そんなニスロクの不穏な言葉に尾を引かれながら執務室に戻るとバルトが立ち上がり、運んでいたティーセットのトレイを紗希の手から取り上げ眉を顰めた。
「ニスロクに何もされてませんか?密室で男と二人きりなんて危険です」
「密室って、その言い方……あの、そんな風に心配するのはバルトさんぐらいですよ。むしろ私としては……」
狙われてるのはバルトの方だ、と言いかけて紗希はやめた。
まだ断定したわけではないし、もしかすると単にニスロクに揶揄われているだけかもしれない。
憶測で余計な波風を立てるべきではないだろう。
応接用のテーブルへと置かれたティーポットを手に、紗希はカップへ注ぎながらバルトを一瞥した。
「それよりちゃんと小まめに飲んでくださいね。気付かないうちに脱水しますよ」
言って紅茶を差し出せば、バルトは小さく息を詰め美しい紫水晶の瞳の輝きをねっとりとした深い色に変え、薄い笑みを漏らした。
そして受け皿を持っていた紗希の指先に自らの手を重ね真剣に告げる。
「俺を気にかけてくれているんですね。ご安心ください。このバルト、愛しいあなたを置いて先立つことなど絶対あり得ない。死ぬ時は一緒です」
ーー間違ってないけど、そうじゃない。
「とりあえず、なるべく長生きしてください」
相変わらず極端というべきか、ズレた返事を寄越すバルトに乾いた笑みを残し、紗希はバルトが紅茶に口をつけるのを見守ることにした。
「さぁ、どうぞ召し上がってください。ちゃんと飲むまで私ここで見てますから」
するとバルトはカップの取手をようやく掴んだ。
その姿にやきもきしながら唇を半ば睨みつける勢いで監視という名の視線を送っていれば、しかしあと一センチという距離で動きが止まる。
そして長い睫毛を揺らしてはバルトは悩ましげな視線を寄越してきた。
「……そんな顔で見られるとキスしたくなるな」
唇を凝視していた意味を履き違えられ紗希の瞳は僅かに揺れる。
「バルトさん……」
小さく呟いた。
ーーこの人わざとやってるのか?
バルトを見つめていた視線は次第に疑念を孕み、眉根を寄せた紗希は一度固く瞳を閉じた。
それから溜息を零し視線を上げ、一旦勘ぐることを止め先に紅茶を飲む。
「結構真面目に言ってるので本当に飲んでください。健康な身体は食事から始まるんですよ」
そして健康な心も養って欲しい。
「冷めちゃいますよ」
念押しして紅茶を口にしながら視線を向けると、バルトはやっとひと口啜った。
そして肩を落として小さく漏らし笑った。
「……落ち着くな……」
その言葉を聞いて目元が緩み、一緒になって笑う。
危うげな物言いが目立つバルトは紗希に対して盲目的だ。
ひとまず”聖女“でなく名前で呼んでくれるようになったが、バルトの視線はどこか紗希を通して虚像を見ているように感じさせる。
無理もないと言えばそうなのかもしれないが、囚われているままの彼を放っておきたくはなかった。
小説で読んだ生い立ちや幼少期のエピソードに早く幸せになって欲しいと何度願ったことだろう。
執務室に飾られている絵はバルトの故郷で、ミレーヌがイベントを起こすため放り投げた魔石の影響で沼地から現れた魔物により一帯にあった村が消滅している。
当時の出来事をバルトは絵を飾る時に話してくれたが、小説で描かれた通りの内容になんとも言えぬ感情を胸に抱いた。
きっと小さな積み重ねだ。
たったひと口だが、されどひと口。
時間はかかるだろうが、生きることに疲れてしまっている心が、少しずつ今に馴染んでいけばいい。
「ーー魔王様、よろしいでしょうか」
二人で紅茶を飲み始めてしばらく、執務室の扉が返事を待たずして唐突に開いた。
魔王城でこんな強引な振る舞いをするのは霊蟲公ともう一人しかいない。
「あの氷像をいただけませんか?」
声の主に眇めた視線をやったバルトは凍てついた声で告げる。
「駄目だと言ったはずだ。何回同じ言葉を言わせる気だ?ベリアル」
「しかし諦めきれません」
現れたのは第八層の管理者、ベリアルという名の魔族だった。
まず最初に視界に入ってくるのは背に携えている烏の如く黒い大きな翼だ。畳んでいても、それは目立つ。
そして褐色の肌に、透き通るような金色の瞳。額を晒すようにして中央で分けられた同じ色味の髪は後ろだけ伸ばしているのか三つ編みされていて、初めて会った際は石油王かと内心突っ込んだものだ。
そんな豪奢な雰囲気を纏うベリアルは片膝をついて切実に訴えた。
「あれをどうしても私の部屋に飾りたいのです」
彼が欲しているのはマリアンヌの氷像だった。
紗希を精霊王の元へ連れてゆこうとして氷漬けにされたマリアンヌは現在、霊蟲公によって保管されている。
バルト曰くこれが最大限の譲歩であり、殺してないのだからと主張されひとまず「必要があれば凍結を解除する。それまでは城で保管」となったのだ。
この問題については未だに紗希は何が正しいのか答えがでない。
倫理的にはよくないだろう。それに彼女からは聞きたいこともある。
しかし拉致されかけたのは事実でバルトの感情も無碍には出来ない。聖女疑惑はあれど、なにせ紗希はただの人間だ。バルトの存在がなければマリアンヌにとってみれば紗希など赤子の腕を捻るような存在だろう。
そうして霊蟲公に託されたマリアンヌの氷像だが、どういうわけかそれを見たベリアルは最近ほぼ毎日こうしてバルトの元へ訪れては嘆願している。
「駄目だ」
バルトは頑なに拒否する。
これはもはや日課になりつつあった。
「せめて守護の任務を任せていただけませんか」
「同じことだろ。あれは迷宮で管理させている。変えるつもりはない」
バルトは霊蟲公に預けているのを変えるつもりはないらしい。
「せめてチャンスを。霊蟲公に私が勝てたら、管理を任命いただけませんか?」
「駄目だ」
常に駄目の一点張りを続けるバルトの返しにしばらくするとベリアルは引き下がってゆくのだが、それでも彼はめげずに毎日のようにやってくる。
「すごい熱心ですけど、バルトさんの徹底っぷりも相当ですよね。どうしてですか?」
紗希はいつもの押し問答が過ぎ去った部屋でバルトに尋ねた。
まるで根比べをしているようで、あんなにも訴えてくるなら無碍に出来ないのではと感じる紗希だったが、しかしバルトは胡乱な眼差しで扉を見遣りながら言った。
「ベリアルはこの城で最も信用ならない収集家なので」
「ニスロクに何もされてませんか?密室で男と二人きりなんて危険です」
「密室って、その言い方……あの、そんな風に心配するのはバルトさんぐらいですよ。むしろ私としては……」
狙われてるのはバルトの方だ、と言いかけて紗希はやめた。
まだ断定したわけではないし、もしかすると単にニスロクに揶揄われているだけかもしれない。
憶測で余計な波風を立てるべきではないだろう。
応接用のテーブルへと置かれたティーポットを手に、紗希はカップへ注ぎながらバルトを一瞥した。
「それよりちゃんと小まめに飲んでくださいね。気付かないうちに脱水しますよ」
言って紅茶を差し出せば、バルトは小さく息を詰め美しい紫水晶の瞳の輝きをねっとりとした深い色に変え、薄い笑みを漏らした。
そして受け皿を持っていた紗希の指先に自らの手を重ね真剣に告げる。
「俺を気にかけてくれているんですね。ご安心ください。このバルト、愛しいあなたを置いて先立つことなど絶対あり得ない。死ぬ時は一緒です」
ーー間違ってないけど、そうじゃない。
「とりあえず、なるべく長生きしてください」
相変わらず極端というべきか、ズレた返事を寄越すバルトに乾いた笑みを残し、紗希はバルトが紅茶に口をつけるのを見守ることにした。
「さぁ、どうぞ召し上がってください。ちゃんと飲むまで私ここで見てますから」
するとバルトはカップの取手をようやく掴んだ。
その姿にやきもきしながら唇を半ば睨みつける勢いで監視という名の視線を送っていれば、しかしあと一センチという距離で動きが止まる。
そして長い睫毛を揺らしてはバルトは悩ましげな視線を寄越してきた。
「……そんな顔で見られるとキスしたくなるな」
唇を凝視していた意味を履き違えられ紗希の瞳は僅かに揺れる。
「バルトさん……」
小さく呟いた。
ーーこの人わざとやってるのか?
バルトを見つめていた視線は次第に疑念を孕み、眉根を寄せた紗希は一度固く瞳を閉じた。
それから溜息を零し視線を上げ、一旦勘ぐることを止め先に紅茶を飲む。
「結構真面目に言ってるので本当に飲んでください。健康な身体は食事から始まるんですよ」
そして健康な心も養って欲しい。
「冷めちゃいますよ」
念押しして紅茶を口にしながら視線を向けると、バルトはやっとひと口啜った。
そして肩を落として小さく漏らし笑った。
「……落ち着くな……」
その言葉を聞いて目元が緩み、一緒になって笑う。
危うげな物言いが目立つバルトは紗希に対して盲目的だ。
ひとまず”聖女“でなく名前で呼んでくれるようになったが、バルトの視線はどこか紗希を通して虚像を見ているように感じさせる。
無理もないと言えばそうなのかもしれないが、囚われているままの彼を放っておきたくはなかった。
小説で読んだ生い立ちや幼少期のエピソードに早く幸せになって欲しいと何度願ったことだろう。
執務室に飾られている絵はバルトの故郷で、ミレーヌがイベントを起こすため放り投げた魔石の影響で沼地から現れた魔物により一帯にあった村が消滅している。
当時の出来事をバルトは絵を飾る時に話してくれたが、小説で描かれた通りの内容になんとも言えぬ感情を胸に抱いた。
きっと小さな積み重ねだ。
たったひと口だが、されどひと口。
時間はかかるだろうが、生きることに疲れてしまっている心が、少しずつ今に馴染んでいけばいい。
「ーー魔王様、よろしいでしょうか」
二人で紅茶を飲み始めてしばらく、執務室の扉が返事を待たずして唐突に開いた。
魔王城でこんな強引な振る舞いをするのは霊蟲公ともう一人しかいない。
「あの氷像をいただけませんか?」
声の主に眇めた視線をやったバルトは凍てついた声で告げる。
「駄目だと言ったはずだ。何回同じ言葉を言わせる気だ?ベリアル」
「しかし諦めきれません」
現れたのは第八層の管理者、ベリアルという名の魔族だった。
まず最初に視界に入ってくるのは背に携えている烏の如く黒い大きな翼だ。畳んでいても、それは目立つ。
そして褐色の肌に、透き通るような金色の瞳。額を晒すようにして中央で分けられた同じ色味の髪は後ろだけ伸ばしているのか三つ編みされていて、初めて会った際は石油王かと内心突っ込んだものだ。
そんな豪奢な雰囲気を纏うベリアルは片膝をついて切実に訴えた。
「あれをどうしても私の部屋に飾りたいのです」
彼が欲しているのはマリアンヌの氷像だった。
紗希を精霊王の元へ連れてゆこうとして氷漬けにされたマリアンヌは現在、霊蟲公によって保管されている。
バルト曰くこれが最大限の譲歩であり、殺してないのだからと主張されひとまず「必要があれば凍結を解除する。それまでは城で保管」となったのだ。
この問題については未だに紗希は何が正しいのか答えがでない。
倫理的にはよくないだろう。それに彼女からは聞きたいこともある。
しかし拉致されかけたのは事実でバルトの感情も無碍には出来ない。聖女疑惑はあれど、なにせ紗希はただの人間だ。バルトの存在がなければマリアンヌにとってみれば紗希など赤子の腕を捻るような存在だろう。
そうして霊蟲公に託されたマリアンヌの氷像だが、どういうわけかそれを見たベリアルは最近ほぼ毎日こうしてバルトの元へ訪れては嘆願している。
「駄目だ」
バルトは頑なに拒否する。
これはもはや日課になりつつあった。
「せめて守護の任務を任せていただけませんか」
「同じことだろ。あれは迷宮で管理させている。変えるつもりはない」
バルトは霊蟲公に預けているのを変えるつもりはないらしい。
「せめてチャンスを。霊蟲公に私が勝てたら、管理を任命いただけませんか?」
「駄目だ」
常に駄目の一点張りを続けるバルトの返しにしばらくするとベリアルは引き下がってゆくのだが、それでも彼はめげずに毎日のようにやってくる。
「すごい熱心ですけど、バルトさんの徹底っぷりも相当ですよね。どうしてですか?」
紗希はいつもの押し問答が過ぎ去った部屋でバルトに尋ねた。
まるで根比べをしているようで、あんなにも訴えてくるなら無碍に出来ないのではと感じる紗希だったが、しかしバルトは胡乱な眼差しで扉を見遣りながら言った。
「ベリアルはこの城で最も信用ならない収集家なので」



