〇 篠宮家・小夜の部屋(朝)
机の上に、開いた稽古の帳面。
「今日は、安心した」
小夜がその文字を見つめている。
廊下から、タカの声。
タカの声「小夜。出かける前に、蔵の箱を見てくれる?」
小夜が帳面を閉じる。
小夜「はい」
〇 篠宮家・座敷(朝)
タカが、古い書類を卓へ並べている。
小夜が入ってくる。
小夜「何を探せばよろしいですか」
タカ「お父様の帳簿。次のお支払いに、確かめたいことがあるの」
小夜が卓を見る。
借金に関する書状。
小夜「今月の分でしたら、用意してあります」
タカ「それだけでは済まないお話もあるのよ」
小夜「どういうことでしょう」
タカは書状を重ねる。
タカ「まず、帳簿を探してください」
小夜は何か言いかけ、うなずく。
〇 篠宮家・蔵(午前)
小窓から光が差し込む。
小夜が箱の蓋を開ける。
父の羽織。古い本。紐で綴じられた帳簿。
小夜は羽織へ手を置く。
襟の端に、母が直したらしい縫い目。
小夜「……ここにあったのですね」
帳簿を取り出し、開く。
父・辰之助の筆跡。
何枚かめくったところで、小夜の手が止まる。
友人の名。その下に、保証人として父の署名。
小夜が日付を確かめる。
さらにページをめくる。
返済の記録。家財を手放した記録。
折り畳まれた紙が落ちる。
小夜が拾い、開く。
辰之助の声(書き付け)「小夜の朗読会の話を、聞いた。あの子は、もう行かないと言った。店の仕事が面白くなったからだと笑った」
小夜の視線が止まる。
辰之助の声(書き付け)「私の判断で、あの子に選ばせてしまった。人を助けるつもりで、守るべき者の暮らしを重くした」
小夜が、書き付けを持ち直す。
辰之助の声(書き付け)「家のために、あの子の声まで小さくしたくはなかった」
小夜は床へ腰を下ろす。
開いた帳簿を、膝に置く。
遠くから、通りを行く人の声。
小夜はしばらく動けない。
〇 篠宮家・座敷(午前)
小夜が帳簿と書き付けを持って戻る。
タカが顔を上げる。
小夜「父は、友人の保証人になっていたのですね」
タカの手が止まる。
小夜「ご存じでしたか」
タカ「……知っていました」
小夜が座る。
小夜「私には、家の商売がうまくいかなかったと」
タカ「それも、間違いではありません。支払いが重なって、立ち行かなくなったのだから」
小夜は書き付けを卓へ置く。
タカが、その筆跡を見る。
小夜「父は、私が朗読会を辞退した理由を知っていました」
タカが紙へ手を伸ばす。
読み進めるうち、表情が変わる。
タカ「……兄さんは、何も言わなかった」
小夜「私も、何も言いませんでした」
タカが顔を上げる。
小夜「行きたいと、言えばよかったのでしょうか」
タカはすぐには答えられない。
小夜「言っても、行けなかったかもしれません。でも、好きではなくなったように話してしまいました」
小夜が、父の書き付けへ目を落とす。
小夜「父にまで、そう思わせたかったわけではないのに」
タカが紙を畳みかけ、やめる。
タカ「あなたが無理をしていることは、分かっていました」
小夜がタカを見る。
タカ「分かっていても、頼るしかなかったの」
沈黙。
小夜の視線が、重ねられた借金の書状へ移る。
その間に、三条家の名が見える。
小夜「……これは、征二郎さんのお家からですか」
タカが書状を押さえる。
タカ「借財について、どのくらいあるのかお知りになりたいと」
小夜「お伝えになったのですか」
タカ「まだです。帳簿を確かめてから――」
小夜「私に、先に話してください」
声は大きくない。
タカが小夜を見る。
小夜「助けていただくことも、結婚することも、私が知らないところで進めないでください」
タカ「あなたを困らせたくないのよ」
小夜「知らないまま決まってしまうほうが、困ります」
タカが言葉を失う。
小夜は父の書き付けを、自分の手元へ戻す。
小夜「少し、考える時間をください」
〇 銀鈴館・舞台脇(午後)
水野が映写の準備を終える。
小夜が台本を開いている。
清玄が合図する。
映像が始まる。
小夜「娘は、父の帰りを待っておりました。けれど、その夜――」
小夜の声が止まる。
画面が進む。
小夜が慌てて顔を上げる。
小夜「申し訳ありません。もう一度――」
清玄が小夜を見る。
清玄「今日は、何を考えていますか」
小夜は返事をためらう。
台本の端を握る。
水野が映写を止める。
小夜「……家のことで、少し」
清玄「続けられますか」
小夜が「はい」と言いかける。
その口が止まる。
小夜「今日は、集中できていません」
清玄がうなずく。
小夜「少し、休ませていただいてもよろしいでしょうか」
清玄「ええ」
水野が明かりをつける。
小夜が二人へ頭を下げる。
小夜「準備してくださったのに、申し訳ありません」
水野「止める前に言ってもらえれば、それで大丈夫です」
清玄「今日は、映像を見るだけにしましょう。語る稽古は、別の日に」
小夜が台本を閉じる。
無理に笑わず、うなずく。
〇 銀鈴館・廊下(夕方)
小夜が帰り支度をしている。
鞄へ台本を入れると、父の書き付けがのぞく。
小夜はそれを奥へ収める。
蓮太郎が廊下へ来る。
蓮太郎「篠宮君」
小夜「九条様」
蓮太郎「清玄から、今日は稽古を変えたと聞いた」
小夜の肩が少し下がる。
小夜「……申し訳ありません」
蓮太郎「理由を聞きに来たわけじゃない」
小夜が顔を上げる。
蓮太郎「帰りは、どちらへ?」
小夜「家へ戻ります」
蓮太郎「途中まで、歩いてもいいか」
小夜が驚く。
蓮太郎「俺も、今日はここまでだ」
小夜は彼の手元を見る。
いつも持っている書類が、今日はない。
小夜「……はい」
〇 銀座・通り(夕方)
二人が並んで歩く。
通りの灯りが、一つずつともり始める。
小夜は鞄の持ち手を握っている。
蓮太郎は急いで話しかけず、歩幅を合わせる。
小夜「九条様」
蓮太郎「うん」
小夜「人を助けたいと思ってしたことが、別の人を困らせたら……その人は、悪い人なのでしょうか」
蓮太郎は少し考える。
蓮太郎「その一つだけで、人を決められるとは思わない」
小夜が彼を見る。
蓮太郎「ただ、よい気持ちでしたことでも、困らせた事実はなくならない」
小夜は静かにうなずく。
小夜「父が、友人の保証人になっていたと知りました」
蓮太郎は歩みを緩める。
小夜「借金は、そのためでした。私に負担をかけたことを、父も悔やんでいました」
小夜が足元を見る。
小夜「父を責めたくはありません。でも……あのとき舞台へ行きたかったことまで、なかったことにはできなくて」
蓮太郎「しなくていいだろう」
小夜の指が動く。
蓮太郎「お父上を大切に思うことと、悔しかったと思うことは、両方あっていい」
小夜が立ち止まる。
蓮太郎も止まる。
小夜は鞄から書き付けを出す。
小夜「少し、読んでいただいてもよろしいでしょうか」
蓮太郎が受け取る。
小夜は彼が読み終えるまで、通りを見ている。
蓮太郎は紙を畳まず、小夜へ返す。
蓮太郎「君の望みを、なかったことにしたくはなかったんだな」
小夜が書き付けを見つめる。
小夜「父は、何を読んでも褒めてくれました」
蓮太郎「前に、聞いた」
小夜「私が少し上手になっても、間違えても、同じように。だから、役には立たないと思っていました」
口元に、小さな笑み。
小夜「……でも、聞いてもらえるのが嬉しかったんです」
蓮太郎は黙って聞いている。
小夜「父がいなくなってから、お話を読むことまで、役に立たなければいけないと思うようになりました」
小夜が紙を持つ手を下ろす。
小夜「好きだと言うだけでは、いけない気がして」
蓮太郎「今は、どうだ」
小夜は、少し時間をかけて答える。
小夜「好きだから、続けたいです」
蓮太郎がうなずく。
小夜「借金のために始めたのではないと、父にも言いたかったです」
風が吹く。
書き付けの端が揺れる。
小夜は慌てて押さえる。
蓮太郎が風上へ一歩移る。
小夜はその動きに気づく。
小夜「……ありがとうございます」
蓮太郎「しまってから、歩こう」
小夜は書き付けを鞄へ収める。
〇 銀座・橋のたもと(夕方)
小夜が欄干のそばで立ち止まる。
目元を指で押さえる。
蓮太郎は少し離れて待つ。
小夜「申し訳ありません。もう、大丈夫です」
蓮太郎「急がなくていい」
小夜は鞄からハンカチを探す。
台本、帳面、封筒。
見つからない。
蓮太郎が、自分のハンカチを差し出す。
小夜「でも……」
蓮太郎「返してもらえばいい」
小夜が受け取る。
端をそっと目元へ当てる。
小夜「お借りするものが、増えてしまいました」
蓮太郎「一枚だ」
小夜が、涙の残る顔で笑う。
小夜「それだけでは、ありません」
蓮太郎が小夜を見る。
小夜「今日も、お話を聞いていただきました」
蓮太郎「君が話してくれたからだ」
小夜の手が止まる。
蓮太郎「それまで借りにしなくていい」
小夜はハンカチを両手で持つ。
小夜「……はい」
二人が再び歩き始める。
〇 篠宮家・門前(夜)
門の内側に、小さな灯り。
小夜が足を止める。
小夜「ここまで、ありがとうございました」
蓮太郎「次の稽古は、清玄と相談してくれ」
小夜「はい。今日は、休みたいと言えました」
蓮太郎「聞いた」
小夜「まだ、申し訳なくなります」
蓮太郎「少しずつでいい」
小夜がうなずく。
手元のハンカチを見下ろす。
小夜「洗って、お返しします」
蓮太郎「急がなくていい」
小夜「……では、少しだけお借りします」
蓮太郎が微笑む。
蓮太郎「おやすみ、篠宮君」
小夜「おやすみなさいませ」
蓮太郎が去る。
小夜は門を開ける前に、もう一度ハンカチを見る。
丁寧に折り、鞄の内側へ入れる。
〇 篠宮家・座敷(夜)
タカが卓の前に座っている。
三条家からの書状。
その隣に、借金の支払いを求める便り。
小夜が入ってくる。
小夜「ただいま戻りました」
タカ「……お帰りなさい」
小夜が座る。
小夜「今朝は、途中で出てしまって、申し訳ありません」
タカが小夜を見る。
小夜「父のことを、もう少し考えたかったのです」
タカ「兄さんは、誰かが困っていると、放っておけなかった」
小夜「はい」
タカ「そのたびに、周りがどうにかすると思っていたわけではないのでしょうけれど」
タカの視線が、借金の書状へ落ちる。
タカ「どうにかするのは、いつも残った者だった」
小夜は、その書状を見る。
小夜「叔母様も、困っていらしたのですね」
タカの唇が動く。
すぐには言葉が出ない。
小夜「私は、父を好きなまま、あのとき悲しかったと思ってもよいのだと……今日、少し分かりました」
タカが顔を上げる。
小夜「家を大切にしながら、仕事を続けたいと思っても、よいのでしょうか」
タカは答えられない。
小夜は返事を急がせず、膝の上の手をほどく。
小夜「三条家へ借金のお話をする前に、私にも聞かせてください」
一拍。
タカ「……分かりました」
小夜の肩から力が抜ける。
小夜「ありがとうございます」
小夜が退出する。
タカは、卓の上の二通の便りを見つめる。
三条家への返事を書きかけるが、筆を止める。
紙を裏返し、引き出しへしまう。
借金の書状だけが、卓に残る。
タカが、その金額を指で押さえる。
〇 篠宮家・小夜の部屋(夜)
小夜が父の書き付けを、物語の本へ挟む。
かつての朗読会の案内も、隣へ置く。
辞退の下書きを開く。
「店の仕事が面白くなりましたので」
小夜が、その一文を見つめる。
鉛筆を取り、下書きの余白へ書く。
「本当は、行きたかった」
文字を消さず、紙を畳む。
物語の本と一緒に、机の上へ置く。
次に、稽古の帳面を開く。
「なぜ、寂しかったのだろう」
「今日は、安心した」
小夜はその下へ、ゆっくり書く。
「今日は、話せた」
傍らには、蓮太郎から借りたハンカチ。
小夜は手を伸ばしかけ、触れずに止める。
小夜「……次は、何を語ろう」
物語の本を開く。
父の書き付けが、ページの間から少し見えている。
小夜はそれをそっと収め、顔を上げる。



