〇 銀座・喫茶店「花月堂」前(朝)
大正十年、春。
通りを行き交う人々。遠くで電車のベルが響く。
喫茶店【花月堂】の入口では篠宮小夜(22)が黒板に本日の献立を書いている。白い前掛けの端には、丁寧な繕いの跡。
“珈琲”“紅茶”と書いたところで、小さな手が前掛けを引く。少年・正吉が、折れた紙の風車を差し出している。
正吉「小夜姉ちゃん、これ、直る?」
小夜はしゃがみ、風車を受け取る。
小夜「ずいぶん勇ましく回ったのね」
正吉「走ったら、塀にぶつかった」
小夜「風車が?」
正吉「俺が」
小夜が笑う。正吉も、つられて笑う。
店の中から、女将の花月ふみ(55)が顔を出す。
ふみ「小夜ちゃん。開店前に、裏の棚もお願いね」
小夜「はい、すぐに」
小夜は曲がった軸を整え、正吉へ返す。
小夜「今度は、前を見て走ること」
正吉が息を吹きかける。風車が、かすかに回る。
正吉「動いた!」
小夜「帰りに、もう一度見せて。もっとよく回るように考えておくわ」
正吉「じゃあ、お話もしてくれる?」
小夜「お店が忙しくなければね」
正吉が駆け出す。
小夜「前を見るのよ!」
正吉が振り向かずに手を振る。
小夜はその背を見送り、黒板へ向き直る。
〇 花月堂・厨房脇(朝)
棚を拭き終えた小夜が、前掛けのポケットから小銭を取り出す。
小さな封筒へ、一枚ずつ入れていく。
封筒には【返済】の文字。
ふみが盆を持って通りかかり、手を止める。
ふみ「昨日の賃金、もう入れたのかい」
小夜「少しでも早く返したくて」
ふみ「昼に食べる分は残した?」
小夜の手が止まる。
ふみ「その顔は、残してないね」
小夜「朝、いただきましたから」
ふみ「朝は朝。昼は昼だよ」
ふみは厨房からパンを一つ持ってきて、小夜の手へ置く。
小夜「でも、売り物でしょう」
ふみ「形が悪くて出せない分」
小夜が見る。形の整ったパン。
ふみは、その視線を避けるように盆を抱え直す。
ふみ「食べたら、お客様のところへ。今日は忙しくなるよ」
小夜「……ありがとうございます」
ふみが去る。
小夜はパンをちぎって口へ運ぶ。
封筒をしまい、残りのパンも食べ始める。
〇 花月堂・店内(昼)
客でにぎわう店内。
小夜が、卓の間を縫うように紅茶を運んでいる。
窓際では、母親と幼い少女が向かい合っている。
少女は唇をとがらせ、椅子から足を揺らしている。
母親「もう少し待ちなさい。先方がいらしたら、ご挨拶をして帰るから」
少女「つまらない」
小夜が紅茶を置く。
床に落ちたハンカチに気づき、拾い上げる。
端には、小さな鈴蘭の刺繍。
小夜「こちら、あなたの?」
少女がうなずく。
少女「お祖母様がくれたの。でも、お花が小さすぎる」
小夜「小さくても、立派な鈴なのよ」
少女「鳴らないじゃない」
小夜はハンカチを広げ、白い花を見つめる。
小夜「お花の鈴は、耳では聞こえないのかもしれませんね」
少女「じゃあ、どこで聞くの?」
小夜「……物語の中で」
少女が顔を上げる。
少女「どんな物語?」
小夜は厨房を見る。
ふみが、空いた卓を片づけながらうなずく。
小夜「それでは、少しだけ」
〇 花月堂・店内(午後)
昼の混雑が引いている。
小夜は少女の向かいに座り、卓へ鈴蘭のハンカチを広げる。
母親は隣で、静かに紅茶を飲んでいる。
小夜「小さな鈴を持ったお姫様がおりました。けれど、その鈴は一度も鳴ったことがありません」
小夜が背を伸ばす。声音が変わる。
小夜〈姫の声〉「こんな鈴、何の役にも立たないわ」
少女が、くすりと笑う。
小夜は肩を縮め、年老いた庭師になる。
小夜〈庭師の声〉「役に立たないと決めるのは、まだ早うございます」
店の入口から、正吉が顔をのぞかせる。
小夜が気づき、目で招く。
正吉は少女の隣まで来て、椅子の背へ手をかける。
正吉「どうしたら鳴るの?」
小夜は正吉を見て、一拍置く。
小夜「それを知っていたのは、門の外にいる少年だけでした」
正吉の目が輝く。
小夜〈少年の声〉「その鈴を、自分のためじゃなく、誰かのために鳴らしてみなよ」
店の扉が開く。
九条蓮太郎(27)が、部下とともに入ってくる。
部下が書類を取り出す。
部下「銀鈴館の支配人が、出演者を増やせば客は戻ると申しております」
蓮太郎「増やす根拠は」
部下「名前の知られた者ならば、と」
蓮太郎「名前だけで客が戻るなら、看板に並べれば済む」
部下が口を閉じる。
小夜の声が、二人の耳へ届く。
小夜「その夜、お姫様は、泣いている少年を見つけました」
蓮太郎が歩みを止める。
少女も正吉も、小夜から目を離さない。
小夜〈姫の声〉「どうして泣いているの?」
小夜〈少年の声〉「暗くなると、帰り道が分からないんだ」
正吉が、椅子の背を握り直す。
小夜はその手を見て、声を和らげる。
小夜「お姫様は、初めて鈴を握りました。少年が、ひとりにならないように」
静かな間。
小夜が、子どもたちへ少し身を寄せる。
小夜〈姫の声〉「ここにいるわ。だから、こちらへいらっしゃい」
少女が、ハンカチの鈴蘭を指先でなぞる。
少女「……鳴った?」
小夜「ええ。お姫様には聞こえなかったけれど、少年には、ちゃんと届きました」
正吉が安堵の息を吐く。
離れた卓にいた老婦人も、いつの間にか聞き入っている。
ふみが蓮太郎たちへ近づく。
ふみ「お席へご案内いたしましょうか」
蓮太郎は小夜を見たまま答える。
蓮太郎「……話が終わってからでいい」
小夜「少年は、その鈴の音を頼りに歩き始めました。お姫様も、隣を歩きました」
少女「お家まで?」
小夜「ええ。ちゃんと、お家まで」
正吉「それなら、怖くないな」
小夜「そうね」
小夜がハンカチを畳み、少女へ返す。
〇 花月堂・店内(午後・少し後)
母親が会計をしている。
少女は小夜へ、ハンカチを見せる。
少女「これ、もう小さすぎるって言わない」
小夜「お祖母様も、お喜びになりますね」
正吉「俺、また聞きに来る!」
ふみ「来るなら、入口で泥を落としておいで」
正吉が自分の靴を見て、慌てて外へ出る。
少女と母親も店を出る。
小夜は卓に残ったカップを盆へ載せ、布巾で卓を拭く。
蓮太郎「鈴は、最後まで鳴らさなかったんだな」
小夜が振り返る。
窓際の卓に、蓮太郎が座っている。
手元の珈琲には、まだ口をつけていない。
小夜「……聞いていらしたのですか」
蓮太郎「途中からだ。お姫様が、役に立たない鈴を捨てようとしたところから」
小夜「お騒がせいたしました。静かになさりたかったでしょうに」
蓮太郎「静かにしてほしかったら、そう言っている」
小夜は返事に困り、盆を持ち直す。
蓮太郎「最後に、鈴の音をまねると思っていた」
小夜「私も、初めはそのつもりでした」
蓮太郎「変えた理由は?」
小夜「あの子が、ハンカチを握っていたので」
蓮太郎が、少女の座っていた椅子を見る。
小夜「本当に音を鳴らしてしまったら、あのお花の鈴は鳴らないと、もう一度思わせてしまう気がして……」
蓮太郎「だから、少年にだけ聞こえたことにした」
小夜「はい。お祖母様からの贈り物を、好きになってくれたらと思いました」
蓮太郎は黙って小夜を見る。
小夜「……おかしかったでしょうか」
蓮太郎「いや。あの子は、帰るまで鈴蘭から目を離さなかった」
小夜の表情が和らぐ。
小夜「よかったです」
蓮太郎「君は、それで満足なのか」
小夜「それで、と申しますと?」
蓮太郎「自分の語りを褒められるより、あの子が喜んだことのほうが嬉しそうだ」
小夜は少し考える。
小夜「褒めていただくのも、嬉しいです。けれど、お話を聞いている間くらいは、嫌なことを忘れてもらえたらと思います」
蓮太郎「嫌なこと?」
小夜「退屈だとか、帰り道が暗いとか。子どもには、子どもの困り事がありますから」
蓮太郎「大人にも?」
小夜が蓮太郎を見る。
小夜「……ございますか」
蓮太郎「山ほど」
小夜「それでしたら、もう一つお話をいたしましょうか」
蓮太郎の眉が、わずかに上がる。
小夜は、自分の言葉に気づいて慌てる。
小夜「失礼いたしました。お忙しい方に」
蓮太郎「どんな話を選ぶ」
小夜「困り事を伺ってからでないと」
蓮太郎「経営の悪化した映画館を、立て直さなければならない」
小夜が真剣に考える。
小夜「……それは、お姫様と鈴だけでは難しそうですね」
蓮太郎が、小さく笑う。
離れた卓で書類を整理していた部下が、顔を上げる。
小夜も少し驚いて蓮太郎を見る。
蓮太郎「難しいか」
小夜「お姫様に、お客様を呼ぶ知恵があればよいのですが」
蓮太郎「では、知恵のある人間を探すしかないな」
蓮太郎が椅子をわずかに引く。
蓮太郎「少し、話をしてもいいか」
小夜は厨房のふみを見る。
ふみが近づき、小夜の盆を受け取る。
ふみ「こちらはあたしが片づけるよ」
小夜「でも――」
ふみ「お客様のお話を伺うのも、仕事だろう」
小夜がうなずき、蓮太郎の向かいへ座る。
椅子の端に腰を下ろし、両手を膝にそろえる。
蓮太郎「名を、まだ聞いていなかった」
小夜「篠宮小夜と申します」
蓮太郎「小夜」
自分の名を繰り返され、小夜の指がかすかに動く。
蓮太郎「九条蓮太郎だ」
差し出された名刺を、小夜が両手で受け取る。
小夜「九条映画の……専務様」
蓮太郎「さっきより、遠くへ座り直す必要はない」
小夜は、わずかに引いていた身体を止める。
小夜「そんなつもりでは」
蓮太郎「では、そのままで」
小夜が姿勢を戻す。
蓮太郎「語りは、誰に習った」
小夜「先生についたことはございません。父に、本を読んで聞かせていました」
蓮太郎「お父上は、厳しい聞き手だったか」
小夜「いいえ。何を読んでも褒めるので、あまり参考にはなりませんでした」
蓮太郎「それで、別の聞き手を探した?」
小夜「こちらで、子どもたちに話すようになりました。子どもは、つまらないとすぐに別のことを始めます」
蓮太郎「手厳しいな」
小夜「ええ。正吉など、退屈すると卓の下へ入ってしまいます」
蓮太郎が、正吉のいた卓の下を見る。
蓮太郎「今日は、最後まで立っていた」
小夜「今日は、お姫様だけのお話にしなくて正解でした」
蓮太郎「自分の話したいことより、相手が聞きたいことを選べるんだな」
小夜「いつも、うまくいくわけではありません」
蓮太郎「それでも、相手を見ている」
蓮太郎が、少し身を乗り出す。
小夜は思わず背筋を伸ばす。
蓮太郎「活動弁士の仕事に、興味はあるか」」
小夜の目が、名刺から蓮太郎へ戻る。
小夜「……私に、そのお仕事を?」
蓮太郎「銀鈴館という映画館を任されている。そこで語ってほしい」
小夜「ですが、私は映画に合わせて語ったことなど――」
蓮太郎「ないだろうな」
即答に、小夜が少しむっとする。
小夜「でしたら、なぜ」
蓮太郎「経験がないことと、向いていないことは別だ」
小夜が言葉を止める。
蓮太郎「君は、少年が続きを尋ねる前に、続きを聞きたくなる間を作った。少女が悲しそうな顔をすれば、声を変えた」
小夜は膝の上の手を見る。
蓮太郎「きれいな声の人間を探しているだけなら、ほかにもいる。俺が欲しいのは、客が何を感じているか、見ようとする人間だ」
小夜「買いかぶっていらっしゃいます」
蓮太郎「かもしれない」
小夜が驚いて顔を上げる。
蓮太郎「だから、試してほしいと言っている。君の人生を、ここで決めたつもりはない」
小夜「……試して、できなかったら?」
蓮太郎「できなかった理由を考える」
小夜「それでも、できなかったら?」
蓮太郎「別の仕事を選べばいい」
小夜は蓮太郎の表情を確かめる。
小夜「怒らないのですか」
蓮太郎「最初の一度でできなければ怒るなら、誰も新しい仕事を始められない」
蓮太郎が、ようやく珈琲へ手を伸ばす。
一口飲み、カップを戻す。
小夜「冷めてしまいましたね。お入れ直しいたします」
蓮太郎「いや、いい」
小夜「でも」
蓮太郎「冷めるまで聞いていたのは、俺だ」
小夜の頬に、わずかに赤みが差す。
一拍の沈黙。
小夜は名刺を卓へ置き、指で角をそろえる。
小夜「私には、家の借金がございます」
蓮太郎は表情を変えず、続きを待つ。
小夜「働いて返さなければなりません。こちらのお仕事も、急には辞められませんし……習うためにお金が必要なら、今の私には」
蓮太郎「条件は、きちんと説明する。報酬も、練習の時間も。女将にも相談して決めればいい」
小夜「……同情で、おっしゃっているのではありませんか」
蓮太郎がカップから手を離す。
蓮太郎「君の借金を知ったのは、今だ」
小夜が目を上げる。
蓮太郎「声をかけた理由は、その前に話した」
小夜は息をのみ、名刺を見つめる。
蓮太郎「君を気の毒だと思って、客の前に立たせるわけにはいかない。客は金を払って、映画を楽しみに来る」
小夜「……はい」
蓮太郎「俺は、君なら、その客を楽しませられるかもしれないと思った」
小夜の指先が、名刺からゆっくり離れる。
小夜「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
蓮太郎「何だ」
小夜「私が語ることで、本当にお客様が来てくださると思いますか」
蓮太郎はすぐには答えない。
入口へ目を向ける。
蓮太郎「さっきの少年は、また来ると言った」
小夜「……正吉は、お金を持っておりません」
蓮太郎が笑う。
今度は小夜も、小さく笑う。
蓮太郎「それは、確かに問題だな」
蓮太郎は小夜へ視線を戻す。
蓮太郎「だが、また聞きたいと思わせた。それが始まりだ」
部下が時計を確かめ、近づいてくる。
部下「専務。これ以上は――」
蓮太郎「分かった」
蓮太郎が立ち上がる。小夜も慌てて立つ。
蓮太郎「銀鈴館へ来てほしい。まず、映画を一本見よう。そのあとで、君の考えを聞きたい」
小夜「……少し、考えさせてください」
蓮太郎「もちろんだ」
帽子を手に取り、入口へ向かう。
小夜「あの、九条様」
蓮太郎が振り返る。
小夜「来なかったら、どうなさいますか」
蓮太郎「残念に思う」
小夜の表情が揺れる。
蓮太郎「だが、君が決めることだ」
蓮太郎が扉を開ける。
蓮太郎「来てくれたら、嬉しい」
鈴が鳴り、扉が閉じる。
小夜はしばらく入口を見つめている。
ふみが隣へ来る。
ふみ「ずいぶん、熱心なお客様だったね」
小夜「……お話を、あんなふうに聞いていただいたのは、初めてです」
ふみ「どんなふうに?」
小夜は名刺を両手で持つ。
小夜「私が何を考えて語ったのかまで、聞いてくださいました」
名刺を前掛けへ入れかけ、思い直す。
小夜は折れないよう、帳場の小さな封筒へ丁寧に収める。
〇 篠宮家・座敷(夕)
古びた座敷。
叔母の篠宮タカ(50)が、小夜の差し出した名刺を見ている。
タカ「映画会社?」
小夜「活動弁士のお仕事を、勧めていただきました」
タカ「お客様を相手にする仕事なら、今のお店で十分でしょう」
小夜「まだ、条件を伺っておりません。お話だけでも――」
タカ「人前に立って、何を言われるか分からないのよ。篠宮の娘が、と笑う人だっている」
小夜の視線が下がる。
タカ「うまくいかなかったら、どうするの」
小夜「……分かりません」
タカ「分からないまま、今の暮らしを手放してはいけません」
小夜は、卓の上の名刺を引き寄せる。
タカが別の封筒を取り出す。
タカ「それより、三条家から便りが来ました。征二郎さんがご帰国なさるそうよ」
小夜「征二郎さんが……」
タカ「昔から、あなたを大切にしてくださった方です。堅実な道を考えなさい」
小夜は名刺の角を押さえる。
小夜「……はい」
返事をしてから、唇を結ぶ。
〇 篠宮家・小夜の部屋(夜)
小夜が古い箱を開ける。
中には、書き込みの多い物語の本と、一通の手紙。
手紙には、朗読会への出演を勧める文章。
その下には、小夜の筆跡で書かれた辞退の下書き。
小夜は下書きを読み、静かに折り直す。
物語の本を机へ置く。
ページの余白には、「ここで待つ」「悲しくしすぎない」と書き込みがある。
小夜が一節を、小さく読み始める。
小夜「『娘は、門の前で立ち止まりました。門を開けば、今までとは違う道が――』」
声が止まる。
隣の部屋から、タカの咳。
小夜は本を閉じかける。
傍らに置いた蓮太郎の名刺へ、目が留まる。
蓮太郎の声(回想)「経験がないことと、向いていないことは別だ」
小夜が名刺を手に取る。
蓮太郎の声(回想)「来てくれたら、嬉しい」
小夜は名刺を本に挟む。
もう一度、最初のページを開く。
今度は、鉛筆を手に取る。
余白の「ここで待つ」の文字を見つめ、その下へ小さく書き足す。
「顔を上げる」
〇 花月堂・厨房脇(翌朝)
ふみが開店の準備をしている。
小夜が、少し緊張した顔で近づく。
小夜「女将さん。次のお休みに、銀鈴館へ行ってまいります」
ふみ「叔母さんは?」
小夜「まだ、賛成してはくださいません」
ふみ「そうかい」
小夜「でも、お仕事の話を聞く前から、できないと決めるのは……もう、やめたいんです」
ふみが手を止める。
小夜「できるかどうかは、分かりません。だから、まず見て、聞いて、それから考えます」
ふみ「ひとりで全部決めようとしなくていいんだよ」
小夜が顔を上げる。
ふみ「条件が分からなければ、持っておいで。あたしも一緒に考える」
小夜「……はい。お願いいたします」
ふみが微笑む。
ふみ「さあ。決まったなら、今朝のお客様をお迎えしようか」
小夜がうなずき、店内へ向かう。
〇 銀鈴館・入口(昼・数日後)
映画の看板が掲げられた銀鈴館。
小夜は入口の手前で立ち止まる。
鞄を開き、物語の本が入っていることを確かめる。
扉が開く。
中から出てきた蓮太郎が、小夜に気づく。
蓮太郎「篠宮君」
小夜が背筋を伸ばす。
小夜「お話を、伺いにまいりました」
蓮太郎の口元が、わずかに緩む。
蓮太郎「待っていた」
蓮太郎が扉を押さえる。
小夜は一歩、館内へ踏み出す。
〇 銀鈴館・客席(昼・続き)
薄暗い客席。
小夜が白いスクリーンを見上げ、足を止める。
蓮太郎「思っていたより、大きいか」
小夜「……はい」
蓮太郎「声が届くか、心配になった?」
小夜がうなずく。
小夜「花月堂では、相手のお顔がすぐ近くにありましたので」
蓮太郎は最後列へ目を向ける。
蓮太郎「上映の支度ができるまで、少し時間がある。俺があそこへ座ろう」
小夜「今、ですか?」
蓮太郎「君は、ここで語ってみてくれ」
小夜が鞄を胸へ寄せる。
小夜「まだ、お引き受けすると決めたわけでは」
蓮太郎「知っている。声が届くか確かめるだけだ」
蓮太郎が通路を歩き始める。
小夜「九条様」
蓮太郎が振り返る。
小夜「つまらなかったら、卓の下へ入る代わりに、お帰りになりますか」
蓮太郎が客席を見回す。
蓮太郎「ここには、卓がないからな」
小夜が笑う。
肩の力が、わずかに抜ける。
蓮太郎「だが、帰る前に理由は言う」
小夜「それは……正吉より、厳しいですね」
蓮太郎「仕事の話だからな」
蓮太郎が最後列の中央へ座る。
遠くなった彼を、小夜が見つめる。
蓮太郎「聞かせてくれ、篠宮君」
小夜が鞄から物語の本を取り出す。
開こうとして、手を止める。
小夜「本を、読まなくてもよろしいでしょうか」
蓮太郎「君が語りたいものを」
小夜は本を胸へ抱えたまま、顔を上げる。
小夜「それでは――ある娘が、知らない門の前に立ったお話を」
最後列で、蓮太郎が静かに姿勢を正す。
小夜「娘は、門の向こうへ行きたいと思っていました。けれど、行きたいと言ってしまうのが、怖かったのです」
小夜の声が、誰もいない客席へ広がる。
蓮太郎は何も言わず、続きを待つ。
小夜が一度だけ本へ目を落とす。
それから、胸に抱えていた本を脇へ下ろす。
小夜「門の向こうに何があるのか、娘には分かりませんでした。誰かに尋ねても、娘の代わりに歩いてくれるわけではありません」
息を吸う。
最後列の蓮太郎と、目が合う。
小夜「それでも娘は、門を叩きました」
蓮太郎の口元が、わずかに緩む。
小夜「……自分が、どこまで歩けるのか、知りたかったからです」
小夜の声が、客席の奥まで届く。
蓮太郎はその声を受け止め、静かにうなずく。
小夜の手から、力が抜ける。
白いスクリーンの前で、小夜が初めて微笑む。



