くタップする。
少ししてホーム画面を見ると、そこに、Answerという文字はなかった。
いつも見ていたアイコンも、押していた通知も、頼っていた文面も。
その代わりに、夕日に照らされた私がこれから歩いていく道が真っ直ぐに伸びていた。
その道は、荒れていて歩けそうもないかもしれない。誰もいなくて、ひとりぼっちかもしれない。真っ暗かもしれない。
でも、荒れた道を掻き分ければいい。
一人の道で誰かを見つければいい。
自分の手であかりを灯せばいい。
怖いけど、わからないことも多いけど、自分で選びたい。
今の私は、そう思う。
だって、たった一度の人生だから。
もう、何度目だろう。
黒いインクで印刷されている文字。明朝体の冷たいフォント。
『進路希望調査』
この言葉が嫌いだ。
ペンを握っているのに手に力が入らない。
ふと、窓の外を見る。
教室に差し込む夕日は、鮮やかで、私の机上とは正反対だ。
ペンを無理やり走らせる。
『第一志望 未定』
『第二志望 未定』
『第三志望 未定』
『大学進学・専門学校進学・就職』
これは、『大学進学』に丸をする。
みんな、そうだから。
「えー、依未(えみ)また未定じゃん。先生に何か言われるよー」
顔を上げると、中学からの友達の夢華(ゆめか)が笑っていた。
ストレートヘアを揺らす夢華は、ナチュラルメイクでとても親しみやすい雰囲気だ。
何度も何度も、未定で出しては、先生に考え直せと言われた。
でも、いくら考えたってわからない。
「だって決められないんだもん。人生一度きりなんだよ?」
そう笑いかけると、
「だからでしょ!だから自分で決めるんだよ」
と彼女は澄んだ声を響かせた。
いいなあいいなあ。自分で決められて。
彼女の机の上にある美容専門学校のパンフレットに目がいく。
それが光を放っているように見えて。
朝に綺麗に巻いた自分の髪を指先でいじる。
「夢華は、美容師さんになりたいんだっけ?」
「そう!親には反対されてるけどね。まあ、諦めないけど!」
腰に両手を置く夢華が羨ましい。
いっそ、誰かが全部、正解を教えてくれればいいのに。誰かが私の人生の選択をしてくれたらいいのに。
お母さんが大学に行きなさいって言うから、大学を目指して。
お父さんが安定した仕事がいいなって言うから、公務員になりたくて。
先生が自分で考えろって言うから、自分で考えるふりをする。
自分では、決められない。間違えるのが怖い。この一つの選択で、自分の人生が決まってしまうかもしれない。考え始めると、止まらない。一度決めてしまったら、きっと戻れないから。私の『進路希望調査』はいつも同じ答えだ。
「でもー」
そう呟くと、
「じゃあ、もし、絶対に正解を教えてくれるものがあったら、使う?」
私の進路希望調査を見つめながら、夢華はなんでもなさそうなトーンで聞いてきた。
正解を、教えてくれる。そんなの、使わないはずがない。
「使う」
自分の声が、静かな教室に溶けていった。
「やっぱりかー」
二人でふっと笑って、先生に進路希望調査を提出しに行く。夢華も付き添ってくれて、渡り廊下をゆっくりと歩く。
先生には、
「まあ、一旦もらっとくから。よく考えろ」
と言われた。
少し迷惑そうな表情に見えたのは、気のせいだろうか。
十七歳の誕生日だった。
家族とケーキを食べて、プレゼントをもらって、夢華もお菓子をくれた。
もう空が夜へと色を変える頃、通知が来たスマホを見る。
『インストールが完了しました。』
え、と声が漏れる。
戸惑いながらもロックを解除すると、ホーム画面には、見慣れないアイコンがあった。
深い青色と紫色と黒が中心にかけてグラデーションになっていて、白い惑星のようなマークが真ん中に描かれている。
見たこともないアイコンに、入れた覚えのないアプリが私の目の奥まで飛び込んできた。
その下にはAnswer、とアプリ名が示されている。
何、このアプリ。
アンサー、そう呟いて考える前にアイコンをタップしていた。
ホーム画面が切り替わり、アプリの画面に占領される。
ダウンロード中の文字の下に、赤色のバーが伸びていく。
10%、50%、100%、完了。
画面がゆっくりと変わっていき、文字が浮かび上がってきた。
『あなたは、人生を間違えたくないですか。』
その質問に、心臓がどきっと跳ねる。
でも、すぐに『はい』のボタンを押した。
『本当に?』
この質問も、迷わず『はい』にする。
『私が、正解をお教えします。』
正解を、教える?
なんの正解を?どうやって?
瞬きの数が増えて、指が小さく震える。
次へ、のボタンへ震える指を伸ばした。
『名前はなんですか?』
これ、教えて大丈夫なの?下の方に出てきたキーボードを前に、息を吸う。心臓に急かされるように『依未』と入力した。
その後も、年齢や性格、いろいろなことを聞かれた。一通り質問が終わったのか、今度は青いバーが出てきて、ダウンロードが進んでいく。怪しいという感情がないわけではないけど、そんなことよりも正解に惹かれていた。
追加のダウンロードが終わると、『質問する』というボタンができていた。
半信半疑で『明日は電車かバス、どっちで高校に行けばいい?』と送信する。
少し待つと、『バスで行ってください。』と返信が来た。
本当かなんてわからないけど、私は信じるほかなかった。
次の日の朝、Answerの言う通りにバスに乗り、後ろの方の窓際の座席に腰を下ろした。
いつもは電車通学だから、なんだかバスの匂いも、運転手さんのアナウンスの声も、ゆっくりと過ぎていく景色も新鮮だ。
少し経つと、大きな交差点で渋滞にはまった。一応、余裕をもって少し早めのバスに乗っているけど、ギリギリになってしまったのだ。学校に着くと、不思議なことに、まだほとんどの生徒がいなかった。
すぐに担任の先生が入ってきて、「電車が止まってるそうだから、一限は自習で」
と言葉を残して去っていった。
二限の課題がまだ終わってなかったから、ラッキーだ。
Answerの惑星のマークのアイコンが頭に浮かぶ。
あれが言ってる通りにしたら、上手くいった。たまたまかもしれない。でも、今日は、上手くいった。
教室の中にいる数少ない生徒の息の音、ペンの走る音、ページをめくる音。いつもは聞こえない風の音までよく耳に入る。
三十分もすれば、廊下から聞こえる足音が多くなり、続々とクラスメイトたちが教室に入ってきた。
私の課題が終わった頃に、夢華が顔を出した。
夢華は私の一つ前の自分の席に座る。鞄を机にドンッと置いて、私の方を椅子ごと振り返る。いかにも重たそうな鞄だった。
「最悪だよー。電車止まるとか聞いてない!!」
眉尻を下げながらわざとらしく大きなため息を吐く夢華に、
「災難だったね」
と声をかける。
「ほんとだよ、依未はなんで間に合ったの?」
「私は今日、バスで来たの」
夢華は、首を傾げて
「なんで急に?」
と呟く。
なぜかアプリのことを話す気にはなれなかった。
「な、なんとなく」
「ふーん」
そう夢華は窓の外を向いた。でもすぐに私の方に向き直り、
「二限の課題やった?」
「今終わったとこだよ」
夢華は
「写させてー」
と目を輝かせながら私を見つめた。
「いいよ」
ノートを手渡す。
「まじありがと!」
私の机の半分を夢華のノートと私のノートが占領した。
いつもの光景に頬を緩ませながら、夢華のペン先を目で追った。
家に帰って、またAnswerのアイコンをタップする。まだ見慣れないフォントに、アイコン。
もし、本当に答えを教えてくれるなら。私が求めていたものが、手の中にある。
ぎゅっとスマホを握りしめた。
目が覚めて、顔を洗う。
冷たい水が目を覚まさせた。
まとわりついた前髪を手で乱雑に分けて、また冷たい水を被る。
ふわふわのタオルで顔を覆って、スマホを手に取った。
Answerを開く。今日は、何について聞こうかな?
適当に文字を打つ。
『今日、髪の毛巻くべき?』
『巻かない方がいいでしょう。』
示された通りにただ後ろで結ぶ。ストレートアイロンで髪を真っ直ぐにして。
いつもよりも早めに身だしなみを整えるのが終わって、ゆっくりと朝ごはんのトーストを頬張った。
四限の学年集会。
三十分を過ぎた頃、会は終わり、抜き打ちの生活点検が始まった。名簿を持った先生たちが出席番号順に並んだ生徒たちの髪の毛、スカート、メイクを、隈なくチェックしており、時々名簿に何か書き込んでいるようだ。生徒たちの不満の声が体育館に響き渡っている。
少しずつ私の順番が近づいてきた。
今日は最近見ない特に厳しい先生がいる。たくさんの女子のスカートやメイクに指摘していた。
周りにいる生徒はいつも通り、髪を巻いたり、濃い目のメイクをしたりしているせいで、再検査になっていく。
私は今日はAnswerのおかげで髪を巻いていないから引っかからなくて済んだ。
夢華はいつもストレートで薄いメイクだから、引っかかることはないだろう。
「依未、今日巻いてないね。」
ささやき声で、耳元から呟く夢華に
「ラッキー」
と毛先を触る。
「最近ラッキー多いじゃん」
夢華は肩で私の背中をトンっと押した。
へへっと笑う。
Answerはすごい。全部全部当てる。
なんて便利なんだろう。
次の日、昼休みに夢華がスマホで髪色を見せてきた。お弁当に入っていた野菜炒めを口に運びながら目を向ける。
「これ、どっちがいいかな!!次の長い休みで染めようかなって」
写真にはアッシュグレーのような色と、ミルクティーブラウン、と書いてある。どちらの色も淡めで透明感があって夢華によく似合いそうだ。私はミルクティーブラウンの方が合っていると思う。そう言おうとすると、口が結ばれる。手が勝手にAnswerを開いて、
『親友は色白で明るくて可愛らしい子。髪色はアッシュグレーとミルクティーブラウンどっちがいいかな』
『ミルクティーブラウンがいいでしょう。』
その答えを見てほっと胸を撫で下ろす。
「ミルクティーブラウンがいい!!」
「やっぱり!私もそう思う」
夢華はパッと花のように笑った。
すごいすごい。全部上手くいく。言う通りにすれば、怖くない。私はまたスマホをぐっと握った。
夢華と最寄り駅から歩く。
鳥のさえずりと、流れていく雲、頬に触れる風。
横にはふんわりと笑う夢華。でも、一瞬にして、その笑顔は消えた。
「どうかした?」
そう声をかけると、夢華はハッと私を見た。
澄んだ瞳が私を映す。
「なんか、迷っててさ。美容師になるために専門学校に行くか、大学進学するか。依未も真剣に悩んでるし、私、軽すぎるかなって。お母さんもお父さんも反対してるし。」
ふうっと小さく息を吐く音が聞こえた。夢華の指先は、前髪をつまんでいる。
「どうしよっかなーって。私さ、大学に行くべきなのかな」
手は次はスカートをつかみ、力なく微笑むその顔は、今まで見たどの表情よりも脆そうで。風に揺れる髪の毛が静かに煌めく。
何と声をかけるべきかわからなかった。
「えっと」
ポケットの中からスマホを取り出す。
ちょっとごめん、と呟いてAnswerを開く。
夢華は、うん、とまた笑って少し視線を落とした。
早く、私に答えを。
『夢華に大学に行くべきか専門学校に行ってもいいんじゃないか、どっちを伝えるべき?』
少し時間が過ぎると、
『大学に行くべき、と言ってください。』
「大学に行くべきじゃないかな」
何も考えずに発した台詞に、夢華は目を大きく見開いて、へっと笑った。
「依未にそう言われたら、何も言えないよ」
グサリ、と心に何かが刺さる気がする。
近くにいた鳩がバサバサと音を立てて一瞬で飛び立っていった。
さっきまで聞こえていた鳴き声も、翼の音も、もう聞こえない。
ただ空を見上げる夢華の横顔に、寂しさというか、悲しみというか、言葉にできない何かが漂っていた。
そんな夢華を励ます言葉が欲しい。
でも、何を伝えればいい?謝ればいい?
「ごめんっ、忘れて」
さっきの脆い笑顔で夢華は言った。
その後も夢華は何度も話題を振ってくれたのに、考えが巡るせいで、上手く受け答えができない。
もう夢華と別れる交差点まで来てしまった。
「じゃあね」
その夢華の目尻も、口角も、いつもと違う雰囲気をまとっているように感じた。
夢華は手を振りながら、もうひとつの道を歩いていく。
「また明日」
私もそう呟いて、夢華の後ろ姿を見送る。その背中が、いつもよりも小さく、重そうに見えた。
結局、私は何もできないまま家の玄関をくぐる。
メッセージアプリで夢華のトークを開いても、書くことが思い浮かばない。
ごめんなさい、と入力しては、何か違うな、と消して。話したい、と入力しては、おかしいかな、と消して。
わからなかった。どう行動すれば夢華を傷つけないか、私は傷つかないか。後悔しないか。
また、Answerを起動する。
『夢華に大学に行くべきって伝えたら、悲しませた。なんて言えばいい?』
いつもよりも解答までの時間が長い気がする。
『何も言う必要はないです。あなたが正しいから。』
そんなわけない。そんなわけないでしょ。
首の後ろの方をさする。
あんなに苦しそうに笑うのに。
とにかく、明日、学校で謝りたい。
そんな私の希望は、叶わなかった。夢華は学校に来なかった。体調大丈夫?と送ろうとしても、体調不良かもわからないのに、聞くのは変かな、と削除した。静かな放課後は久しぶりで、道に伸びる一人分の影がいつもよりも薄くて。惑星のアイコンを押して、入力する。
『夢華と仲直りしたい。なんて言えばいい?』
『何も言わなくていいです。』
だから、そうじゃなくて。息が早くなる。違うのに。
『夢華に言ったこと、間違いだったかな。』
『いいえ。』
違う。そんな言葉が欲しいわけじゃない。胸の奥底がすごく苦しい。夢華の方がずっと苦しいはずなのに。
世間の正解なんかよりも、夢華が求めているものが知りたいのに。なのに、Answerは私が間違えてないって肯定してくれて、安心する自分が嫌だ。
また夢華へのメッセージを入力しては消して。
明日は、来てくれるかな。
次の日も、夢華は来なかった。
放課後、ボーッと外を見つめる。
運動部の掛け声がわずかに耳に届いた。
『夢華はなんで学校に来ないの。どうすれば来てくれる?』
随分と長く待った。答えが全く表示されず、何度も再読み込みをする。
やっと出てきた文字は、
『解答できません。』
だった。なんで。急になんで。
なぜか運動部の声がうるさく感じた。
『夢華と元通りになる方法は?』
『解答できません。』
ねえ、どうして。
『夢華と一度会って話すべきだよね』
『解答できません。』
なんで教えてくれないの。
教えてよ。いつもみたいに。
もう。
Answerを閉じてメッセージアプリを開く。
とにかく、会わないと。このままなんて、絶対にいやだから。
『会いたい。近くの公園で会えない?』
長めに瞬きをして、送信した。
「お、ここにいたか。」
後ろの方から声が聞こえて振り向くと、担任の先生が後ろのドアから覗いていた。
その手には、一枚の紙。
「これ、いつでもいいから出してくれ。」
それを受け取って、表を向ける。
『進路希望調査』
その文字だけでため息が溢れ出てきた。
またか。また、この文字か。この冷たいフォントか。
「わかりました。」
「じゃ、早めに帰れよ」
先生は入ってきたドアへ向かう。とん、とん、と鳴る足音は小さく、遠くなっていく。
「あ、未定はやめろよー」
その言葉を言い残して、先生の背中は見えなくなった。
私だってやめたいよ。
ブブッ。
とスマホが振動した。
『いいよ。明日の六時でいい?』
明日の六時。それまでに、何を話せばいいか決めよう。決めないと。
『ありがとう。夕方、待ってるね。』
家に帰る道のりでも、Answerに尋ねる。
『夢華は、いつ学校に来る?』
『解答できません。』
『夢華は何を望んでた?』
『解答できません。』
なんでよ!なんで。教えてよ。
家に帰ってもまだ聞き続ける。いつもは隣に夢華がいるのにな。心がきゅっと縮こまる。
『夢華はなんて言われたい?』
『解答できません。』
『夢華ともう元には戻れない?』
『解答できません。』
スマホをベッドに放り投げる。
Answerの嘘つき。正解を教えてくれるんじゃないの?なんで求めているのに、教えてくれないの?
次の日もまた、夢華はお休みだった。ごめん。そう思っても、何もできない。毎日会っていたのに、たった数日会わないだけで、こんなにも、寂しい。学校から帰って、自分の部屋の時計を見る。もうすぐ、会うのに。やっと会えるのに。話したいことも、話すべきことも、決まってない。
焦る気持ちが募ってく。
家から公園までは歩いて十五分くらいで着くから、五時三十分に家を出るつもりだ。
Answerを開こうとして、やめる。
スマホをポケットに入れた。
時計が二十九分を指す。
そろそろ時間だ。
靴を履いて玄関の扉を開けると、日はまだ出ていて、長い影を伸ばしている。茜色が街を染めていくのを横目に見ながら足を進める。
公園には十五分くらい前に着いた。もちろん夢華はまだ来ていなかった。一人でベンチに座って夢華が来るのを待つ。
なんて言おう。汗ばむ背中をひんやりとしている風が撫でる。謝るしかない。謝って、今私に言えること、言わなくちゃ。
十分くらい経っただろうか。
「おまたせ」
聞き慣れた声が降り注ぐ。
目を腫らした夢華が姿を現した。
いつも見てたのに、ストレートな髪も、色白の肌も、なんだか久しぶりな気がする。たった数日なのに。
「全然待ってないよ」
夢華は私の隣に腰を下ろした。鼻を掠める夢華の匂いが、もう懐かしいと感じてしまう。
太陽はもう沈んで、涼しい風が頬を撫でる。空は、少しずつ深い色へと変わっていった。
細くゆっくり息を吸う。
「ごめん。」
「なんで依未が謝るの。依未は悪くないよ。」
夢華は眉を下げて小さく笑った。
「私、なんて言えばいいかわからなかった。自分で人生を決めて、ただ真っ直ぐに未来を見つめる夢華が羨ましかった。」
そこまで一気に話して、また息を吸う。手のひらがじんわりと汗ばむ。夢華は静かに私を見ていた。
「でも、この前言ったことは、夢華のこと、ちゃんと思えてなかった。本当にごめんなさい。」
夢華の顔を見て、頭を下げる。夢華は、
「顔を上げてよ。」
と小さく揺れる声を出した。大きく息を吸う音が聞こえる。
「私だってね、迷わないわけじゃない。わからないことのほうが多いよ。」
少しの沈黙が風に流れていく。
「あの日ね、帰った後、お母さんとお父さんにも怒られたの。真剣に考えろって。もっと真面目になれって。私はずっと真剣なのに。真面目なのに。」
夢華の顔を見ると、その頬に一筋の光が伝った。
「学校、行ってなくてごめんね。ちゃんと、考えたくて。」
震えた声に聞こえた。
「ううん」
夢華も、迷ってるんだ。怖いのかもしれない。
だとしても、ちゃんと自分で悩んで、本当に素敵な人だな、と思う。
静かな空気が二人の間を行き来する。
何か言わないと。とっさに声を出す。
「そういえば、夢華ってなんで美容師さんになりたいの?」
聞いてみて、思った。
あ、今じゃなかったかな、と。
でも、夢華は照れながら頬をかいて、
「昔はね、自分の顔がすっごく嫌いだったの。でもね、美容師さんが髪型を変えてくれて、それから少しだけ、自分を好きになれた。だからかな」
「素敵だね。」
心の底から思ったことを言ったのに、
「本当に思ってる?」
と冗談ぽく笑う夢華に
「本当の本当だよ」
と微笑みかける。
「私、わからないけど、夢華が選ぶ道ならなんでも応援したい。」
「ありがとう。私も、依未ならどんな夢でも絶対叶えられるよ。応援するって誓う。」
「ふふっ、ありがとう。」
二人で笑う。
夢華の笑顔はあの日とは違う。明るくて、眩しくて、名前の通り華やかで。
いつもよりも目が透き通っていて。
正解がいつでも正しいわけではないかもしれない。
Answerは、正解を教えてくれた。私は、それに依存していたのかもしれない。
スマホカバーを撫でる。
ツルツルとした感触が指から伝わった。
今日は、もう何も聞かなかった。
聞く必要がなかった。
次の日には、夢華が前の席にいる。
私は、この前先生から再びもらった進路希望調査を机の上に出していた。
ペンを握っては離して。全く変わる気配のないペンの軌道だった。
夢華は振り返ると、
「まーたもらったの?」
「もう、困っちゃうよ。」
と笑う。
「なんにもないの?夢。」
「うーん。人に優しさを与えるような仕事、かな。」
「素敵だね。」
そう夢華が口角を上げる。
「本当に思ってる?」
「本当の本当だよ。」
二人でまた笑い出す。
「じゃあ、どんな職業がいいのかな。」
夢華は顎に手を当てて、私の白紙を見つめる。
「保健室の先生とか、カウンセラー、とか?」
昨日考えていた職業を口に出すと、
「いい!依未の優しくて柔らかい雰囲気にぴったりだよ。」
「そう、かな」
なんだか真っ直ぐ夢華を見られなくて、視線をずらす。
「そうだよ!!」
机に置いていたシャーペンを握りしめて、紙の上を走らせる。
夢華は鞄を持って、椅子から立ち上がった。
「私は、今日はもう帰らないと。お母さんとお父さんと、ちゃんと話そうと思って。依未が背中押してくれたから。職員室、付いてけなくてごめんね?」
そう前髪をいじる夢華の表情がいつよりも強さに満ちていた。
「話すんだね。頑張ってね。」
「依未もね。」
手を振って、夢華の背中を見送る。
そのまましばらく夢華がいた席を見ていた。
第一志望は、保健室の先生になるための教育学部。
第二志望は、カウンセラーになるための心理学部。
そこまで一気に書いて、第三志望の空白を前にペンが止まる。
ふと、思いついたのはAnswerだった。
人の求める正解のアプリと、私が本当に求めていた正解のアプリ、人に寄り添うアプリは、どこかが違うように思える。
最後まで埋めて、教室を出る。
ガラッと職員室のドアを開けた。鼻にはコーヒーの匂いや紙の匂いが、耳には先生たちの声や足音が流れ込んできた。コーヒーをすする先生の元に行く。私の手には、もう白紙じゃない進路希望調査。
「先生」
そう呼びかけると、先生はコーヒーを置いて私の方を振り向いた。
「おお、どうした?」
その声はいつもよりも低い。
「これ、お願いします。」
先生は私が差し出した進路希望調査を手に取り、少し読んで、私の方を見た。
「先生になりたいのか。」
「うーん、保健室のですけど」
「いいじゃないか、第二志望の心理学部もそんな感じか。」
先生は少し伸びた顎の髭を撫でながら口角を上げた。
「はい、カウンセラーに」
「そうか、この情報デジタル系はなんだ?」
先生は第三志望の欄を指差した。
「それはまあ、なんか人に寄り添えるアプリ作りたいなってなんとなく。」
アプリか、そう呟いて先生は柔らかく笑った。
「お前は優しいし、周りをよく見ている。どんな道を選んでも、きっと人に寄り添えるだろう。」
なんだか恥ずかしくなって、視線をずらす。
「ありがとうございます。」
そう頭を下げて、職員室を後にした。足取りが今までよりもずいぶん軽い。そうか、自分で選ぶってこういうことなのかもしれない。
学校を出て、スマホを見る。
ロック画面には、いろいろなアプリから通知が来ていた。
Answerからの通知をダブルタップする。
『進路希望調査、出したよ。ちゃんと、書いた。』
そう送ると、
『その解答は、正解です。』
そのフォントは、いつもよりも優しく見えた。
私のこの解答が正解かなんて、まだ、わかんないよ。
そう呟いて見上げる空は、やけに広くて、青く思えた。
私が欲しかったのは、正解でも、間違えない確証でもないのかもしれない。
ただ、自分で道を決めるためのほんの少しの自信と勇気だけ。
「よしっ」
と大きな声で呟いた。私一人しかいない道に、私の声が消えていく。
『Answer』のアイコンを長押しする。
『アンインストール』のボタンに指を伸ばした。
『「Answer」を削除しますか?※内容は復元できません。』
ふと指が止まる。
はあ、私、まだ怖いのか。
もし、消してしまったら。
これからは頼れない。自分で選んで、自分で進んで、自分で責任を負わないといけない。
心音が鼓膜に響き渡る。
でも、それでも。
息を吸う。胸いっぱいに澄んだ空気が流れ込む。手を握って、また解いた。
『はい』
指で強くタップする。
少ししてホーム画面を見ると、そこに、Answerという文字はなかった。
いつも見ていたアイコンも、押していた通知も、頼っていた文面も。
その代わりに、夕日に照らされた私がこれから歩いていく道が真っ直ぐに伸びていた。
その道は、荒れていて歩けそうもないかもしれない。誰もいなくて、ひとりぼっちかもしれない。真っ暗かもしれない。
でも、荒れた道を掻き分ければいい。
一人の道で誰かを見つければいい。
自分の手であかりを灯せばいい。
怖いけど、わからないことも多いけど、自分で選びたい。
今の私は、そう思う。
だって、たった一度の人生だから。



