鈴蘭の声が、春を呼ぶ。 【シナリオ】


〇 銀鈴館・舞台脇(午前)

小夜が、台本の余白へ鉛筆を走らせる。

「娘が手を伸ばすまで、待つ」

清玄が、幕の前から戻ってくる。

清玄「招待上映では、最初から静かとは限りません」

小夜が顔を上げる。

清玄「こちらを見ていない方もいるでしょう。だからといって、全員を振り向かせようとしないことです」

小夜「声を、強くしすぎないように……」

清玄「聞き始めた人に、次の言葉を渡してください」

小夜がうなずく。

水野が映写の準備を終える。

映像が始まる。

幕の中で、娘が父親の仕事場を訪れる。

小夜「娘は、戸口に立ったまま、父の手が空くのを待ちました」

清玄は、少し離れたところで紙をめくる。

小夜の視線が動く。

言葉が、一瞬途切れる。

清玄「続けて」

小夜は幕へ目を戻す。

小夜〈娘の声〉「お父様。今日は、聞いていただきたいことがございます」

清玄が紙を置く。

小夜の声が、部屋へ落ち着いていく。

〇 九条映画・専務室(昼)

蓮太郎が、招待上映会の案内状を宗一郎へ示す。

蓮太郎「綾乃様と並んで客を迎えるという話は、取り消してください」

宗一郎「上映会に、鷹司家を招いて何が悪い」

蓮太郎「招くことではありません。縁談が進んでいるように見せることです」

宗一郎「お前たちは、見合いをした」

蓮太郎「結婚を決めたわけではありません」

宗一郎が案内状を見る。

宗一郎「決める気がないのなら、そう言いなさい」

蓮太郎の言葉が止まる。

宗一郎「篠宮という娘のためか」

蓮太郎「彼女の仕事とは、別の話です」

宗一郎「私は、仕事の話をしていない」

沈黙。

蓮太郎は案内状を卓へ置く。

蓮太郎「綾乃様にも、考えがあります。父上が先に形を作ることではありません」

宗一郎は息子を見つめる。

宗一郎「客を迎えるのは、私とお前だ。それでよい」

蓮太郎が、わずかに息を吐く。

宗一郎「だが、お前が何を望んでいるのかは、いずれ聞く」

蓮太郎は頭を下げ、退出する。

宗一郎は、卓の上の出演者名簿へ目を落とす。

〇 花月堂・奥の小部屋(夕方)

小夜が、借りた着物の前に座っている。

ふみが帯を確かめる。

小夜「こんなによいものを、お借りして……」

ふみ「大事に着て、返せばいい」

小夜は袖に触れる。

ふみ「服に申し訳なさそうな顔をしないの」

小夜が笑う。

鞄から、ハンカチが少しのぞく。

ふみが気づくが、何も言わない。

小夜「女将さん」

ふみ「うん?」

小夜「仕事に呼ばれたのに、それ以外のことばかり、気になってしまいます」

ふみは小夜の襟元を整える。

ふみ「仕事が始まったら、仕事をおし」

小夜がうなずく。

ふみ「終わったら、気になることを考えていい。それまで全部、忘れなくてもいいんだよ」

〇 招待上映会場・玄関(夜)

磨かれた床。

大きな鏡。

洋装の客と、晴れ着の客が行き交う。

小夜が入口で足を止める。

手袋を外す女性。

帽子を係へ預ける男性。

小夜は自分の鞄を、胸の前へ寄せる。

大迫が迎えに来る。

大迫「控えの場所へ、ご案内します」

小夜「お願いいたします」

大迫「今夜は、あなたの番組が終わったあと、ご挨拶をお願いするかもしれません」

小夜の顔が硬くなる。

大迫「無理に話を広げなくて結構です。出演と稽古について、お答えいただければ」

小夜がうなずく。

二人が歩いていく。

会場の奥。

蓮太郎が宗一郎と並んで客を迎えている。

綾乃が、父親とともに挨拶する。

蓮太郎と綾乃が言葉を交わす。

小夜の足が、わずかに遅れる。

蓮太郎が気づく。

小夜は先に頭を下げる。

蓮太郎が何か言おうとする。

別の客が近づく。

小夜は大迫のあとについて、控えの場所へ入る。

〇 会場・控えの部屋(夜)

小夜が台本を開く。

廊下から、笑い声。

小夜は最初の一行を、声に出さず読む。

戸が開く。

蓮太郎が入ってくる。

小夜が立ち上がる。

蓮太郎「支度は、大丈夫?」

小夜「はい」

蓮太郎は、いつもと違う小夜の姿を見る。

言葉が出ない。

小夜が袖へ目を落とす。

小夜「女将さんが、貸してくださいました」

蓮太郎「……よく似合っている」

小夜の頬が染まる。

蓮太郎も、少し目をそらす。

蓮太郎「窮屈ではない?」

小夜「少し。でも、語れます」

蓮太郎が微笑む。

一歩、近づく。

小夜の帯の脇に、細い糸くず。

蓮太郎は手を伸ばしかける。

小夜が顔を上げる。

手が止まる。

蓮太郎「ここに、糸が」

小夜が自分で払おうとする。

うまく取れない。

蓮太郎「取っても?」

小夜が小さくうなずく。

蓮太郎が、糸だけをつまむ。

近い距離。

小夜は、台本を持つ指に力を入れる。

蓮太郎が一歩離れる。

蓮太郎「今夜の語りを、楽しみにしている」

小夜「はい」

蓮太郎は戸口へ向かう。

小夜「九条様」

蓮太郎が振り返る。

小夜は、綾乃のことを尋ねかける。

だが、廊下から大迫の声。

大迫「専務、お客様が」

小夜「……終わったら、少し、お話ししてもよろしいでしょうか」

蓮太郎「もちろん」

小夜が台本を胸に抱く。

〇 招待上映会場(夜)

客席の前方に、小夜が立つ。

まだ会話が続いている。

小夜は客席を見る。

清玄が端の席で待っている。

蓮太郎は後方に立っている。

小夜が息を吸う。

小夜「これより、ご覧いただくのは、父と娘の、小さな約束のお話です」

何人かの客が顔を上げる。

映写機が回り始める。

幕に、仕事場の風景。

小夜「娘は、毎朝、父が出ていく背中を見送っていました」

隣同士で話していた客の一人が、幕へ向き直る。

小夜は、その動きを追いすぎない。

幕の中で、娘が壊れた道具を持ち上げる。

小夜〈娘の声〉「私にも、直せるでしょうか」

父親が道具を受け取る。

小夜〈父の声〉「見ているだけでは、分からんよ」

客席に、小さな笑い。

小夜の肩が、わずかに緩む。

語りが続く。

〇 招待上映会場(夜・少し後)

最後の場面。

娘が、直した道具を父親の前へ置く。

父親はすぐに手を伸ばさない。

小夜も待つ。

父親が道具を取り、確かめる。

小夜〈父の声〉「……次は、ここもやってみるか」

娘の顔が明るくなる。

小夜は、その表情に言葉を重ねない。

画面が暗くなる。

拍手。

小夜が頭を下げる。

後方で、蓮太郎が拍手をしている。

清玄は膝の上の台本を閉じる。

〇 招待上映会場・談話の場所(夜)

小夜が大迫に連れられ、客へ挨拶している。

客の男「若いのに、よく声が通りますね」

小夜「ありがとうございます」

別の客「お父上も、同じお仕事を?」

小夜「いいえ」

答えようとしたところへ、記者が近づく。

記者「篠宮さんですね。九条専務が、お店で見いだされたとか」

小夜「はい。お声をかけていただきました」

記者「出演まで、ずいぶん早かったそうですね」

大迫「稽古と出演の記録でしたら、私からご説明します」

客の男が笑う。

客の男「なるほど。専務のお気に入りなら、次の出演も決まっているのでしょう」

小夜の顔から、笑みが消える。

記者の鉛筆が動く。

大迫「出演は、現場で判断しています」

客の男「いや、悪い意味ではありませんよ。若い方は、引き立ててくださる人がいてこそ――」

小夜「私は……」

蓮太郎「彼女の出演を決めたのは、指導者と現場です」

蓮太郎が立っている。

客の男が口を閉じる。

蓮太郎「私への当てこすりに、彼女の仕事を使わないでいただきたい」

周囲が静まる。

小夜の唇が、言いかけた形のまま止まっている。

客の男「ずいぶん、厳しいお言葉だ」

蓮太郎「先ほどの上映に、ご意見があるなら伺います。それ以外の話で、彼女の評価を決めることはおやめください」

宗一郎が、少し離れた場所から見ている。

記者が蓮太郎へ向き直る。

記者「では、専務と篠宮さんには、仕事以外の――」

綾乃「今夜の上映について、お聞きになっていたのではありませんか」

記者が振り返る。

綾乃が小夜の隣へ立つ。

綾乃「最後の場面、とてもよかったです。お父様が道具を取るまで、待っていらしたところ」

小夜は、すぐには声を出せない。

綾乃が待つ。

小夜「……ありがとうございます」

大迫が一歩前へ出る。

大迫「出演についての取材は、私が承ります」

談話の輪が、ゆっくり分かれる。

〇 会場・人のいない廊下(夜)

小夜が窓のそばに立っている。

蓮太郎が来る。

蓮太郎「すまなかった。あのような話をさせて」

小夜が振り返る。

小夜「庇ってくださったことは、嬉しかったです」

蓮太郎が少し息を吐く。

小夜「でも、私も答えたかった」

蓮太郎の表情が止まる。

小夜「うまくは、言えなかったかもしれません。それでも、稽古したことは、私が知っています」

蓮太郎は目を伏せる。

小夜「私が口を開いたことに、お気づきでしたか」

長い間。

蓮太郎「……気づいていなかった」

小夜がうなずく。

蓮太郎「腹が立って、君の顔を見ていなかった」

小夜の指が、鞄の持ち手を握る。

蓮太郎「守ったつもりだった」

小夜「はい」

蓮太郎が顔を上げる。

蓮太郎「君の言葉を、止めたんだな」

小夜の目が潤む。

小夜「九条様が何も言ってくださらなければ、それも、悲しかったと思います」

蓮太郎は黙って聞く。

小夜「でも、私が言えなくなるほど、先に決めてほしくはありません」

蓮太郎が、ゆっくりうなずく。

蓮太郎「次は、君を見る」

小夜が目元を拭く。

蓮太郎はハンカチを取り出しかける。

小夜が、自分のものを持っていることに気づく。

手を下ろす。

蓮太郎「さっき、終わったら話したいと言っていたね」

小夜が彼を見る。

遠くから、宗一郎を呼ぶ声。

小夜「今日は、もう……」

蓮太郎「小夜さん」

小夜の動きが止まる。

蓮太郎も、呼んだことに気づく。

二人が見つめ合う。

そこへ、大迫が廊下へ出てくる。

大迫「篠宮さん。お帰りの支度を。お送りする者を手配しました」

小夜は、先に目をそらす。

小夜「ありがとうございます」

蓮太郎は、引き留められない。

〇 会場・玄関(夜)

征二郎が立っている。

小夜が驚く。

小夜「征二郎さん」

征二郎「叔母上から、帰りが遅くなると聞いた。迎えに来たんだ」

大迫「お知り合いでしたら、ご一緒にお願いできますか」

征二郎がうなずく。

小夜は玄関の段差へ足を向ける。

慣れない着物の裾を踏みかける。

征二郎が肘を支える。

征二郎「急がなくていい」

小夜「ありがとうございます」

二人が外へ出る。

少し後ろから来た蓮太郎が、その姿を見る。

征二郎は小夜に合わせて歩いている。

小夜が何か話す。

征二郎が、顔を寄せて聞く。

蓮太郎の手が、握られる。

〇 銀座・通り(夜)

店の窓から、光がこぼれている。

征二郎と小夜が歩く。

征二郎「疲れた?」

小夜「はい」

征二郎「仕事だけで?」

小夜は答えない。

征二郎は、その横顔を見る。

征二郎「今夜のことは、話したくなったら聞く」

小夜がうなずく。

征二郎「だが、僕の申し込みの返事は、僕に聞かせてほしい」

小夜が足を止める。

征二郎も止まる。

征二郎「叔母上からではなく。ほかの誰からでもなく」

小夜「……はい」

征二郎は、笑おうとする。

少しだけ、うまくいかない。

征二郎「僕も、怖くないわけではないんだ」

小夜が彼を見る。

征二郎「だからといって、君が言わずに済ませていいとは、言えない」

小夜は鞄を抱え直す。

小夜「きちんと、お話しします」

征二郎がうなずく。

二人は、また歩き始める。

〇 九条映画・専務室(翌朝)

蓮太郎が席へ着く。

大迫が、新聞を置く。

蓮太郎「何だ」

大迫「今朝の記事です」

蓮太郎が読む。

見出し。

「九条映画の新女弁士――専務の寵愛が生んだ抜擢か」

記事には、昨夜の蓮太郎の言葉。

その下に、篠宮家の窮状についての記述。

蓮太郎の顔が変わる。

蓮太郎「この家の話は、昨夜、誰もしていない」

大迫「はい」

蓮太郎が新聞を卓へ置く。

蓮太郎「篠宮君は」

大迫「稽古に来る予定です」

蓮太郎が立ち上がる。

大迫「専務」

足が止まる。

大迫「まず、何をお伝えになるか、決めてください」

蓮太郎は、記事へ目を戻す。

昨夜、自分が言った言葉。

「彼女の仕事を使わないでいただきたい」

その言葉まで、記事の中では、特別な関係の証拠のように置かれている。

蓮太郎は椅子の背へ手をつく。

〇 花月堂・店先(朝)

ふみが、新聞を畳む。

小夜が立っている。

ふみ「店へ来た人が、これを」

小夜は新聞を受け取る。

読む。

途中で、指が止まる。

小夜「私……昨日、父の仕事のお話も、まだ……」

ふみは黙っている。

小夜「家のことは、何も話していません」

小夜の目が、記事の上を行き来する。

やがて、新聞を閉じる。

ふみ「今日は、どうする」

小夜は鞄へ目を落とす。

中には、昨日の台本。

清玄と確かめた間。

自分で書いた印。

小夜が、鞄の持ち手を握る。

小夜「銀鈴館へ、行きます」

ふみがうなずく。

小夜は新聞を、台本と一緒に鞄へ入れる。

小夜「でも、今日は……語れるか、分かりません」

ふみ「それも、伝えておいで」

小夜が、ゆっくり頭を下げる。

店を出る。

朝の通りへ、一人で歩き出す。