鈴蘭の声が、春を呼ぶ。 【シナリオ】



〇 借りた集会室・入口(朝)

小夜が、戸の前で足を止める。

中から、椅子を動かす音。

鞄の持ち手を握り直し、戸を開ける。

蓮太郎が振り返る。

二人の目が合う。

小夜「おはようございます」

蓮太郎「おはよう」

蓮太郎が近づきかける。

小夜は、その場で待つ。

清玄の声「小夜さん。こちらへ」

小夜が部屋の奥を見る。

蓮太郎は足を止める。

小夜「先に、稽古を」

蓮太郎「うん」

小夜が清玄の方へ歩いていく。

蓮太郎は、持っていた椅子を下ろす。

背もたれを握っていた手を、ゆっくり離す。

〇 集会室・語りの場所(午前)

清玄が台本を開く。

水野が映写の準備をする。

小夜は、手紙を差し出す場面を確かめる。

清玄「今日は、娘が何を望んでいるか、見てみましょう」

小夜がうなずく。

映像。

娘が、手紙を持って青年の前に立つ。

小夜〈娘の声〉「渡せなかったものが、あります」

青年が手を伸ばす。

小夜は、その手を見る。

小夜〈娘の声〉「今度こそ、読んでいただきたくて」

清玄は止めない。

青年が封を開ける。

娘は目を伏せる。

小夜が息を吸う。

言葉を足そうとして、やめる。

青年が顔を上げる。

小夜〈青年の声〉「返事は、今、言ってもいいだろうか」

娘が青年を見る。

小夜〈娘の声〉「……はい」

清玄「そこまで」

映像が止まる。

小夜が顔を上げる。

清玄「昨日と、違いましたね」

小夜「責めるより、読んでほしかったのだと思いました」

清玄がうなずく。

清玄「返事は、望んだものとは限りません」

小夜は台本を見る。

清玄「それでも、娘は顔を上げました」

小夜が鉛筆を取る。

余白へ書く。

「返事を聞く前に、顔を上げる」

部屋の後ろで、蓮太郎が大迫と話している。

小夜は一度そちらを見て、台本へ戻る。

〇 集会室・小部屋(昼)

卓に、仮上映会の計画。

大迫、水野、清玄、ふみ、小夜、蓮太郎。

蓮太郎が、費用の紙を中央へ置く。

蓮太郎「最初に必要な支払いの一部は、私が立て替えます。会社への貸し付けとして、記録を残しました」

小夜は黙って聞いている。

蓮太郎「私の報酬も、当面は減らします。ただ、それで上映を続けられると決まったわけではありません」

水野が紙を引き寄せる。

蓮太郎「上映日を増やすか、絞るか。まだ、決められずにいます」

大迫「準備と片づけを含めた人数を、こちらへ出しました」

ふみが見る。

ふみ「この日は、前の晩にも準備が要るんだね」

水野「機材を借りられる時間によります」

清玄「作品を変えれば、語りの稽古も必要です」

小夜が予定の欄へ指を置く。

小夜「この二つの作品を同じ週に変えるなら、私には、まだ時間が足りません」

蓮太郎が小夜を見る。

小夜「同じ番組を続ける日があれば、語る場所にも慣れられると思います」

大迫が書き留める。

蓮太郎「では、最初から番組を増やさず、同じ作品で確かめる」

水野「映写の確認も、そのほうができます」

ふみ「お客さんには、次の番組がいつ変わるか、分かるようにしておこう」

皆が同じ紙を見る。

小夜の指が、予定の欄から離れる。

蓮太郎は、その小さな動きを見ている。

〇 集会室・廊下(昼)

話し合いを終え、皆が作業へ戻る。

小夜が戸口を出る。

蓮太郎「小夜さん」

小夜が振り返る。

蓮太郎「昨日は、すまなかった」

小夜は鞄を胸の前に持つ。

蓮太郎「君が心配すると思った。それは、今も思う」

小夜の目が動く。

蓮太郎「だが、心配してほしくないのは、君のためだけではなかった」

小夜が彼を見る。

蓮太郎「頼りないと思われるのが、怖かった」

沈黙。

廊下の向こうで、ふみが布を広げる音。

蓮太郎「帰ってきたとき、君があんなに喜んでくれた。今度は、安心させたかった」

小夜の指が、鞄の持ち手から離れる。

蓮太郎「どうすればよいか分からないと、言えなかった」

小夜が一歩近づく。

小夜「昨日、そう伺いたかったです」

蓮太郎がうなずく。

小夜「私も、気にしないとは申し上げられません。無理をしていらっしゃると知れば、きっと、何か言います」

蓮太郎「うん」

小夜「でも、言う前に、聞いてください」

蓮太郎は、まっすぐ小夜を見る。

蓮太郎「聞く」

小夜が息を吐く。

蓮太郎「今、困っていることを、話してもいい?」

小夜がうなずく。

蓮太郎「初日の客が少なかったら、すぐ次を増やしたくなると思う。取り返したいと、焦る」

小夜は黙って聞く。

蓮太郎「そのとき、自分で決めてから皆に知らせそうで……それも、怖い」

小夜は少し考える。

小夜「では、初日のあとに、皆様で話す時間を、今、決めませんか」

蓮太郎が顔を上げる。

小夜「客が多くても、少なくても」

蓮太郎の口元が、わずかに緩む。

蓮太郎「そうしよう」

小夜もうなずく。

短い沈黙。

蓮太郎「今日は、送ってもいい?」

小夜は、ようやく少し笑う。

小夜「はい」

〇 集会室・入口(朝・仮上映会当日)

入口に掲示。

「九条映画 仮上映会」

大迫が入場券を確かめている。

ふみは、小さな売り台へ菓子を並べる。

水野が映写機を点検する。

少女と母親が入ってくる。

少女が小夜を見つけ、手を振る。

舞台脇の小夜も、小さく振り返す。

続いて、征二郎。

大迫へ代金を渡す。

征二郎「今日は、新しい番組ですね」

大迫「はい。お待たせしました」

征二郎が客席へ向かう。

小夜と目が合う。

互いに、静かに会釈する。

入口に宗一郎。

その後ろに、招待上映会で小夜へ声をかけた客の男。

大迫が男へ会釈する。

大迫「いつも、配給のお取引でお世話になっております」

客の男「今日は客として来ました。専務が、再建より先に新しい上映へ金を入れたと聞きましてね」

宗一郎「使える場所で、仕事を再開する計画です」

客の男「その判断を、拝見しようと思っています」

二人が客席へ向かう。

小夜が男に気づく。

台本の端を握る。

清玄が隣へ来る。

清玄「最初は、私が。その次をお願いします」

小夜「はい」

小夜は、客席から台本へ目を戻す。

今は、自分の出番を待つ。

〇 集会室・舞台脇(午前)

映写機の音。

清玄の語りが、最後の場面へ入る。

清玄〈老人の声〉「遅くなっても、顔を見せてくれれば、それでよいのだよ」

幕の中で、青年が頭を下げる。

清玄は、その動きを待つ。

画面が暗くなる。

拍手。

清玄が戻ってくる。

小夜は台本を持って立っている。

指先が冷たい。

清玄「最初の一言だけ、確かめましょうか」

小夜が客席を見る。

少女。

征二郎。

宗一郎。

その近くに、あの男。

小夜「お客様へ、話してみます」

清玄がうなずく。

小夜が進み出る。

椅子が、かすかに軋む。

小夜「続いてご覧いただくのは、小さな町で再会する、二人のお話です」

声が部屋の奥へ届く。

後方に立つ蓮太郎が、顔を上げる。

〇 集会室・客席(午前・続き)

幕の中で、娘が駅へ続く道を歩いている。

小夜「娘は、迎えに行くには早すぎると、何度も時計を見ました」

娘が立ち止まり、引き返しかける。

小夜〈娘の声〉「まだ、来ていないかもしれないわ」

少女が小さく笑う。

青年が現れる。

小夜は説明を足さない。

娘が気づき、歩き出す。

小夜〈娘の声〉「お帰りなさい」

青年が帽子を取る。

小夜〈青年の声〉「ただいま」

小夜の声が、部屋に落ち着いていく。

〇 集会室・語りの場所(少し後)

娘が、青年へ手紙を差し出す。

小夜〈娘の声〉「渡せなかったものが、あります」

映写機の音が乱れる。

画面が跳ねる。

白い光だけが幕に残る。

小夜の言葉が止まる。

客席がざわめく。

台本を握る指。

白い幕。

止まった音。

小夜は卓へ手をつきかける。

水野「少し、お待ちください」

その声で、小夜が顔を上げる。

水野は映写機のそばにいる。

清玄もいる。

客席には、少女。

小夜が、ゆっくり息を吐く。

小夜「上映を、少し止めさせていただきます」

ざわめきが収まる。

小夜「お話は、娘が手紙を差し出したところまで、進んでいました」

少女「まだ、読んでない?」

小夜が少女を見る。

小夜「はい。青年は、まだ読んでいません」

小さな笑い。

小夜「大切なところですから、映像が戻ってから、一緒に確かめていただければと思います」

大迫が扉のそばへ立つ。

ふみが、水の必要な客へ声をかける。

蓮太郎が映写機へ近づきかける。

水野「こちらは、私が」

蓮太郎が止まる。

水野「客席を、お願いします」

蓮太郎はうなずき、入口へ戻る。

小夜は台本を開いたまま、待つ。

〇 集会室・映写の場所(続き)

水野が調整を終える。

水野「篠宮さん。少し前から、映せます」

小夜「お願いいたします」

映写機が回り始める。

娘が、手紙を持って立っている。

小夜が映像を確かめる。

小夜「娘は、書き直した手紙を、今度こそ渡そうと決めました」

青年が手を伸ばす。

小夜は、その手を待つ。

〇 集会室・客席(午前・続き)

青年が手紙を読む。

娘は目を伏せる。

小夜は、その時間を埋めない。

青年が顔を上げる。

小夜〈青年の声〉「返事は、今、言ってもいいだろうか」

娘が青年を見る。

小夜〈娘の声〉「……はい」

青年が娘の手を取る。

小夜〈青年の声〉「今度は、会いに来るだけではない。ここで、君と暮らしたい」

娘が泣きながら笑う。

小夜の声も、ほんの少し揺れる。

だが、言葉の終わりは消えない。

最後の画面。

二人が町の道を、並んで歩いていく。

上映が終わる。

小夜が頭を下げる。

拍手。

少女が両手を打ち合わせる。

征二郎も拍手する。

宗一郎が、幕から小夜へ目を移す。

ゆっくり、手を動かす。

小夜が顔を上げる。

後方で、蓮太郎が拍手している。

小夜は、その顔を見て息を吐く。

〇 集会室・入口付近(昼)

客が帰り始めている。

小夜が大迫と並び、礼を述べる。

少女と母親が来る。

少女「止まっちゃったね」

母親「こら」

小夜がしゃがむ。

小夜「はい。少し、止まりました」

少女「でも、続き、見られた」

小夜は一瞬、黙る。

それから微笑む。

小夜「見られましたね」

少女が母親の手を取り、外へ出る。

小夜が立ち上がる。

そこへ、客の男。

客の男「専務は、どちらに?」

大迫「片づけの確認をしております」

男は部屋を見渡す。

客の男「ずいぶん費用をお出しになったそうですね」

小夜の手が止まる。

客の男「あなたのために、ここまで始められるとは」

大迫「会社の計画として――」

客の男「いや、ご立派だと言っているのですよ」

男が小夜へ笑いかける。

客の男「大切にされていらっしゃる」

小夜は台本を胸元へ寄せる。

少し離れたところで、蓮太郎が気づく。

一歩進む。

小夜「費用については、会社の担当者からご説明いたします」

蓮太郎の足が止まる。

客の男「あなたは、ご存じない?」

小夜「知っていることもあります。でも、私が勝手にお答えすることではありません」

男の笑みが薄くなる。

小夜「私の出演をお尋ねでしたら、先生と現場の方が、稽古を見て決めてくださいました」

客の男「専務のお気持ちとは、無関係だと?」

小夜が息を詰める。

台本の端を握る。

小夜「私の語りに、よくないところがありましたか」

男が黙る。

小夜「ございましたら、伺います」

客の男「機械も途中で止まった。まだ、十分な仕事とは――」

小夜「はい。上映は止まりました。皆様をお待たせしたことは、申し訳なく思っています」

小夜は、水野の方を一度見る。

水野もこちらを見ている。

小夜「直してくださった方がいて、続きを映せました。私も、続きを語りました」

男へ目を戻す。

小夜「不十分なところは、直します。ですが……」

声が止まる。

台本を持つ手が震える。

小夜は一度、口を閉じる。

客の男「ですが?」

蓮太郎が、もう一歩進みかける。

大迫が、その動きに気づく。

蓮太郎は小夜を見る。

小夜は顔を下げていない。

蓮太郎「……まだ、話している」

足を止める。

小夜が息を吸う。

小夜「私が……私たちが、ここで働いたことまで、なかったことにはしないでください」

静まる。

水野の手が、機材の上で止まる。

ふみが売り台から顔を上げる。

小夜は男を見る。

男が、近くに来た宗一郎へ向き直る。

客の男「会長も、ご心配ではありませんか。専務が、公私を混ぜていらっしゃると――」

宗一郎は小夜を見る。

胸に抱えた台本。

書き込みの増えた頁。

宗一郎「出演の判断を疑うなら、判断した者にも尋ねてください」

客の男「私は、ただ」

宗一郎「私も、今日の語りを聞きました」

宗一郎が男へ向き直る。

宗一郎「話すなら、今日見た仕事について話しましょう」

男は返事をしない。

大迫が一歩前へ出る。

大迫「上映の不具合と費用については、私が承ります。こちらへ」

男を入口の脇へ案内する。

宗一郎は、その場に残る。

小夜が頭を下げる。

小夜「ありがとうございます」

宗一郎は、小夜の台本へ目を向ける。

宗一郎「……最後の手紙を読む間は、よかった」

小夜が顔を上げる。

宗一郎「黙っていても、何を待っているか、分かった」

小夜の目が潤む。

小夜「先生と、稽古したところです」

宗一郎がうなずく。

宗一郎「そうですか」

宗一郎が清玄の方へ歩いていく。

蓮太郎が、小夜のそばへ来る。

小夜は、ようやく息を吐く。

小夜「……手が、震えています」

蓮太郎が、その手を見る。

触れようとして、止める。

小夜が自分から、彼の袖をつまむ。

蓮太郎は、その手をそっと包む。

〇 集会室・客席(昼)

客が去った部屋。

小夜が椅子へ座っている。

蓮太郎は、少し離れて立つ。

小夜「待っていてくださったのですね」

蓮太郎「うん」

小夜「気づいていました。近づいていらしたこと」

蓮太郎は目を伏せる。

蓮太郎「また、先に言いそうになった」

小夜が顔を上げる。

蓮太郎「だが、君が話し始めたから」

小夜は台本を膝へ置く。

小夜「うまく言えたか、分かりません」

蓮太郎「聞こえたよ」

小夜が彼を見る。

蓮太郎「君が、何をしてきたか」

小夜の目元が、少し緩む。

水野が近づく。

水野「途中で止めてしまって、申し訳ありませんでした」

小夜は水野へ向き直る。

小夜「戻る場所を教えてくださって、ありがとうございました」

水野が顔を上げる。

小夜「待てました」

清玄も来る。

清玄「再開したあと、娘の顔を見ていましたね」

小夜がうなずく。

清玄「今日できたことを、次の稽古へ持ってきてください」

小夜は台本を開く。

余白の文字。

「返事を聞く前に、顔を上げる」

そこへ、小さな丸をつける。

〇 集会室・窓際(昼)

征二郎が、小夜へ会釈する。

征二郎「最後の手紙の場面、よかった」

小夜「ありがとうございます」

征二郎「娘が顔を上げたところが」

小夜は台本へ目を落とす。

小夜「怖くても、聞きたかったのだと思います」

征二郎がうなずく。

短い間。

征二郎「さっきの返事も、聞こえた」

小夜が顔を上げる。

征二郎「僕は、君が困らないようにすることばかり考えていたな」

小夜は黙って聞く。

征二郎「困っても、君には答える言葉があった」

小夜「今日は、少しだけです」

征二郎の口元が緩む。

征二郎「では、次も聞きに来る」

小夜が微笑む。

小夜「お待ちしています」

征二郎が帽子を取り、頭を下げる。

小夜も会釈する。

今度は、彼の背を笑顔で見送る。

〇 集会室・小部屋(午後)

卓に、今日の入場数と収入。

宗一郎、蓮太郎、大迫、水野、清玄、ふみ、小夜。

大迫「予定より少ないですが、初日の数字です」

蓮太郎が紙を見る。

口を開きかける。

小夜の鉛筆が、卓の上で動く。

蓮太郎は顔を上げる。

蓮太郎「次を増やしたいと思いました」

皆が見る。

蓮太郎「だが、今日は、決めずに聞きたい。今の番組を続ける場合、何が必要でしょう」

水野「まず、機材の確認です。借りた先にも、今日の不具合を伝えます」

清玄「語りは、今日の記録を使って、もう一度稽古できます」

ふみ「来た方には、次の日も伝えたよ。時間を変えてほしいという声もあった」

大迫が書き留める。

小夜は台本を開く。

握って曲がった頁の端を、指で伸ばす。

客席の配置を書いた紙を、隣へ置く。

小夜「今日、後ろの席で聞こえにくいところがなかったかも、確かめたいです」

大迫「出口で伺ったことを、あとでお渡しします」

小夜がうなずき、配置図へ印をつける。

宗一郎は、皆のやりとりを見ている。

やがて、収支の紙を卓へ戻す。

宗一郎「始めた責任だけでなく、続ける責任を考えなさい」

蓮太郎「はい」

宗一郎「今日の結果を入れて、次の計画を出すことだ」

蓮太郎がうなずく。

宗一郎は、小夜にも目を向ける。

小夜は清玄へ台本を見せ、次の稽古を確かめている。

宗一郎は、そのやりとりを最後まで見る。

〇 集会室の外(夕方)

片づけを終えた人々が帰っていく。

清玄が蓮太郎へ鍵を渡す。

清玄「最後を、お願いします」

蓮太郎「はい」

清玄は小夜を見る。

清玄「今夜は、声を休めて」

小夜「承知しました」

清玄が歩いていく。

小夜と蓮太郎が残る。

蓮太郎が戸締まりを確かめる。

小夜は入口の掲示を見上げる。

風に、紙の角が揺れる。

蓮太郎「疲れた?」

小夜「はい」

少し考える。

小夜「嬉しいのに、疲れました」

蓮太郎が笑う。

蓮太郎「働いたからだ」

小夜もうなずく。

二人が歩き始める。

〇 川沿いの道・腰掛け(夕方)

小夜が歩みを緩める。

蓮太郎「どうした?」

小夜「少し、座ってもよろしいですか」

二人が腰を下ろす。

小夜は鞄を膝へ置く。

しばらく、何も話さない。

川面を、夕方の光が流れる。

小夜「今になって、お腹がすきました」

蓮太郎が小夜を見る。

小夜「朝は、何も入らなくて」

蓮太郎は鞄から、小さな包みを取り出す。

ふみの売り台で買った菓子。

蓮太郎「帰ってから食べようと思っていた」

小夜が一つ受け取る。

一口、食べる。

肩が、少し落ちる。

小夜「……おいしい」

蓮太郎も食べる。

小夜「さっきは、足まで震えていました」

蓮太郎「立っていられるか、気になった」

小夜が彼を見る。

蓮太郎「だが、話していたから」

小夜は菓子の包みへ目を落とす。

小夜「待っていてくださって、嬉しかったです」

蓮太郎は、すぐには答えない。

残った菓子を、小夜の方へ寄せる。

小夜は半分に割り、片方を蓮太郎へ渡す。

二人で食べる。

遠くを、舟が通っていく。

小夜の呼吸が、ゆっくりになる。

やがて、鞄を持って立ち上がる。

小夜「もう、大丈夫です。帰りましょう」

蓮太郎も立つ。

手を差し出す。

小夜が取る。

〇 銀座・通り(夕方)

飾り窓に灯りがともる。

並べられた帽子。

細い留め金のついた鞄。

硝子に、小夜と蓮太郎の姿が映る。

小夜が、ふと足を緩める。

蓮太郎も止まる。

小夜は映った二人を見る。

つながれた手。

小夜が少し笑う。

蓮太郎「何?」

小夜「いえ」

二人がまた歩き出す。

蓮太郎「今日の語り、よかった」

小夜「もう、伺いました」

蓮太郎「客席で聞いたことは、まだ言っていない」

小夜が彼を見る。

蓮太郎「娘が手紙を渡してから、返事を待つ間。早く何か言ってくれと、思った」

小夜の頬が、少し赤くなる。

蓮太郎「待っている娘より、俺の方が落ち着かなかった」

小夜が笑う。

小夜「ちゃんと、待っていただけましたか」

蓮太郎「待った」

小夜が、つないだ手を握り直す。

〇 川沿いの道・橋のたもと(夕方)

川面に、薄い夕焼け。

二人が立ち止まる。

以前、告白した場所。

蓮太郎が小夜へ向き直る。

蓮太郎「小夜さん。今日は、もう一つ、返事を聞きたい」

小夜の表情が変わる。

蓮太郎は、つないだ手を両手で包む。

蓮太郎「まだ、館を建て直せる見通しは立っていない。会社のことも、家のことも、分からないことが多い」

小夜は黙って聞く。

蓮太郎「全部整えてから申し込もうと思えば、俺はまた、君に何も言わずに決めると思う」

小夜の指が、わずかに動く。

蓮太郎「あなたと、結婚したい」

小夜の目に、涙がたまる。

蓮太郎「俺と、一緒に暮らしてくれませんか」

小夜は顔を伏せかける。

止まる。

蓮太郎を見る。

小夜「……私も、一緒に暮らしたいです」

蓮太郎の呼吸が止まる。

小夜「でも、話しておきたいことがあります」

蓮太郎がうなずく。

小夜「結婚しても、語る仕事を続けたいです。家の返済も、叔母と相談しなくてはなりません」

蓮太郎「うん」

小夜「それから、今日のように、困っていることを話してください」

蓮太郎は目を伏せる。

小夜「すぐにお役に立てなくても、聞きたいです」

蓮太郎が顔を上げる。

蓮太郎「約束する」

小夜は彼を見つめる。

蓮太郎「また隠そうとしたら、止めてほしい」

小夜が、涙のまま少し笑う。

小夜「昨日のように?」

蓮太郎「昨日のように」

小夜「怒るかもしれません」

蓮太郎「うん」

小夜は、包まれた手を持ち上げる。

自分から、彼の胸元へ一歩近づく。

小夜「よろしくお願いいたします」

蓮太郎は小夜の手を離し、その背へ腕を回す。

小夜も彼を抱く。

蓮太郎「……よかった」

声がかすれる。

小夜が顔を上げる。

蓮太郎「返事を待つのは、こんなに怖いんだな」

小夜の目元が柔らかくなる。

小夜「私も、怖かったです」

蓮太郎が彼女の頬へ触れる。

小夜は目を閉じる。

唇が重なる。

今度は、触れてすぐには離れない。

やがて小夜が、彼の上着をつかんで顔を伏せる。

蓮太郎は、その髪へ頬を寄せる。

川面に、夕暮れの光。

二人は、その場にもう少し留まる。

〇 篠宮家・玄関(夜)

小夜が帰ってくる。

タカが奥から出る。

タカ「遅かったのね」

小夜は鞄を置く。

小夜「叔母様。お話ししたいことがあります」

タカが、その顔を見る。

小夜は目をそらさない。

タカ「……お上がりなさい」

小夜がうなずく。

二人が座敷へ入る。

玄関に置かれた鞄。

開いた口から、書き込みの増えた台本が見える。

〇 九条家・書斎(夜)

宗一郎が、仮上映会の記録を読んでいる。

語り手の欄。

「篠宮小夜」

指が、その名前で止まる。

小夜の声(回想)「私が……私たちが、ここで働いたことまで、なかったことにはしないでください」

宗一郎が、次の頁を開く。

戸をたたく音。

蓮太郎が入る。

蓮太郎「父上。小夜さんに、結婚を申し込みました」

宗一郎の手が止まる。

蓮太郎「受けてくれました」

宗一郎は、息子を見る。

長い間。

卓の上の記録を閉じる。

だが、引き出しには収めない。

宗一郎「……暮らしの話をしよう」

蓮太郎がうなずく。

父の向かいの椅子へ、手をかける。