鈴蘭の声が、春を呼ぶ。 【シナリオ】



〇 鷹司邸・応接間(昼)

窓から、庭の緑が見える。

卓を挟み、蓮太郎と鷹司綾乃(22)が向かい合っている。

蓮太郎の隣には父・宗一郎。綾乃の隣には、鷹司家の母。

綾乃の母「綾乃は、外国の文学にも興味がございまして」

宗一郎「蓮太郎も、英国で学んでおります。話も合うでしょう」

綾乃「映画には、外国の作品も多いのでしょう?」

蓮太郎「ええ。輸入作品も扱っています」

綾乃「原作と、映画では違うところも?」

蓮太郎「あります。見せられる時間も、伝える方法も違いますから」

綾乃が興味を示す。

宗一郎は、二人の様子に満足そうにうなずく。

綾乃の母「せっかくですから、少しお二人でお話しなさいませ」

親たちが席を立つ。

扉が閉まる。

蓮太郎は、姿勢を正す。

蓮太郎「先に、お伝えしておくべきことがあります」

綾乃「ご結婚について、すぐにお返事はできない、と?」

蓮太郎が言葉を止める。

綾乃「私も、そのお話をしようと思っておりました」

〇 鷹司邸・応接間(昼・続き)

綾乃が、卓の脇から一冊の本を取る。

ページの間には、細かな書き込みのある紙。

綾乃「外国の小説を訳しています。まだ、人にお見せするほどではありませんが」

蓮太郎「ご自分で?」

綾乃「ええ。母には、よい花嫁修業だと言われます」

綾乃は微笑むが、その指は紙の端を押さえている。

綾乃「私は、修業で終わらせたくありません」

蓮太郎が綾乃を見る。

綾乃「嫁ぎ先が決まってから、続けてよいか尋ねるのではなく、続けたいと先に伝えたいのです」

蓮太郎「それは、伝えるべきだと思います」

綾乃「蓮太郎様なら、そうおっしゃると思いました」

蓮太郎「なぜ?」

綾乃「先ほど、映画の話になったときだけ、ご自分の言葉で話しておられたから」

蓮太郎が、わずかに眉を上げる。

綾乃「それまでは、お父様のお望みどおりに答えていらしたでしょう」

蓮太郎「……よく見ているんですね」

綾乃「これからの暮らしに関わる方ですもの」

一拍。

綾乃「ですが、蓮太郎様は私を、そういう相手として見てはいらっしゃらない」

蓮太郎は、ごまかさずにうなずく。

蓮太郎「申し訳ありません」

綾乃「謝らないでください。私も、今日お会いしただけで、将来を決めたくはありません」

綾乃が本を閉じる。

綾乃「会話が楽しいことと、結婚したいことは別でしょう?」

蓮太郎の表情が、少し和らぐ。

蓮太郎「ええ。同感です」

綾乃「では、今日はお互いに、すぐには決められないとお伝えしましょう。承諾したふりは、しないこと」

蓮太郎「助かります」

綾乃「私もです」

綾乃が蓮太郎を見る。

綾乃「……お心に、どなたかいらっしゃるのですか」

蓮太郎の手が止まる。

綾乃「お答えにならなくても結構です」

蓮太郎は少し考える。

蓮太郎「自分でも、まだ言葉にしていません」

綾乃「では、言葉にする前に、別の約束をなさらないほうがよろしいですね」

蓮太郎が静かにうなずく。

〇 銀鈴館・舞台脇(同日・午後)

清玄が、小夜へ新しい台本を渡す。

小夜が開く。

若い男女の再会を描く作品。

小夜「今度は、恋のお話なのですね」

清玄「どちらが、先に相手を好きだと気づくと思いますか」

小夜が台本を読む。

小夜「娘のほうでしょうか」

清玄「なぜ?」

小夜「相手が来る前から、言うことを考えているので」

清玄「では、来たあとも、そのとおりに言えるでしょうか」

小夜が続きを読む。

小夜「……言えていません」

清玄「今日は、そこを考えてください」

水野が映写の準備をしている。

小夜は台詞を小さく読む。

小夜〈娘の声〉「あなたに、お伝えしたいことがございます」

言い終え、自分でも少し落ち着かなくなる。

小夜が台本を持ち直す。

清玄は、その様子を見ている。

〇 銀鈴館・舞台脇(午後・少し後)

映像が始まる。

画面の娘が、青年を呼び止める。

小夜〈娘の声〉「あなたに、お伝えしたいことがございます」

清玄が手を上げる。

清玄「止めてください」

水野が映写を止める。

小夜「言い方が、強すぎましたか」

清玄「その娘は、何が怖いのでしょう」

小夜が考える。

小夜「……気持ちを知られることです」

清玄「知られたいから、呼び止めたのでは?」

小夜は言葉に詰まる。

清玄「知られたい。でも、知られたあとが怖い。その二つが、同時にあります」

小夜が台本へ目を落とす。

清玄「すべて言える人の声にしなくていい」

小夜がうなずく。

清玄が水野へ合図し、映像を戻す。

〇 銀鈴館・入口(夕方)

蓮太郎が館内へ入る。

大迫が予定表を手に近づく。

大迫「清玄さんは、まだ稽古中です」

蓮太郎「そうか」

大迫「鷹司家から、会長へお便りが来るそうですね」

蓮太郎が大迫を見る。

大迫「会長から、こちらにもお話がありました。今後の予定を空けておくようにと」

蓮太郎「今日、婚約の返事をしたわけではない」

大迫が顔を上げる。

蓮太郎「先方も、すぐには決めない考えだ」

大迫「……承知しました。では、予定はこれまでどおりに」

蓮太郎がうなずく。

舞台から、小夜の声が聞こえる。

小夜の声「あなたに、お伝えしたいことがございます」

蓮太郎の足が止まる。

〇 銀鈴館・客席/舞台脇(夕方)

蓮太郎が客席の端へ入ってくる。

小夜は画面を見ながら語っている。

小夜〈娘の声〉「あなたを……お慕いしております」

蓮太郎が、小夜を見る。

画面の青年が、驚いて娘へ向き直る。

小夜〈娘の声〉「お返事を、急いでいただきたいのではありません。ただ、知っていていただきたくて」

清玄が黙って聞いている。

映像が終わる。

小夜が息を吐く。

清玄「前より、ためらいが見えました」

小夜「言いたいのに、言わないほうがよかったかもしれないと……思ってしまうのでしょうか」

清玄「ええ。ただ、娘は言ったことまで取り消したいわけではありません」

小夜がうなずく。

そこで、客席の蓮太郎に気づく。

小夜の指が止まる。

清玄が蓮太郎へ目を向ける。

清玄「専務。いつから?」

蓮太郎「娘が、青年を呼び止めたところから」

小夜が台本へ顔を下げる。

清玄「では、もう一度聞いていただきましょう」

小夜が顔を上げる。

小夜「今、ですか?」

清玄「今の語りを、同じように」

蓮太郎が席へ座る。

小夜は台本を開き直す。

水野が映像を戻す。

小夜〈娘の声〉「あなたに、お伝えしたいことがございます」

息を吸う。

客席の蓮太郎が目に入り、声が硬くなる。

小夜〈娘の声〉「あなたを、お慕いしております」

清玄が手を上げる。

清玄「今度は、ずいぶん立派に言えましたね」

小夜が口を閉じる。

清玄「娘が、どこかへ行ってしまいました」

小夜「……申し訳ありません」

清玄「客が一人増えただけです。言葉を、立派に飾り直さなくていい」

蓮太郎は何も言わず、舞台を見ている。

小夜が視線を画面へ戻す。

〇 銀鈴館・舞台脇(夕方・稽古後)

水野が片づけをしている。

清玄が小夜の台本へ、短い印を書き込む。

清玄「今日は、ここまでにしましょう」

小夜「はい」

清玄「最後の一度は、戻りました。最初から全部やり直す必要はありません」

小夜が、ほっとする。

清玄が台本を返し、退出する。

水野も機材を確認して奥へ戻る。

蓮太郎が小夜へ近づく。

蓮太郎「俺が入って、邪魔をしたか」

小夜「いいえ。お客様が増えただけですから」

蓮太郎「それなら、よかった」

小夜が台本を鞄へ入れる。

蓮太郎「……言われた青年は、何と答える」

小夜「この作品では、すぐにはお返事をしません」

蓮太郎「娘は、待つのか」

小夜「はい。でも、待っている間に、怒ってしまいます」

蓮太郎「怒る?」

小夜「自分ばかり、恥ずかしい思いをしたと」

蓮太郎が少し笑う。

小夜「おかしいでしょうか」

蓮太郎「いや。返事を待つ側の身になれ、という話だな」

小夜も微笑む。

沈黙。

小夜は、蓮太郎の上着へ一瞬目を向ける。

蓮太郎が気づく。

蓮太郎「何か?」

小夜「……今日は、お出かけだったのですね」

蓮太郎「鷹司家へ行ってきた」

小夜の手が、鞄の留め具の上で止まる。

小夜「お話は、うまくできましたか」

蓮太郎「少なくとも、こちらの考えは伝えた」

小夜「そうですか」

小夜が留め具を閉じる。

蓮太郎「婚約を決めたわけではない」

小夜が顔を上げる。

蓮太郎「先方も、自分の将来を急いで決めたくないと話していた」

小夜「……ご自分のお考えを、お持ちの方なのですね」

蓮太郎「翻訳を続けたいそうだ」

小夜の表情に、興味が浮かぶ。

小夜「外国のお話を、日本の言葉に?」

蓮太郎「そうだ」

小夜「素敵ですね。知らない物語を、誰かが読めるようになる」

蓮太郎は、小夜の顔を見ている。

小夜が気づく。

小夜「何か、おかしなことを申しましたか」

蓮太郎「いや。君なら、そう言うと思った」

小夜が少し照れる。

蓮太郎「そのうち、映画の仕事で協力してもらうことがあるかもしれない」

小夜「お会いしてみたいです」

蓮太郎「伝えておこう」

小夜がうなずく。

その表情から、少し力が抜けている。

〇 銀鈴館・廊下(夕方)

二人が出口へ向かう。

小夜は鞄を開き、鉛筆が入っているか確かめる。

蓮太郎「また、働き者の鉛筆を探しているのか」

小夜「はい。今日は、何度も書き直しましたので」

蓮太郎「何を?」

小夜「娘が、何を怖がっているのか」

蓮太郎「分かったか」

小夜が考える。

小夜「少しだけ」

蓮太郎「どんなことだ」

小夜「今までどおりに、会えなくなることです」

蓮太郎の歩みが、わずかに遅くなる。

小夜「気持ちを伝えたら、同じ挨拶をしても、相手には違って聞こえるでしょう」

蓮太郎「そうだな」

小夜「だから、言いたいのに、言えないのだと思います」

蓮太郎が小夜を見る。

小夜はその視線に気づき、付け加える。

小夜「映画の娘の、お話です」

蓮太郎「分かっている」

一拍。

蓮太郎「それでも、伝えてもらえたら、嬉しいと思う」

小夜が足を止める。

蓮太郎も止まる。

小夜「……青年が、ですか」

蓮太郎「そういうことにしておこう」

小夜は返事ができない。

蓮太郎が入口の扉を開ける。

外から、夕方の光が差し込む。

〇 銀鈴館・入口(夕方・続き)

小夜が戸口へ立つ。

風が吹き、鞄からのぞいた台本の紙がめくれる。

小夜が慌てて押さえる。

蓮太郎も手を伸ばし、台本を支える。

二人の指が、表紙の上で触れる。

小夜の手が止まる。

蓮太郎は紙が収まったのを確かめ、手を離す。

蓮太郎「落とさなくてよかった」

小夜「……はい」

小夜は鞄を閉じる。

顔にかかった髪を直そうとするが、鞄を持ち直している間に、蓮太郎の手が少し動く。

彼は、その手を途中で止める。

蓮太郎「髪に、紙の切れ端が」

小夜が髪へ触れる。

小夜「取れましたか?」

まだ、小さな紙片が残っている。

蓮太郎「取っても?」

小夜が小さくうなずく。

蓮太郎が、髪に引っかかった紙片をそっと取る。

小夜は動かずにいる。

蓮太郎が手を下ろす。

小夜「ありがとうございます」

蓮太郎「どういたしまして」

二人の間に、短い沈黙。

小夜「それでは、また」

蓮太郎「次の稽古で」

小夜が歩き出す。

数歩進んだところで、振り返る。

蓮太郎が、まだ入口に立っている。

小夜は何か言おうとして、言葉を探す。

蓮太郎は待っている。

小夜「……今日も、聞いてくださって、ありがとうございました」

蓮太郎の表情が和らぐ。

蓮太郎「こちらこそ」

小夜が一礼し、前を向く。

今度は振り返らずに歩いていく。

〇 鷹司邸・綾乃の部屋(夜)

綾乃が机に向かい、翻訳の原稿へ書き込んでいる。

母が入ってくる。

綾乃の母「蓮太郎様は、よい方でしたでしょう」

綾乃「ええ。お話のできる方でした」

綾乃の母「では、次も――」

綾乃が鉛筆を置く。

綾乃「お母様。お会いすることと、婚約を承諾することは、別です」

母の表情が変わる。

綾乃は、穏やかに続ける。

綾乃「私の考えも、先方へお伝えください」

綾乃の母「あなたは、本のことばかり」

綾乃は原稿へ目を向ける。

綾乃「今は、この一冊を訳し終えたいのです」

母はため息をつく。

綾乃は原稿を隠さず、机の上へ置いたままにしている。

〇 篠宮家・小夜の部屋(夜)

小夜が台本を開く。

昼間、清玄に指摘された台詞。

「あなたを、お慕いしております」

小夜は、その一行を見つめる。

小夜〈娘の声〉「あなたを……」

声が止まる。

蓮太郎の声(回想)「それでも、伝えてもらえたら、嬉しいと思う」

小夜が片手で頬に触れる。

鞄から、稽古の帳面を取り出す。

前のページには、

「なぜ、寂しかったのだろう」

小夜はその下へ書こうとして、鉛筆を止める。

やがて、小さく書く。

「今日は、安心した」

その文字を見て、ますます戸惑う。

小夜が帳面を閉じる。

台本の上へ重ね、両手を置く。

小夜「……お話の中なら、言えるのに」

窓の外から、風の音。

小夜は灯りの下で、しばらく顔を上げられない。