〇 銀鈴館・客席(昼)
小夜が、白いスクリーンの前に立っている。
語り終えた口を閉じ、最後列の蓮太郎を見る。
蓮太郎が立ち上がる。
拍手はない。
小夜は、脇へ下ろしていた本を胸に抱き直す。
通路を歩いてくる蓮太郎の靴音。
小夜「……最後まで、聞こえましたか」
蓮太郎「聞こえた。途中で、少し息が浅くなったな」
小夜「申し訳ありません」
蓮太郎「謝ることじゃない。これだけ客席があれば、花月堂とは語り方も変わる」
小夜「では、やはり私には――」
蓮太郎「まだ、向いていないとは言っていない」
小夜が口を閉じる。
蓮太郎は、小夜の抱えている本を見る。
蓮太郎「途中から、それを開かなかった」
小夜「お話を、変えてしまいましたので」
蓮太郎「門の向こうに、娘は行けたのか」
小夜が少し考える。
小夜「……それは、まだ分かりません」
蓮太郎「続きを待つことにする」
小夜が顔を上げる。
蓮太郎「今日、すぐに仕事を引き受けろとは言わない。まず、実際の上映を見てほしい」
小夜「はい」
蓮太郎が、小夜のそばの席を指す。
蓮太郎「ここで見よう。清玄の語りが、よく聞こえる」
小夜「清玄様?」
蓮太郎「君の先生を、引き受けてもらいたい人だ」
小夜が舞台脇へ目を向ける。
台本を手にした橘清玄(45)が、係の者と短く言葉を交わしている。
清玄が小夜に気づく。
小夜が頭を下げる。
清玄は小さく会釈を返し、再び台本へ目を落とす。
〇 銀鈴館・客席(午後)
館内が暗くなる。
スクリーンに、旅立とうとする青年と、見送る娘の姿が映る。
清玄の語り。
清玄〈青年の声〉「帰ったら、真っ先に君を訪ねる」
画面の青年が、得意げに胸を張る。
清玄〈娘の声〉「その前に、お母様に叱られていらっしゃい」
客席から笑いが起きる。
小夜も笑う。
隣の蓮太郎が、小夜の反応を一瞬見て、スクリーンへ視線を戻す。
やがて青年が歩き出す。
娘が手を伸ばしかけ、引っ込める。
清玄は語らない。
小夜は、その手を見つめる。
娘が一歩だけ前へ出る。
青年は振り返らない。
小夜の膝の上で、指がかすかに握られる。
清玄「言えなかったひと言を、娘は胸にしまいました」
小夜が、静かに息を吐く。
〇 銀鈴館・客席(午後・上映後)
観客が席を立っていく。
小夜は、明るくなったスクリーンを見つめている。
蓮太郎「どうだった」
小夜「あそこで、どうして何も言わなかったのでしょう」
蓮太郎「娘が、手を伸ばしたところか」
小夜がうなづく。
蓮太郎「君なら、何を言った?」
小夜「行かないで、と……」
言いかけて、止まる。
小夜「でも、もう分かっていました。言わなくても」
蓮太郎「俺も、あの場面が好きだ」
小夜が蓮太郎を見る。
小夜「映画会社の方は、お仕事としてご覧になるのかと思っていました」
蓮太郎「仕事にする前は、ただの客だった」
小夜「今は?」
蓮太郎「客として見たいのに、空いた席が気になる」
小夜が周囲を見回す。
空席の目立つ客席。
蓮太郎「その席を、埋めたい」
小夜は、先ほど笑っていた観客たちが出ていく入口を見る。
小夜「……私も、あんなふうに聞いていただけたらと思いました」
蓮太郎「なら、次は仕事の話をしよう」
〇 銀鈴館・事務室(午後)
机の上に、帳簿と契約案。
大迫剛三(52)が帳簿を閉じる。
隣には清玄。
蓮太郎と小夜が入ってくる。
蓮太郎「篠宮小夜君だ。先日話した、弁士として育てたい人だ」
小夜「篠宮小夜と申します。よろしくお願いいたします」
大迫「大迫です。こちらの経営管理を担当しております」
清玄「橘です」
小夜が二人へ頭を下げる。
大迫「語りの仕事をされた経験は」
小夜「ございません」
大迫「舞台に立ったことは?」
小夜「……それも、ございません」
大迫が蓮太郎を見る。
大迫「専務。お話では、客の心をつかむ方だと」
蓮太郎「そうだ」
大迫「喫茶店と、この客席は違います」
蓮太郎「承知している。だから、いきなり出演させるつもりはない」
大迫は小夜へ視線を戻す。
大迫「今も、お店で働いておられるのですね」
小夜「はい」
大迫「練習には時間が要ります。どう折り合いをつけるおつもりですか」
小夜「女将と相談して、通える時間を決めたいと思っています」
大迫「その相談も、まだ済んでいない」
小夜の指が、鞄の持ち手を握る。
蓮太郎「今日は条件を持ち帰ってもらう。無理な約束をさせるために呼んだのではない」
大迫「では、練習中の報酬についても、持ち帰ってお考えになると?」
蓮太郎「もちろんだ」
大迫が契約案を指で押さえる。
大迫「教える者の時間も、映写にかかる手間も、費用です」
蓮太郎「試用の期間と費用の上限は、そこに記した」
大迫「一度の挑戦とお考えかもしれませんが、その費用で給金を受け取る者もおります」
小夜が大迫を見る。
大迫の机の端に、従業員の名前が並んだ帳面。
蓮太郎「その給金を削る計画ではない。支出は俺の責任で管理する。出演の判断も、稽古を見てからだ」
大迫が契約案を読み直す。
清玄は、それまで黙って小夜を見ている。
清玄「篠宮さん」
小夜「はい」
清玄「自分ではよいと思った語りを、直せと言われたら、どうしますか」
小夜「理由を伺って、考えます」
清玄「理由を聞くのはよいことです。ただ、納得するまで試さないのでは、稽古になりません」
小夜が考える。
小夜「……まず、やってみます。そのうえで、分からなければお尋ねしてもよろしいでしょうか」
清玄が、わずかにうなずく。
清玄「ええ。それなら、一度聞きましょう」
清玄が椅子から立ち上がる。
〇 銀鈴館・舞台脇(夕方)
水野直人(24)が、映写の準備をしている。
小夜が、清玄から短い作品の内容を説明されている。
清玄「まず、一度見てください。そのあとで、語ってもらいます」
小夜がうなずく。
映像が始まる。
若い男が手紙を読み、戸口の気配に気づいて、上着の内側へ隠す。
女が入ってくる。
小夜は画面を追いながら、手元の紙へ急いで書き込む。
清玄「紙より、画面を」
小夜が慌てて顔を上げる。
〇 銀鈴館・舞台脇(夕方・少し後)
同じ映像が、最初から映される。
小夜が息を吸う。
小夜「男は、遠く離れた家族からの手紙を読みながら、懐かしい日々を思い返しておりました。けれど、その胸のうちには――」
画面の男が手紙を隠す。
小夜は語りを続ける。
小夜「誰にも明かせない思いが、幾つも……」
画面に女が入ってくる。
小夜が言葉を急ぐ。
小夜「そこへ、女が訪ねてまいりまして――」
清玄「止めてください」
映像が止まる。
小夜の声も止まる。
清玄「今、男は何をしていましたか」
小夜「手紙を、読んで……」
清玄「そのあとです」
小夜がスクリーンを見る。
清玄「手紙を隠しました」
小夜「……はい」
清玄「それを見せなければ、女が疑う理由が、客には分かりません」
小夜が手元の紙へ目を落とす。
清玄「男の気持ちは考えた。ですが、男の動きを見落とした」
小夜「もう一度、お願いいたします」
清玄が水野へ合図する。
映像が戻る。
小夜「男は、手紙を読んでおりました」
小夜は画面を注視する。
男が戸口を見る。
小夜「そして……」
男が手紙を隠す。
小夜「手紙を……」
言葉が詰まる。
小夜は、客席に座る蓮太郎を見てしまう。
清玄「今、見るのは専務のお顔ではありません」
小夜が赤くなり、スクリーンへ向き直る。
蓮太郎が腰を浮かせかける。
清玄と目が合い、静かに座り直す。
清玄「今日は、ここまでにしましょう」
小夜「ですが、まだ一度も――」
清玄「一度でできるなら、私の仕事がありません」
小夜が口を閉じる。
清玄は小夜の紙へ目を向ける。
清玄「気持ちを考えることは、やめなくていい」
小夜が顔を上げる。
清玄「映画を見る余裕を、そこへ加えるんです」
小夜は鉛筆を持ち直し、その言葉を書き留める。
〇 銀鈴館・廊下(夕方)
小夜が足早に出口へ向かう。
背後から、蓮太郎が追いつく。
蓮太郎「篠宮君」
小夜が立ち止まる。
小夜「お誘いくださったのに、あのような語りをお聞かせしてしまって……」
蓮太郎「俺は、完成した弁士を連れてきたつもりはない」
小夜「それでも、がっかりなさったでしょう」
蓮太郎「君が一度つまずくたびに驚いていたら、育てる話などできない」
小夜が彼を見る。
蓮太郎「続けたいと思ったか」
小夜「……はい」
蓮太郎「なぜ」
小夜「悔しかったです」
蓮太郎「誰に?」
小夜「自分に。人の気持ちを伝えたいと思っていたのに、画面の人を、ちゃんと見ていませんでした」
蓮太郎がうなずく。
蓮太郎「なら、今日来た意味はあった」
小夜は鞄へ紙をしまおうとする。
短い鉛筆が、床へ落ちる。
二人が同時にかがむ。
指が触れ、小夜が手を引く。
蓮太郎が鉛筆を拾う。
小夜「まだ使えます」
蓮太郎「分かっている。取り上げるつもりはない」
小夜が、自分の言い方に気づく。
小夜「……失礼いたしました」
蓮太郎「大事な物なんだな」
小夜「書くたびに短くなるので、少し困りますけれど」
蓮太郎「働き者の鉛筆だ」
小夜が笑う。
蓮太郎は鉛筆を返し、続いて契約案を渡す。
蓮太郎「読んで、分からないところには印をつけてくれ」
小夜「たくさんつけたら、困りませんか」
蓮太郎「分からないまま署名されるほうが困る」
小夜が契約案を受け取る。
蓮太郎「女将にも見てもらうといい」
小夜「はい」
小夜が出口へ向かう。
扉の前で振り返る。
小夜「九条様」
蓮太郎「何だ」
小夜「私が清玄様に止められたとき、何かおっしゃろうとなさいましたか」
蓮太郎は一拍置く。
蓮太郎「口を出しそうになった」
小夜「どうして、おやめに?」
蓮太郎「語りを教えられるのは、俺ではないからだ」
小夜が静かにうなずく。
蓮太郎「ただ、仕事の条件で困ることがあれば、俺に言ってほしい」
小夜「……覚えておきます」
小夜が頭を下げ、外へ出る。
〇 花月堂・厨房脇(翌朝)
小夜が、契約案をふみに見せている。
ふみは眼鏡をかけ、文章を指で追う。
ふみ「ずいぶん、書き込みがあるね」
小夜「分からないところに、印をつけるようにと」
ふみ「素直に全部つけたんだ」
小夜が少し恥ずかしそうにうなずく。
ふみ「稽古は、どうだった?」
小夜「……できませんでした」
ふみが顔を上げる。
小夜「お話の気持ちを説明しているうちに、映画が先へ行ってしまって。二度目は、何を言えばよいのか分からなくなりました」
ふみ「それで、やめたいのかい」
小夜が首を振る。
小夜「どうしたらできるようになるのか、知りたくなりました」
ふみが微笑む。
小夜「でも、練習に通えば、こちらのお仕事が――」
ふみ「何曜日に、何時間?」
小夜が契約案を指す。
二人で、店の予定を書いた帳面を開く。
ふみ「この日は混むね。翌日なら、早めに上がれる」
小夜「では、こちらの曜日を相談してみます」
ふみ「そうしな。どちらにもいい顔をして、倒れちゃいけないよ」
小夜「はい」
ふみが小夜の稽古の紙を手に取る。
「映画を見る余裕を加える」の文字。
ふみ「よい先生のようだね」
小夜「……怖い方です」
ふみ「怖いだけの人かい?」
小夜は考える。
小夜「いいえ。何ができなかったのか、ちゃんと教えてくださいました」
ふみ「なら、頼って覚えておいで」
小夜がうなずく。
〇 銀鈴館・事務室(数日後・昼)
机を挟み、小夜と蓮太郎が向かい合っている。
大迫が横で契約書を確認する。
小夜「こちらの曜日なら、午後から通えます。この日は、店の仕事が終わってからになります」
蓮太郎が予定表へ書き込む。
蓮太郎「清玄の時間も確認して、この形にしよう」
大迫「来られなくなった場合は、必ず先に知らせてください」
小夜「はい」
大迫「来られないことより、知らせがないことが困ります。映写にも、人の手が要りますので」
小夜「必ず、ご連絡いたします」
大迫がうなずく。
小夜は契約書の報酬欄を見つめる。
小夜「まだ、お客様の前で語れない間も、いただいてよいのでしょうか」
蓮太郎「こちらが時間を使ってもらう。君にも生活がある」
小夜「その分も、必ず仕事でお返しします」
蓮太郎「返すのではなく、働いた分を受け取ればいい」
小夜が戸惑う。
蓮太郎「契約は、君だけが約束を守るものじゃない。俺にも、守る約束がある」
小夜は、契約書を最初から見直す。
指導、時間、報酬についての文章。
大迫が筆記具を差し出す。
小夜は受け取り、署名欄の前で手を止める。
小夜「九条様」
蓮太郎が顔を上げる。
小夜「期待してくださったから、だけではありません」
蓮太郎は続きを待つ。
小夜「私も、あの場所で語ってみたいと思いました」
蓮太郎の表情が和らぐ。
蓮太郎「その返事を、聞きたかった」
小夜が、自分の名前を書く。
大迫が署名を確認する。
大迫「では、これからは仕事です」
小夜が立ち上がる。
小夜「よろしくお願いいたします」
深く頭を下げる。
大迫は契約書を整えながら、小夜を見る。
大迫「無理なことまで、できると言わないように」
小夜が顔を上げる。
大迫「約束を守るには、できないことを知らせるのも必要です」
小夜「……はい」
〇 銀鈴館・舞台脇(夕方)
清玄が、小夜へ台本を渡す。
清玄「まずは、この短い作品から始めましょう」
小夜が台本を開く。
小夜「いつまでに、覚えればよろしいでしょうか」
清玄「急いで覚えることと、使えるようになることは違います」
小夜がうなずく。
清玄「画面を見ながら、言葉を確かめる。客の前へ出すかは、そのあとで決めます」
小夜「はい」
清玄が去る。
水野が機材を片づけながら声をかける。
水野「映像を見たいときは、先に言ってください。準備がありますので」
小夜「ありがとうございます。まず、一人で覚えてまいります」
水野「言葉だけ覚えても、映像とは合いませんよ」
小夜「……はい。ですが、次はお待たせしないようにしたくて」
水野が小夜を見る。
水野「待つのも、準備のうちです」
小夜が少し驚く。
水野「黙って困られるほうが、こちらも困りますから」
小夜「分かりました。お願いいたします」
〇 銀鈴館・客席(夕方・少し後)
小夜が客席に座り、台本を開いている。
余白へ書く。
「映画を見る」
その下へ、もう一つ。
「失望させない」
入口に、帰り支度をした蓮太郎が現れる。
蓮太郎「篠宮君。今日は、ここまでだ」
小夜が顔を上げる。
小夜「はい。すぐに帰ります」
蓮太郎「明日もある」
小夜「……はい」
蓮太郎が出ていく。
小夜は台本を閉じ、鞄へ入れかける。
手が止まる。
もう一度、最初のページを開く。
小夜「あと、一度だけ」
小さな声で、台詞を読み始める。
〇 銀鈴館・事務室(夕方・同時刻)
大迫が帳簿を閉じる。
清玄が、戸口に立っている。
清玄「小さい灯りを、一つ借りられますか」
大迫「稽古は終わったのでは」
清玄「終わりました。ですが、あの娘は、まだ台本を開いています」
大迫が壁の時計を見る。
大迫「専務は、ご存じですか」
清玄「まだです」
大迫は棚から灯りを取り出す。
大迫「長く残らせないでください。初日から寝不足では、明日の仕事になりません」
清玄が受け取る。
清玄「ええ」
〇 銀鈴館・客席(夕方・続き)
清玄が小夜のそばへ来る。
小夜は慌てて立つ。
小夜「申し訳ありません。すぐに――」
清玄「この段落までにしましょう」
清玄が灯りを置く。
小夜の台本が明るくなる。
小夜「先生が、持ってきてくださったのですか」
清玄「大迫さんからです」
小夜が事務室の方を見る。
清玄「それから、その書き込み」
小夜が台本へ目を落とす。
清玄が「失望させない」の文字を指す。
清玄「誰を?」
小夜は答えられない。
清玄「今は、次の稽古で何を直すかを書いてください」
小夜が鉛筆を持つ。
少し考え、「失望させない」の横へ小さく書く。
「手紙を隠すところを見る」
清玄がうなずく。
清玄「今日は、それを覚えて帰りましょう」
小夜「はい」
台本を閉じる。
その手は、まだ本を強く握っている。



