鈴蘭の声が、春を呼ぶ。 【シナリオ】



〇 篠宮家・座敷(朝)

タカが、座布団の位置を直している。

小夜が盆を持って入る。

タカ「その茶碗ではなく、奥の箱のものを出して」

小夜「お客様用の?」

タカ「三条家の方をお迎えするのよ」

小夜が盆を置く。

小夜「叔母様。昨日のお手紙は、どのようなお話だったのでしょう」

タカの手が止まる。

タカ「征二郎さんが、あなたを案じてくださっているの」

小夜「私の仕事のことも、お伝えになりましたか」

タカ「その話は、今日ここでする必要はありません」

小夜「ですが――」

タカ「久しぶりにお会いするのよ。まず、帰国のお祝いを申し上げなさい」

小夜は言いかけた言葉をのみ込む。

座敷の隅に、自分の鞄が置かれている。

口から、台本の端が見える。

タカも気づく。

タカ「それは、お部屋へ」

小夜は鞄を持ち上げる。

台本を押し込まず、鞄の口を丁寧に閉じる。

〇 篠宮家・玄関(昼)

戸の外から、落ち着いた声。

征二郎「ごめんください」

タカが戸を開ける。

三条征二郎(27)が、包みを手に立っている。

タカ「まあ、征二郎さん。ご立派になられて」

征二郎「ご無沙汰しております」

征二郎が頭を下げる。

タカの後ろに、小夜の姿。

征二郎の目が止まる。

征二郎「……小夜」

小夜「お帰りなさいませ」

征二郎が、懐かしそうに笑う。

征二郎「ずいぶん、改まった挨拶だな」

小夜「十年ぶりですもの。少しは、改まります」

征二郎「僕は、何と言おうか考えてきたのに、顔を見たら忘れてしまった」

小夜が笑う。

征二郎はその笑顔を見つめ、肩の力を抜く。

タカ「さあ、こちらへ」

〇 篠宮家・座敷(昼)

征二郎が包みを開く。

中には、外国の風景が描かれた絵葉書と、小さな菓子の缶。

征二郎「君は、知らない場所の話が好きだったろう」

小夜が絵葉書を手に取る。

広い通り。大きな建物。行き交う人々。

小夜「覚えていてくださったのですね」

征二郎「忘れるほど、ほかの話を聞かせてもらわなかった」

小夜「そんなに、同じお話ばかり?」

征二郎「同じ話でも、毎回違った。昨日は悪者だった人が、翌日は味方になっていた」

小夜「正吉にも、よく叱られます。前と違うと」

征二郎「正吉?」

小夜「店へ来る子です。物語の細かいところまで覚えているので、油断できません」

征二郎「今も、語っているんだな」

小夜がうなずく。

タカが茶を置く。

タカ「小夜は、銀座のお店で働いておりますの」

征二郎「伺いました。篠宮先生のことも……帰国してから」

小夜が絵葉書を置く。

征二郎「もっと早く知っていれば、手紙を出した」

小夜「遠くでのお仕事が、お忙しかったのでしょう」

征二郎「それでも、知りたかった」

沈黙。

征二郎が、小夜の前にある茶碗を見る。

征二郎「君のお父上には、ずいぶん本を借りた。返せていないものもある」

小夜「きっと、お貸ししたことをお忘れでしたわ。父は、そういう方でしたから」

征二郎が笑う。

タカも、わずかに表情を和らげる。

やがて征二郎が姿勢を正す。

征二郎「今日は、もう一つ、お話があって参りました」

小夜の手が止まる。

征二郎「小夜との結婚を、考えております」

タカが小夜を見る。

小夜は、征二郎から目を離せない。

征二郎「急なお話なのは承知しています。ですが、幼い頃の約束を、ただの思い出にはしたくありませんでした」

タカ「ありがたいお話ですこと」

小夜「……叔母様」

タカ「征二郎さんは、三条家にもお話しくださっているのよ」

征二郎「借財についても、家で相談できます。君がこれから先、無理をしなくて済むように」

小夜が、膝の上で手を重ねる。

小夜「それは、私との結婚をお考えだから、引き受けてくださるのですか」

征二郎が一瞬、言葉を止める。

征二郎「君の力になりたいと思っている」

小夜「……ありがとうございます。でも、今ここでお返事はできません」

タカ「小夜」

征二郎が、タカへ向き直る。

征二郎「いえ。今日は、僕の気持ちをお伝えしに来ただけです」

タカは何か言いかけ、控える。

征二郎が小夜を見る。

征二郎「少し、庭を歩かないか」

〇 篠宮家・庭(午後)

古い桜の木。

花は散り、枝には若葉が伸びている。

征二郎が幹に手を置く。

征二郎「この木、もっと大きかった気がする」

小夜「私たちが、小さかったのでしょう」

征二郎「ここで君が泣いたことは、覚えている」

小夜「お帰りになる日でしたね」

征二郎「迎えに来ると言ったら、泣きやんだ」

小夜「……ずいぶん、単純な子どもでした」

征二郎「僕は、安心したんだ。帰ってきても、君に会えると思って」

風が若葉を揺らす。

小夜は桜を見上げる。

征二郎「小夜。借金の話が、嫌だったか」

小夜「嫌というより……何とお答えすればよいのか、分からなくなりました」

征二郎「僕は、恩を売りたいわけじゃない」

小夜「はい。それは分かっています」

小夜が征二郎へ向き直る。

小夜「でも、助けていただくことと、結婚したいと思うことを、同じ返事にはできません」

征二郎が静かに聞く。

小夜「借金があるから、あなたを選ぶ。そうなったら、あなたにも失礼でしょう」

征二郎「昔から、君はそうだな」

小夜「頑固、ですか」

征二郎「人に礼を言う前に、何を返せるか考える」

小夜が目を伏せる。

征二郎「僕には、借りを返そうとしなくていい」

小夜「……今、それを覚えているところです」

征二郎が眉を上げる。

小夜「仕事を始めました。喫茶店とは、別に」

征二郎「どんな?」

小夜「銀鈴館で、活動弁士の稽古をしています」

征二郎の手が、桜の幹から離れる。

征二郎「客の前で、語るのか」

小夜「はい。先日、短い作品を任せていただきました」

征二郎「そうか……」

小夜は、鞄から取り出してきた帳面を開く。

「最後まで、語れた」

征二郎が、その文字を見る。

小夜「最初は失敗しました。声も枯らしてしまって。でも、もう一度、語らせていただけたんです」

話すうち、小夜の表情が明るくなる。

征二郎「君が物語を好きなのは、知っている。ただ、仕事にしなくても――」

小夜の笑みが、少し静まる。

征二郎「結婚しても、本は読める。語る時間だって、作れるだろう」

小夜は帳面を閉じる。

小夜「私は、仕事として続けたいのです」

征二郎が小夜を見る。

小夜「うまくいかないことばかりです。でも、お客様に届いたと分かったとき……また、語りたいと思いました」

征二郎「誰に、勧められた?」

小夜「九条映画の、九条蓮太郎様です」

征二郎の表情がわずかに変わる。

征二郎「九条家の?」

小夜「ご存じなのですか」

征二郎「名は聞いたことがある」

征二郎が、言葉を選ぶ。

征二郎「その人を、信頼しているんだな」

小夜「はい」

ためらいのない返事。

征二郎は、その速さを受け止める。

小夜「けれど、九条様に言われたからだけではありません。私も、あの場所で語りたいと思ったんです」

征二郎がうなずく。

征二郎「……一度、見に行ってもいいか」

小夜が驚く。

征二郎「君が、そこまで続けたいと思う仕事を」

小夜「はい。出演が決まりましたら、お知らせいたします」

征二郎が微笑む。

征二郎「楽しみにしている」

小夜も微笑む。

けれど征二郎の視線は、閉じられた帳面に残っている。

〇 九条映画・専務室(夕方)

蓮太郎が、大迫の提出した報告を読んでいる。

大迫「篠宮さんの回ですが、客の反応は前回より落ち着いております」

蓮太郎「次の出演は?」

大迫「清玄さんと相談して、短い作品から続けます」

蓮太郎がうなずく。

机の電話が鳴る。

大迫が書類をまとめる。

蓮太郎「九条です」

電話の向こうから、父・宗一郎の声。

宗一郎の声「明後日の午後は、空けておきなさい」

蓮太郎「何のご用でしょう」

宗一郎の声「鷹司家へ伺う。綾乃嬢も同席なさる」

蓮太郎の指が止まる。

蓮太郎「仕事のお話ですか」

宗一郎の声「分かっていて尋ねるな。お前の縁談だ」

大迫が静かに退出する。

蓮太郎「承知した覚えはありません」

宗一郎の声「まず会いなさい。お前が映画館にばかり時間を費やす間も、家と会社のことは動いている」

蓮太郎「銀鈴館も、会社の仕事です」

宗一郎の声「その館のためにも、考えるべき縁だと言っている」

蓮太郎が背を伸ばす。

宗一郎の声「明後日だ。失礼のないように」

電話が切れる。

蓮太郎は受話器を置く。

報告書へ目を戻す。

余白に、大迫の文字。

「篠宮小夜――継続して稽古、出演を検討」

蓮太郎は報告書を閉じ、しばらく動かない。

〇 花月堂・店内(夜)

閉店後。

小夜が最後のカップを片づけている。

ふみは厨房へ下がっている。

扉の鈴が鳴る。

蓮太郎が入ってくる。

小夜「九条様。お忘れ物ですか」

蓮太郎「いや。まだ開いているかと思って」

小夜が入口の札を見る。

「閉店」。

蓮太郎も気づく。

蓮太郎「……よく見ていなかった」

小夜が少し笑う。

小夜「珍しいですね」

蓮太郎「そうだな」

小夜はカップを棚へ戻す。

小夜「少しだけでしたら。女将に聞いてまいります」

蓮太郎「無理はしなくていい」

厨房から、ふみの声。

ふみの声「お茶くらいなら、入れられるよ。小夜ちゃん、あとはお願いね」

小夜「はい」

蓮太郎が窓際へ座る。

小夜が湯を用意する。

蓮太郎「今日は、館へ来なかったんだな」

小夜「お休みの日でしたので」

蓮太郎「分かっている。ただ、清玄に聞いたら、今日は休みだと言われた」

小夜が振り返る。

小夜「私に、ご用でしたか」

蓮太郎は一拍置く。

蓮太郎「……次の作品の話を、少し」

小夜「でしたら、伺いたかったです」

蓮太郎「急ぐ話ではない。次の稽古でいい」

小夜が茶を置く。

そのまま立っている小夜に、蓮太郎が向かいの椅子を示す。

蓮太郎「少し、話せるか」

小夜が座る。

蓮太郎「今日は、何をしていた」

小夜「幼なじみが、訪ねてくださいました」

蓮太郎の手が、カップの手前で止まる。

小夜「三条征二郎さんという方です。外国から、お帰りになって」

蓮太郎「三条……外交官の?」

小夜「はい。お名前をご存じなのですね」

蓮太郎「聞いたことはある」

小夜は膝の上で、手を重ねる。

小夜「結婚のお話を、いただきました」

蓮太郎が小夜を見る。

店の時計の音。

蓮太郎「……返事は」

小夜「まだ、していません」

蓮太郎「そうか」

小夜は蓮太郎の表情を見ようとして、目を伏せる。

小夜「借金のことも、助けてくださると」

蓮太郎の眉がわずかに動く。

小夜「ありがたいお話なのに、喜べない自分が、薄情なのかと思いました」

蓮太郎「恩を感じることと、結婚することは別だろう」

小夜が顔を上げる。

蓮太郎「相手は、君の仕事を知っているのか」

小夜「今日、お話ししました。一度、見に来たいと」

蓮太郎が小さくうなずく。

小夜「九条様」

蓮太郎「何だ」

小夜「結婚したら、今の仕事を続けられなくなるでしょうか」

蓮太郎は、すぐには答えない。

蓮太郎「俺が決めることではない。その人と、君が話すことだ」

小夜「……そうですね」

蓮太郎「君は、どうしたい」

小夜の指が、膝の上でほどける。

小夜「続けたいです」

蓮太郎が、その返事を受け止める。

小夜「借金がなくなっても。苦労しなくてよくなっても、私は、また語りたいです」

蓮太郎「なら、その気持ちは隠さずに話したほうがいい」

小夜がうなずく。

蓮太郎はカップへ手を伸ばす。

小夜「九条様にも、困り事があるのですか」

蓮太郎が顔を上げる。

小夜「今日も、お茶が冷めそうです」

蓮太郎がカップを見る。

かすかに笑うが、その笑みは長く続かない。

蓮太郎「俺にも、見合いの話が来た」

小夜の手が止まる。

小夜「……そう、なのですね」

蓮太郎「明後日、会うように言われている」

小夜「お会いになるのですか」

蓮太郎「会って、こちらの考えを話す必要はある」

小夜は卓の木目を見る。

小夜「ご立派な方なのでしょうね」

蓮太郎「まだ、何も知らない」

小夜「九条様に、ふさわしい方を――」

蓮太郎「篠宮君」

小夜が顔を上げる。

蓮太郎「俺にふさわしい相手まで、君が決めなくていい」

小夜「申し訳ありません」

蓮太郎「謝らせたいわけじゃない」

蓮太郎は言葉を探す。

蓮太郎「ただ、家の考えと、俺の考えが同じとは限らない」

小夜が静かにうなずく。

蓮太郎「君も、そうだろう」

小夜「……はい」

二人の間に沈黙。

厨房で、ふみが棚を閉める音。

小夜が顔を上げる。

小夜「私たち、少し似ていますね」

蓮太郎「そうかもしれない」

小夜「自分のことなのに、自分だけでは決められなくて」

蓮太郎「それでも、自分の考えを持つことはできる」

小夜が蓮太郎を見る。

蓮太郎「俺も、そうする」

〇 花月堂・入口(夜)

小夜が蓮太郎を見送る。

蓮太郎が帽子を手にする。

小夜「明後日、お話がうまくできますように」

蓮太郎「ありがとう」

小夜が戸を押さえる。

蓮太郎は外へ出かけ、足を止める。

蓮太郎「君も、焦って返事をしなくていい」

小夜「はい」

蓮太郎「仕事のことで聞きたいことがあれば、いつでも話してくれ」

小夜が少し考える。

小夜「仕事以外のことは……ご迷惑でしょうか」

蓮太郎が振り返る。

小夜は自分の言葉に戸惑い、戸の縁を握る。

蓮太郎「迷惑なら、ここへ来ていない」

小夜の頬が染まる。

蓮太郎はそれ以上言わず、帽子をかぶる。

蓮太郎「次の稽古で」

小夜「はい。お待ちしております」

蓮太郎が歩き出す。

小夜は、その背を見送る。

やがて戸を閉め、しばらくその場に立っている。

厨房からふみが出てくる。

ふみ「お茶は、冷めたかい」

小夜が振り向く。

小夜「……少し」

ふみは小夜の顔を見て、微笑む。

ふみ「そうかい」

〇 九条家・書斎(夜)

蓮太郎が机へ座る。

鷹司家を訪問する予定の書かれた紙を置く。

その隣に、仕事の手帳。

手帳を開く。

以前書いた一行。

「篠宮君が、声を休めた」

蓮太郎は、その文字を見つめる。

小夜の声(回想)「仕事以外のことは……ご迷惑でしょうか」

蓮太郎が手帳を閉じる。

訪問の予定へ視線を戻す。

今度は目をそらさず、紙を手に取る。

〇 篠宮家・小夜の部屋(夜)

机の上に、征二郎からもらった絵葉書。

その横に、銀鈴館の台本。

小夜が絵葉書を手に取る。

庭での征二郎の声が重なる。

征二郎の声(回想)「一度、見に行ってもいいか」

小夜は絵葉書を、物語の本へ挟む。

次に、稽古の帳面を開く。

「続きを、待ってくれる人がいる」

小夜の指が、その文字をなぞる。

蓮太郎の声(回想)「俺にも、見合いの話が来た」

小夜の手が止まる。

鉛筆を持つ。

しばらく考え、ページの隅へ小さく書く。

「なぜ、寂しかったのだろう」

小夜はその言葉を見つめる。

消そうとして、やめる。

帳面を静かに閉じる。