鈴蘭の声が、春を呼ぶ。 【シナリオ】




〇 銀鈴館・舞台脇(午前)

小夜が、稽古の帳面を開いている。

挟んでいた父の書き付けを、そっと取り出す。

文字を見つめる。

清玄の足音。

小夜は書き付けを帳面へ戻す。

清玄「今日は、どこから?」

小夜「娘が、町を出る支度をしているところから、お願いいたします」

清玄が台本を開く。

水野が準備を始める。

映像。

娘が、鞄へ衣服を詰めている。

小夜「娘は、明日の朝には、この町を離れます」

娘が戸口を見る。

青年が立っている。

小夜〈青年の声〉「本当に、行くのか」

娘が手を止める。

小夜〈娘の声〉「ええ。前から、決めていたことです」

清玄「そこまで」

映像が止まる。

小夜が台本へ目を落とす。

清玄「前から決めていた。そのとおりです。ただ、今、目の前に誰がいるのでしょう」

小夜「……引き留めたい人です」

清玄「娘にとっては?」

小夜が幕を見る。

小夜「自分を、待っていてくれた人です」

清玄がうなずく。

清玄「では、もう一度」

小夜は鉛筆を持つ。

「決めたあとも、揺れる」

余白へ書き込む。

〇 銀鈴館・入口(昼)

征二郎が受付の前に立っている。

係「篠宮さんは、まだ稽古中です」

征二郎「終わるまで、待たせてもらえますか」

係「お約束は?」

征二郎「ありません。急に来たので、無理なら伝言だけでも」

そこへ、大迫が来る。

征二郎が名乗る。

大迫「客席の後ろでしたら、お待ちいただけます。ただ、稽古は途中で止められません」

征二郎「承知しました」

大迫が扉を開ける。

暗い客席。

征二郎は最後列へ座る。

〇 銀鈴館・舞台脇(昼)

小夜は征二郎に気づいていない。

小夜〈娘の声〉「あなたに、何も言わずに行こうとは、思っていませんでした」

幕の中で、青年が娘へ近づく。

小夜〈青年の声〉「では、どうして――」

清玄「今の青年は、責める前に、何か確かめたいのでは?」

小夜「……自分が、もう必要ないのか」

清玄「そう聞こえるように、やってみましょう」

小夜がうなずく。

最初へ戻る。

何度も、同じ場面。

征二郎は座ったまま見ている。

小夜が言葉をつかめず、首を振る。

清玄が待つ。

水野が映像を戻す。

ようやく場面が終わる。

清玄「今日は、ここまで」

小夜が頭を下げる。

客席に、明かりがつく。

小夜が征二郎に気づく。

小夜「征二郎さん……?」

征二郎が立ち上がる。

小夜は慌てて台本を閉じる。

小夜「いつから、いらしたのですか」

征二郎「途中から。邪魔をしてはいけないと言われたので」

小夜「お待たせしてしまって」

征二郎「待つと決めて、来たんだ」

小夜の手が止まる。

征二郎は、清玄と水野へ頭を下げる。

征二郎「ありがとうございました」

清玄が静かに会釈する。

〇 銀鈴館・通り(午後)

小夜と征二郎が歩いている。

通りを、洋装の女性たちが笑いながら通り過ぎる。

小夜は台本を鞄へ収めようとして、うまく入れられない。

征二郎が手を伸ばす。

征二郎「持とうか」

小夜「大丈夫です」

征二郎は手を引く。

小夜が鞄の中を整える。

征二郎「ずいぶん、書き込んでいるんだね」

小夜「同じところで、間違えてしまいますので」

征二郎「間違えるところを、初めて見た」

小夜が顔を上げる。

征二郎「仕事をしている君を、見たつもりになっていたな」

小夜は返事を探す。

征二郎「少し、話せるだろうか」

〇 喫茶店(午後)

窓際の席。

小夜の前に、紅茶。

征二郎の前には、手をつけていない珈琲。

小夜は周囲へ目を向ける。

磨かれた卓。

壁の鏡。

隣の席で、若い男女が声を潜めて笑っている。

征二郎「落ち着かない?」

小夜「少し。お客様として入ることは、あまりありませんので」

征二郎がメニューを閉じる。

征二郎「今日は、君に謝りたいと思って来た」

小夜が姿勢を正す。

征二郎「仕事を辞めてほしいと言ったことを、取り消したい」

小夜「……よろしいのですか」

征二郎「君が苦労していることと、仕事を嫌がっていることを、同じに考えていた」

小夜は紅茶を見る。

征二郎「今日、君は何度も止められていた。でも、帰りたい顔はしていなかった」

小夜の口元が、わずかに緩む。

小夜「帰りたい日も、あります」

征二郎も少し笑う。

征二郎「それでも、続けたいんだね」

小夜がうなずく。

征二郎は、卓の上の手を組み直す。

征二郎「小夜。僕と結婚してほしい」

小夜の目が上がる。

征二郎「仕事は、続けていい。家にも、僕から話す。君の家のことも、叔母上と相談したい」

小夜は、すぐには答えられない。

征二郎「君が安心して働けるように、僕が整える」

小夜の指が、湯飲みの代わりにカップの縁をなぞる。

小夜「……私が、うまく働けない日も、あると思います」

征二郎「あるだろうね」

小夜「語れなくなったことも、あります」

征二郎「それで、君との結婚をやめるとは思わない」

小夜は彼を見る。

征二郎「僕は、上手に語る君だけを、知りたいわけではないんだ」

小夜の目が潤む。

窓の外を、電車が通る。

小夜「昔、父に叱られて、庭から戻れなかったことを、覚えていらっしゃいますか」

征二郎「桜の木の後ろにいた」

小夜「もう、誰も迎えに来ないと思っていました」

征二郎「僕が来たら、まだ怒っているかと、何度も聞いた」

小夜が笑う。

征二郎「今も、忘れていないよ」

小夜は、目元を押さえる。

征二郎がハンカチを取り出す。

差し出しかける。

小夜の鞄から、別のハンカチがのぞいている。

征二郎の目が止まる。

小夜はそれを取り出し、自分で涙を拭く。

征二郎は、差し出しかけた手を卓へ戻す。

征二郎「……今、返事をしてもらうつもりはない」

小夜が顔を上げる。

征二郎「だが、君を待てると言うだけで、何も伝えずにいるのは、やめたかった」

小夜「ありがとうございます」

征二郎「礼ではなく、いつか、返事を聞かせてほしい」

小夜がゆっくりうなずく。

ハンカチを畳む。

その手元を、征二郎はもう見ない。

〇 花月堂・厨房脇(夕方)

小夜が、洗った器を拭いている。

同じ器を、何度も拭く。

ふみが隣へ来る。

ふみ「そこまで磨いたら、薄くなっちまうよ」

小夜が手を止める。

小夜「すみません」

ふみは器を受け取り、棚へ置く。

小夜「征二郎さんに、結婚してほしいと言われました」

ふみが小夜を見る。

小夜「仕事も、続けていいと」

ふみ「そうかい」

小夜「嬉しかったんです」

言ったあとで、小夜は戸惑う。

小夜「嬉しかったのに、返事ができませんでした」

ふみは作業台に布を広げる。

小夜「昔から、私が困ると、来てくださる方です。今日も、失敗するところを見て、それでも――」

言葉が詰まる。

ふみ「嬉しいことまで、打ち消さなくていいよ」

小夜が顔を上げる。

ふみ「嬉しかった。それは、それでいい」

小夜「でも……」

小夜は鞄へ目を向ける。

畳んだハンカチ。

小夜「別の方の顔も、浮かびました」

ふみは、すぐには尋ねない。

小夜「その方は、私が働けない日も、会いたいと思ってくださるのでしょうか」

ふみが小夜を見る。

小夜は答えを求めるように、ふみを見つめる。

ふみ「それは、私には分からないね」

小夜が目を伏せる。

ふみ「聞きたい相手は、分かっているんだろう」

小夜は、器を拭いていた布を畳む。

何も答えない。

〇 九条映画・廊下(夕方)

蓮太郎が書類を持って歩いている。

向こうから、綾乃が来る。

その後ろに、会長付の秘書。

蓮太郎が足を止める。

綾乃「お邪魔しております」

蓮太郎「父とのお話は、終わりましたか」

綾乃「ええ。今度の招待上映会のことも、伺いました」

秘書が案内状を蓮太郎へ差し出す。

秘書「鷹司様には、専務とご一緒にお客様を迎えていただく予定です」

蓮太郎は案内状を見る。

蓮太郎「私は、その話を聞いていません」

秘書「会長のお考えですので」

蓮太郎の顔が硬くなる。

綾乃が秘書へ向き直る。

綾乃「少し、二人でお話ししても?」

秘書が一礼し、離れる。

綾乃は蓮太郎を見る。

綾乃「私も、先ほど聞きました」

蓮太郎「失礼しました。あなたに言うべきことではありませんでした」

綾乃「腹を立てる相手を、間違えない方なら、安心です」

蓮太郎は案内状を畳む。

綾乃「ただ、並んで立てば、周りの方は、それぞれに意味をおつけになります」

蓮太郎「父には、私から話します」

綾乃「私も、自分の家へ話します」

一拍。

綾乃「上映会には、語り手の方も?」

蓮太郎「出演者は、清玄と大迫が決めます」

綾乃が、わずかに笑う。

綾乃「仕事の話は、すぐお答えになるのですね」

蓮太郎が彼女を見る。

綾乃「それ以外は、まだ、ご自分でもお決めになっていない?」

蓮太郎は答えない。

綾乃は、それ以上尋ねず、会釈する。

〇 銀鈴館・舞台脇(翌日・午後)

大迫が、清玄と小夜へ説明している。

大迫「招待上映会で、短い作品を一つ、お願いしたいと考えています」

小夜が顔を上げる。

大迫「いつものお客様とは違います。会話の途中で席を立つ方もいるでしょう」

清玄「作品は、こちらで選びましょう」

大迫「篠宮さん。引き受けられますか」

小夜が台本を見る。

小夜「準備の時間をいただけるなら、お願いいたします」

大迫がうなずく。

そこへ蓮太郎が入る。

大迫「今、篠宮さんにお話ししたところです」

蓮太郎は小夜を見る。

小夜「招待上映会で、語らせていただきます」

蓮太郎「そうか」

嬉しそうに言いかけて、言葉を変える。

蓮太郎「何か困ることがあれば、大迫にも、俺にも」

小夜はうなずく。

だが、目を伏せる。

清玄と大迫が、作品の相談へ移る。

蓮太郎が小夜のそばへ来る。

蓮太郎「何か、気になる?」

小夜は鞄の持ち手を握る。

小夜「昨日、征二郎さんが、稽古を見にいらっしゃいました」

蓮太郎の手が止まる。

蓮太郎「……聞いた」

小夜「仕事を続けていいと、おっしゃいました」

蓮太郎「それは、よかった」

小夜は彼を見る。

蓮太郎は、卓の上の台本へ目を落としている。

小夜「はい」

沈黙。

小夜「それだけでしょうか」

蓮太郎が顔を上げる。

小夜自身が、言ったことに驚く。

小夜「いえ……すみません」

蓮太郎「小夜――」

呼びかけを止める。

小夜の目が揺れる。

蓮太郎「篠宮君。仕事のことで、何か言われたのか」

小夜の指が、持ち手を強く握る。

小夜「仕事のことだけでは、ありません」

蓮太郎は動かない。

向こうで、大迫が小夜を呼ぶ。

小夜が頭を下げる。

小夜「失礼いたします」

小夜は清玄たちの方へ歩いていく。

蓮太郎は、閉じた台本へ手を置く。

開かない。

〇 篠宮家・小夜の部屋(夜)

小夜が稽古の帳面を開く。

「決めたあとも、揺れる」

その文字を見つめる。

今日の言葉が、よみがえる。

征二郎の声(回想)「上手に語る君だけを、知りたいわけではないんだ」

蓮太郎の声(回想)「それは、よかった」

小夜は鉛筆を取る。

「嬉しかった」

少し離して、もう一行。

「寂しかった」

二つの言葉を、消さずに残す。

父の書き付けを、帳面の間へ戻す。

その隣へ、ハンカチを置く。

小夜はハンカチへ手を伸ばす。

触れる直前で、止める。

〇 九条映画・専務室(夜)

蓮太郎が、一人で座っている。

卓には、招待上映会の案内状。

出演候補の欄に、小夜の名前。

蓮太郎は手帳を開く。

鉛筆を持つ。

何も書けない。

小夜の声(回想)「それだけでしょうか」

蓮太郎は顔を上げる。

窓に映る、自分の姿。

蓮太郎「……よかった、ではないだろう」

鉛筆を置く。

招待上映会の案内状を、もう一度手に取る。

客を迎える者として並んだ、蓮太郎と綾乃の名前。

蓮太郎は、その紙を見つめる。

〇 会長付秘書の机(夜)

秘書が、招待上映会の資料をまとめている。

招待客の一覧。

新聞社の記者の名。

出演候補の紙を、その下へ重ねる。

「篠宮小夜」

秘書はしばらく、その名前を見る。

やがて、資料を封筒へ収める。

封を閉じる。