「それではっ、メイド特製の愛情たっぷりオムライスが更においしくなるように……ご、ご主人様も、ボクと一緒においしくなーれのおまじない、唱えてくれますか?」
「もちろんです!」
「では……おいしくなーれ、おいしくなーれ……アン・ドゥ・トロワ♡」
……オレは今、なぜ元恋人と一緒にオムライスに向かって話しかけているのだろうか。
緊張と焦りのせいで指先が震えてしまって、かなり上達したはずのオムライスへの落書きはとても不格好なネコさんになってしまった。それなのに元恋人である文高は「すっごくかわいい!嬉しいな。ハルさん、ありがとうございます」と嬉しそうにニコニコ笑ってパシャパシャと写真を撮っている。いたたまれない気持ちでいっぱいだ。
文高が一刻も早く帰りますように。チェキ撮りたいとかミニゲームしたいだなんて、言い出しませんように。
「ハル」が元恋人である「春希」であるオレだと気づいていないらしい文高は、すっかりこのメイド喫茶の常連客になってしまっている。目下、オレの一番の悩み事だ。
オレ、千代谷 春希のバイト先はメイド喫茶だ。
女装して「ハル」という名前でキャストとしてバイトをしている。
高校生の頃から働き始めて大学生になった今も続いているこのバイトは、毎回もう一人の自分を演じているような気持ちになる。長年の悩みであった、人に対して「素直になれない」が幾分かはマシになってきてはいるように思えたものの、特に態度がヒドいと自覚している恋人、文高相手だとまだまだダメだった。……今はもう恋人ではなく「元」恋人になってしまったけれど、相変わらずだ。
オレと文高は生まれたときからお隣さんで、幼馴染として育った。
何をするのも一緒だった文高が、オレのことを恋愛対象として好きなのだと聞かされたのは、オレたちが高校生になってすぐのことだった。気持ちを伝えたかっただけだと言う文高に「なんで?好きな人いないから断る理由もないし、別に付き合ってあげてもいいけど」とかなり可愛くない返し方をしたものだ。あれから別れることなく付き合い続けてきた。
文高はオレに甘い。スティックシュガーを何本も溶かしたジャリジャリになった珈琲のように非常に甘い。
オレはいわゆる「可愛い系」の顔立ちである上に体格がよくないこともあって、同性に舐められたり、変なヤツに好意を向けられる機会が多いなかで育った。誰に対してもツンケンしがちな性格になってしまった理由のひとつであると思っている。
文高に対して特に素直ではない態度を取ってしまうのは、オレがどんなに可愛くないことやわがままを言っても彼は笑って受け入れてくれるからだ。文高が甘やかすから、オレが甘えてしまう。幼馴染で慣れてるからなのか、オレのことが好きだからなのか分からないけれど、気がついたらもう引き返せなくなっていた。
ただの幼馴染から恋人になったのにこのままではよくない、と思って始めたのがメイド喫茶でのバイトである。
ウィッグを被ってばっちりメイクをしているので、今のところ誰にもオレが春希だとは気がつかれていない。このバイトは素直になる練習をするのに好都合だった。今では「ハル」として接するのであれば、文高以外に対してはかなり柔和になったと自負している。
「……ただいまー」
「春ちゃんお帰り、外寒かったでしょ?」
オレが帰宅してすぐに、スリッパをぱたぱたと鳴らしながら文高が玄関までやってきた。「耳、冷えてる」とオレの両耳にてのひらを押し当てる文高は「恋人相手」だからやっているのではなく、素でやっているのだ。そう、オレは知っているので、特に指摘することなく「うん。お腹すいた」とだけ返した。
オレは一ヶ月ほど前に別れた文高と、二人暮らしをしている。
親公認の仲であるオレたちは、大学生になったタイミングで同棲を始めた。お互いに家からすこし離れたところにある大学に進学したので、親としたら成人になりたての子どもを一人暮らしさせるよりも二人暮らしさせるほうが安心だったのだろう。
一緒に暮らし始めた当初はとても楽しかった。
お揃いの食器にお揃いのパジャマ。文高がお揃いにしたいって言うから、この部屋の中はお揃いのものだらけだ。ふたりで撮った写真は、別れてからもまだ飾りっぱなしである。文高が剥がさないならそのままでいいか、と思ってオレは何も言わないようにしている。
同棲からルームシェアに変わったことを、オレはまだ親に言えていない。
大学生になってからまだ一年も経っていないオレたちには引っ越して一人暮らしを始める資金などはなく、仕方がなく二人暮らしを継続しているのだ。
恋人という関係を終わらせたのはオレだ。
文高が素直そうな笑顔が可愛い女の子とデートしているところに、偶然出会してしまったのだ。
そうだよね、天邪鬼なオレなんかより、その子といるほうが楽しいに決まってる。
そう思って「別れたい」と告げたとき、文高に「春ちゃん、俺のこと嫌いになった?」と聞かれたけれど、オレは何も言い返せなかった。うそでも「嫌いになった」とは、言えなかったから。
文高は「分かった」と言ってオレたちの恋人という関係は終わったのに、文高は別れる前と別れた今とで何も変わらない。
むしろ、付き合っているときよりもオレの世話をよく焼いていると思うくらいだ。
「春ちゃんのお世話するの好きだから」と笑う文高が本当のところは何を考えているのか分からないが、きっと何も考えていないと思う。一体オレが何年間、文高のことを見ていると思っているのだ。誰よりも詳しい自信がある。
「今日はオムライスとシチューだよ」
「オムライスって……」
文高、昼にも食べてたじゃん。
そう言いそうになって慌てて言葉を止めると「もしかして、嫌だった?」と心配そうに顔を覗き込まれた。ぶんぶんと首を横に振って答える。
オレは今、ハルではなく春希なのだ。ハルのときに知った情報は知り得ないのだと、改めて自分に言い聞かせる。
「春ちゃんの仕事も残ってるから、早く手洗っておいで」
「仕事って……」
一瞬、その言葉にどきりと心臓が鳴った。
メイド喫茶でのお給仕のバイトのうち、何度練習しても下手くそだったのがオムライスへの落書きだ。愛らしい動物やメッセージなどを求められているのだと知っていたが、あいにくオレは不器用なのである。
文高と一緒に暮らし始めて、料理担当の文高にオムライスを大量に作ってもらっては練習をしたお陰でかなり上達した。
あれから家でオムライスにケチャップをかけるのは数少ないオレの料理における担当になっている。文高はそのことを言っただけだ。
「……はい、どうぞ」
「わ、ウサギだ!かわいいね」
「……そう?」
「うん。春ちゃん、イラストも文字も書くのうまくなったねえ。バイト先でも褒められてる?」
「……ああ、うん。まあ」
オムライスにケチャップで文字を書く必要がある、と知られると、オレのバイト先がバレてしまう懸念がある。
文高には「カフェでバイトをしていて、こうやってプレートに文字を書くことがあるから……」と説明して特訓に付き合ってもらっていたのだ。うそはついていないものの、うそ混じりの言葉を未だに信じていることに胸が痛まないでもないが、文高にバレるわけにはいかない。
オレが文高と別れる理由になった女の子と一緒に、何の前触れもなく突然文高はオレのバイト先に「帰宅」した。
予想したこともなかった出来事に、これまで何回も何十回も言ったことがある「おかえりなさいませ」の言葉も手も何もかもがおぼつかなくなってしまったものだ。その日の店内は満席で、お出迎えを担当したオレが文高たちの卓につく羽目になってしまった。こんな地獄、あっていいわけないだろう。
オレが春希だと気づいていない文高は「ハル」のことを可愛い可愛いと何度も褒めちぎって、あれから一人で通うようになったのだ。オレには可愛いなんて一度も言ったことないのに、文高はハルには「可愛い」と言う。なんで、オレには言ってくれないのに。
文高にバイト先に来られたくないが、文高に可愛いと言ってもらえるハルの姿でいることは嫌ではなかった。
だってオレは、未だに未練たらしく文高のことが、好きだから。
文高が用意してくれたオムライスに舌鼓を打って、入浴を済ませた頃には眠気が襲ってきていた。バイトがある日は疲れが溜まりやすいのか、日付が変わるくらいの時間にはもうまぶたが重くなってしまう。
「春ちゃん、もう寝る?」
「んー」
「俺ももう寝ようかな」
「えー……」
「なんで嫌がるの」
「嫌がっては、ないけど……」
お揃いのパジャマを着て、同じベッドで眠る。付き合ってからも別れてからもずっとそうだ。
この家には客用の布団がない。
オレが「別れたい」と言い出したのだからオレがソファで寝ると主張したのだが、文高は「春ちゃんに風邪をひかせるわけにはいかない」と言ってきかなかった。あんなにも折れない文高は生まれて初めて見たものだ。
結局オレが折れて、それ以来ずっと一緒にベッドで眠っている。
ふたりで眠ることを前提に購入したベッドだが「あんまり離れると冬は寒いから……」と文高が主張したため、広々と余裕があるサイズではない。背中合わせで寝転がっても背中がぶつかってしまう。
背中に触れる熱にどきどきしながら目を閉じたものの眠れなかった、別れた日の真夜中。
寝つけない様子だった文高を問いただすと「抱き枕がないと眠れない」とのことだった。だから、文高はいつもオレを抱きしめて眠っていたのか。
このベッドには抱き枕を置くスペースはない。
しょうがないので、眠るときは文高の抱き枕にしていいと言った。あくまでしょうがなくだ。オレもいつの間にか、文高に抱きしめられないと眠れないようになっていたからでは決してない。
ふたりでベッドに入り込んで、暮らし始めた初日から変わらない定位置で、文高に抱きしめられながら横になる。
端から見るとありえない行動をしているだろう。幼馴染で親友であったとしても、ひとつのベッドでこういう寝方はしないと思う。
オレはしばらく文高以外のひとを好きになることはないだろうけれど、文高があの女の子と付き合うようになったらやめなくてはいけないとちゃんと分かっている。だから、それまでは許してほしい。
「春ちゃん、明日ってバイト?」
「……やすみ」
「やった!春ちゃんが前においしいって言ってたチョコのパンあるでしょ?あのパン屋さん、土曜日限定で店内でブランチ食べられるんだって。限定のチョコパンもあるらしいから、明日一緒に食べに行かない?」
「別に、いいけど……」
「うれしい、約束ね」
「はいはい」
文高は付き合っていたときと変わらず、休日はオレと過ごしたがる。
あの子とはその後どうなったのか、聞きたくなくて聞けていない。けれど、きっとまだ付き合ってはいないのだろう。もし付き合っていたとしたら、こうも休日ごとにオレと遊んではいないはずだ。
「……」
「春ちゃん?」
「……もう寝る」
「うん、おやすみ」
眠たくなったから、寒いから。
心の中でそう言い訳をして、文高の胸元に顔を押し当ててぎゅっと近づく。頭をゆっくりと撫でられたような感覚を覚えながら、意識をそっと手放した。
◇ ◆ ◇
文高がオレのバイト先に通うようになって、あっという間に三ヶ月ほど経過した。
別れてすぐのタイミングから文高はここに通うようになったので、オレたちが別れてから三ヶ月ほど経つということだ。あの日から季節が変わった今も、オレたちは毎日同じベッドで眠りについている。
文高がオレ推しの常連客であるとすっかり他のキャストたちに知れ渡っているし、キャストたちからの評判もいい。
キャストが嫌がることを言ったり聞いたりすることは絶対になく、紳士でありやさしい。変な目でも見てこない。人気になるに決まっている。
文高がこの店に通い始めた当初は文高について聞かれることも多かったが、不思議と最近はもう聞かれないとふと気がついた。攻略難易度が高い人間であると思ったのかもしれない。
文高は身長が高くて顔も整っている。おまけに声も良くて誰に対してもやさしいので、女の子に非常によくモテるのだ。
そんな男が幼少期からずっと好きだったのはオレひとりだけで、他の人の告白は断り続けていたというのが今考えて見るとうそのようだ。別れてからの文高の恋愛関係は知らないけれど、たぶん、特定の相手はまだいないと思う。
「……あの、文高さん」
「はい」
「ボクのバースデーイベントの、お知らせがあるんですが……」
店長から課されている、バースデーイベントのお知らせを文高にも行う。来ないでほしい気持ちでいっぱいだが、オレ推しの常連客である文高に伝えないのはおかしいだろう。
「ハルさん、誕生日近いんですね」
「はい。えっと、ちょうど二週間後で……」
「……へえ、そうなんですね」
ハルの誕生日は、オレの本当の誕生日の前日だ。
オレがこの店で働いているのは親以外は知らない。文高にも未だに隠し通せている。
「誕生日という大きすぎる個人情報を伝えてしまうと、バイトをしていることを隠している周囲にバレる確率が上がるから変えたほうがいい」という先輩たちからのアドバイスに従って、本当の誕生日の前日にした。本当の誕生日と離れすぎると忘れてしまいそうになるので、ちょうどいい日に設定したと思っている。
「オリジナルのバースデーグッズの販売があったり、ちょっと特別な催しがあったりします」
「俺、来ていいんですか?」
「も、もちろんです。もし、その日に用事がなければ……」
文高はすこし考える仕草をする。
オレの誕生日の前日、文高にバイトがないことは共有カレンダーで知っていた。
きっと店に来るのだろうと思っていると「すみません、その日は外せない予定があって……」と申し訳なさそうな表情で言われてしまった。バイトは休みでも、オレが知らない、知らされていない予定があるらしい。
「えっ……」と口からこぼれ落ちた動揺の言葉は、思わずオレの素が出てしまっていた。
分かりやすくショックを受けている。文高には文高の人間関係があるし、ハルを優先する義理はない。
「残念、です……」と紡いだ言葉は、オレの心からの本音だ。
次の日の「春希」の誕生日当日、今年は一緒に過ごすことはないのだろう。特に約束をしていないので、祝われることもない可能性がある。春希ではなくてハルでもいいから、文高に祝ってほしかった。
オレはどうしようもなくわがままで、文高に甘えすぎだ。本当の心の中の言葉は、十分の一も文高に伝えられないのに。
「本当にすみません。いつか埋め合わせさせてください。……あ、そのオリジナルグッズって、当日以外にも買えたりしませんか?」
「えっと、一応買えますけど……」
ついこのあいだ、カメラマンにスタジオで撮ってもらったばかりのオレの写真がデカデカと印刷されているグッズだ。Tシャツを始めブロマイドやらうちわやらグッズの種類は多岐に渡るが、ひとつでもあの家に置かれると思うと阻止したい。
「じゃあ、全部三つずつ予約させてください。お金、先払いであれば今日払います」
「……ここだけの話ですが、どのグッズもちょっと高いんですよ。せめて、一つずつで良いのではないでしょうか」
「いえ、使う用と保存用と予備用で三つは必要ですよ」
「は、はあ……」
お店に悪いし、売れれば売れるほどオレにバックが入るのであまり大きな声では言えないが、なにもこんな高いグッズをたくさん買うことはないのではないか。
オレの顔がプリントされているTシャツを洗濯するのも干すのも、文高が着ているのを見るのもかなり心にくるものがある。全部買うと言って聞かない文高は、グッズ代を全額払ってからオレたちの家に上機嫌で帰っていった。
「……ただいま」
帰りたくなくても、オレが帰る家は文高も暮らすこの家しかない。
別れた日の翌日よりもその他の日よりも、今日が一番帰りたくなかった。気が重い。
オレはそろそろ、文高の最近の恋愛事情をちゃんと聞かなくてはいけない。
別れた元恋人たちが、いくら同性の幼馴染とはいえ、同じベッドで眠っているだなんて文高の想い人がいたらいい気はひとつもしないだろう。オレがいるこの場所を、誰かに渡さなくてはならない日はきっと近い。
「春ちゃんお帰り!夜は冷えるねー……春ちゃん?」
「……」
「どうしたの、何かあった?」
いつものように玄関先まで出迎えに来てくれた文高が、しゃがみ込んでオレの両手をぎゅっと握りしめる。俯いているオレと目を合わして「いやなことでもあった?」とやさしくやさしく聞かれて、ぶわっと感情が吹き出した。
「オ、オレっ、もう、文高といたくない……!」
「えっ、なんで!?俺、何かいやなことしちゃった……?」
「だって、もうオレ、文高と一緒にいちゃだめだから……っ、オレ、オレ、いやなやつだ……」
「どうしたの、春ちゃん、落ち着いて」
立ち上がった文高にぎゅっと抱きしめられる。
ベッドの中以外でこうやって文高に抱きしめられたのは、別れてから初めてだ。一番好きな体温と嗅ぎ慣れた匂いに安心する。
文高はひどい。やさしくない。ずるい。
ぐりぐりと文高の胸元に感情と共に吹き出した涙を押しつける。文高が着ているオレとお揃いのパジャマは、オレの涙でぐちゃぐちゃだ。
「オレ、文高の好きな子にっ、文高と暮らしてほしくない……」
「うん?」
「オレ、オレは、ハルはオレで……」
「うん」
「あの、一番最初に一緒に帰宅した子、前に駅ビルに一緒にいた子、好きなんでしょ」
「……」
涙がぼたぼたと止まらないせいでひくひくと言葉が詰まってしまう。情けない。こんなときくらいはっきり、ちゃんと自分の気持ちを伝えたいのに。
落ち着いて、と言うように背中をとんとんと叩かれる。
文高は、小さい頃からオレの感情が吹き出して彼に当たり散らすときに毎回これをしてくれる。すっかり安心するようになった行為に、だんだんと詰まっていた言葉が解かれていく。
「……色々と勘違いしてるみたいだから、俺の話、聞いてもらってもいい?」
「…………ん」
何が勘違いなのかは分からないが、すんすんと鼻を啜りながらぎゅうぎゅうと文高に抱きつく。これが最後の抱擁になるかもしれない。この際だから存分に抱きついておこうと決めた。
「ここ、寒いからリビングに移動しよ」と言う文高にくっついて離れようとしないオレに呆れることなく、オレの身体を軽々と抱え上げた文高にリビングまで連れてこられた。リビングに漂う温かい空気と美味しそうな夕飯の匂いに、また涙がこぼれ落ちた。じくじくと胸が痛む。オレはこれを、手放さないといけない。
「……まず、春ちゃんが見た女の子のことなんだけど」
「……」
「あの子はメイド喫茶とかに詳しい子なんだ。彼氏もいるし、彼氏は俺も仲いい友達で」
「……うん」
「俺が恋人と同棲してるのももちろん知ってる。見えなかったかもしれないけど、駅ビルにいたときかな。あの日はその子の彼氏も一緒にいたよ」
「…………」
「それで、俺の恋人がメイド喫茶で働いてるんだけど行ったことがなくて、作法も分からないから付き合ってほしいってお願いしてたんだ。あの日はその話と前もってお礼をしてたの。友達には『居心地悪そうから俺はパス、ふたりで行ってきて』って言われて、俺とあの子のふたりで行くことになったんだけど……」
「……ちょ、ちょっと……ちょっとまって」
「うん?」
文高の話の雲行きが怪しくなってきている。否、怪しい。
文高の言い分だと、オレのバイト先があのメイド喫茶だと初めから知っていた上で、文高は通っていたように聞こえる。
「……文高、オレがハルだって、気づいてたの……?」
「当たり前でしょ。春ちゃんは隠したいみたいだったから、知らないフリしてたけど……」
「ど、どうして……いつから?」
「バイト先がメイド喫茶だって知ったのは一緒に暮らし始めてから。春ちゃんの部屋の掃除も俺がしてたでしょ」
「う……」
文高は家事全般が非常に得意だ。
おんぶにだっこでご飯以外の家事も文高の担当になることが多かった。掃除をする過程でバイトに関する何かを見てしまったのだろう。文高に甘えていたのはオレなので、オレにとやかく言う資格はない。
全部全部、オレがひとりで空回っていたらしい。
じわじわと顔に熱が集まる。あつい。きっと真っ赤に変色してしまっているだろう。
文高に見られない体勢でよかった。ぐりぐりと顔を押しつける。
「……オレ、天邪鬼じゃん」
「うん?」
「ハルは、素直だったでしょ……?文高は、素直な子が、好きなんだろうって思って……」
「どんな春ちゃんでも好きだよ。春ちゃんだから好き」
「じゃあ、じゃあなんで、あんなにあっさりオレが別れるって言ったの受け入れたの……?俺のこと、もう好きじゃないんでしょ!」
「だって春ちゃん、俺が引き止めたら嫌って言って聞かないでしょう。それならもっともっと甘やかして、俺にお世話される生活に慣れきって、この家以外で生活できなくなればいいって思ったんだよね」
「……っ、」
「それに、俺は別れるって言ってないよ。春ちゃんは別れたつもりでいたみたいだから、合わせてたけど」
「…………」
「ずるい男でごめんね。……春ちゃん、もう俺とは一緒に暮らしたくない?俺のこと、もう好きじゃない?」
きゅ、と縋るように、解けそうなやさしい力で抱きしめられる。文高、オレのこと大好きじゃん。
「っ好きじゃなかったら、とっくに実家に帰ってる!!!!」
ぎゅうぎゅうと力を入れて抱きしめる。離してあげない。
ねえ、文高、ずっとオレと一緒にいてよ。もうオレはこの家以外で生活したくないよ。
練習しているものの、まだまだ本音は言えそうにない。ぐるぐると胸の中で詰まっている言葉を音にする代わりに、くちびるをくっつけ合わせた。ひさしぶりに触れたやわらかな感覚と熱に、なんだか泣きそうになる。
「春ちゃん、泣かないで」
「泣いてない」
「えっとほら……実は春ちゃんの誕生日当日の予定、もう決めてあって」
「……え」
「誕生日当日はバイト入れてないでしょう?前日から準備したいから、お店には行けそうにないんだけど……」
びっくりして涙が引っ込む。
今年は一緒に過ごす約束なんてしていないのに、文高の中では一緒に過ごす日として決められていたらしい。今年は文高に祝ってもらえないだろうと思いながらも期待していたのが、彼にはバレバレだったのかもしれない。
「今年はこれまでで一番盛大にするから。楽しみにしてて」
「……ん」
「涙、引っ込んだ?」
「…………びっくりして引っ込んだ」
「そう、よかった」
涙のあとを拭うように目元にゆっくりとキスされる。
「……目じゃない」と言うオレに「はいはい」と嬉しそうに言いながらくちびるに落とされたキスに「もっと」と言えたので褒めてほしい。なんてね。
了
「もちろんです!」
「では……おいしくなーれ、おいしくなーれ……アン・ドゥ・トロワ♡」
……オレは今、なぜ元恋人と一緒にオムライスに向かって話しかけているのだろうか。
緊張と焦りのせいで指先が震えてしまって、かなり上達したはずのオムライスへの落書きはとても不格好なネコさんになってしまった。それなのに元恋人である文高は「すっごくかわいい!嬉しいな。ハルさん、ありがとうございます」と嬉しそうにニコニコ笑ってパシャパシャと写真を撮っている。いたたまれない気持ちでいっぱいだ。
文高が一刻も早く帰りますように。チェキ撮りたいとかミニゲームしたいだなんて、言い出しませんように。
「ハル」が元恋人である「春希」であるオレだと気づいていないらしい文高は、すっかりこのメイド喫茶の常連客になってしまっている。目下、オレの一番の悩み事だ。
オレ、千代谷 春希のバイト先はメイド喫茶だ。
女装して「ハル」という名前でキャストとしてバイトをしている。
高校生の頃から働き始めて大学生になった今も続いているこのバイトは、毎回もう一人の自分を演じているような気持ちになる。長年の悩みであった、人に対して「素直になれない」が幾分かはマシになってきてはいるように思えたものの、特に態度がヒドいと自覚している恋人、文高相手だとまだまだダメだった。……今はもう恋人ではなく「元」恋人になってしまったけれど、相変わらずだ。
オレと文高は生まれたときからお隣さんで、幼馴染として育った。
何をするのも一緒だった文高が、オレのことを恋愛対象として好きなのだと聞かされたのは、オレたちが高校生になってすぐのことだった。気持ちを伝えたかっただけだと言う文高に「なんで?好きな人いないから断る理由もないし、別に付き合ってあげてもいいけど」とかなり可愛くない返し方をしたものだ。あれから別れることなく付き合い続けてきた。
文高はオレに甘い。スティックシュガーを何本も溶かしたジャリジャリになった珈琲のように非常に甘い。
オレはいわゆる「可愛い系」の顔立ちである上に体格がよくないこともあって、同性に舐められたり、変なヤツに好意を向けられる機会が多いなかで育った。誰に対してもツンケンしがちな性格になってしまった理由のひとつであると思っている。
文高に対して特に素直ではない態度を取ってしまうのは、オレがどんなに可愛くないことやわがままを言っても彼は笑って受け入れてくれるからだ。文高が甘やかすから、オレが甘えてしまう。幼馴染で慣れてるからなのか、オレのことが好きだからなのか分からないけれど、気がついたらもう引き返せなくなっていた。
ただの幼馴染から恋人になったのにこのままではよくない、と思って始めたのがメイド喫茶でのバイトである。
ウィッグを被ってばっちりメイクをしているので、今のところ誰にもオレが春希だとは気がつかれていない。このバイトは素直になる練習をするのに好都合だった。今では「ハル」として接するのであれば、文高以外に対してはかなり柔和になったと自負している。
「……ただいまー」
「春ちゃんお帰り、外寒かったでしょ?」
オレが帰宅してすぐに、スリッパをぱたぱたと鳴らしながら文高が玄関までやってきた。「耳、冷えてる」とオレの両耳にてのひらを押し当てる文高は「恋人相手」だからやっているのではなく、素でやっているのだ。そう、オレは知っているので、特に指摘することなく「うん。お腹すいた」とだけ返した。
オレは一ヶ月ほど前に別れた文高と、二人暮らしをしている。
親公認の仲であるオレたちは、大学生になったタイミングで同棲を始めた。お互いに家からすこし離れたところにある大学に進学したので、親としたら成人になりたての子どもを一人暮らしさせるよりも二人暮らしさせるほうが安心だったのだろう。
一緒に暮らし始めた当初はとても楽しかった。
お揃いの食器にお揃いのパジャマ。文高がお揃いにしたいって言うから、この部屋の中はお揃いのものだらけだ。ふたりで撮った写真は、別れてからもまだ飾りっぱなしである。文高が剥がさないならそのままでいいか、と思ってオレは何も言わないようにしている。
同棲からルームシェアに変わったことを、オレはまだ親に言えていない。
大学生になってからまだ一年も経っていないオレたちには引っ越して一人暮らしを始める資金などはなく、仕方がなく二人暮らしを継続しているのだ。
恋人という関係を終わらせたのはオレだ。
文高が素直そうな笑顔が可愛い女の子とデートしているところに、偶然出会してしまったのだ。
そうだよね、天邪鬼なオレなんかより、その子といるほうが楽しいに決まってる。
そう思って「別れたい」と告げたとき、文高に「春ちゃん、俺のこと嫌いになった?」と聞かれたけれど、オレは何も言い返せなかった。うそでも「嫌いになった」とは、言えなかったから。
文高は「分かった」と言ってオレたちの恋人という関係は終わったのに、文高は別れる前と別れた今とで何も変わらない。
むしろ、付き合っているときよりもオレの世話をよく焼いていると思うくらいだ。
「春ちゃんのお世話するの好きだから」と笑う文高が本当のところは何を考えているのか分からないが、きっと何も考えていないと思う。一体オレが何年間、文高のことを見ていると思っているのだ。誰よりも詳しい自信がある。
「今日はオムライスとシチューだよ」
「オムライスって……」
文高、昼にも食べてたじゃん。
そう言いそうになって慌てて言葉を止めると「もしかして、嫌だった?」と心配そうに顔を覗き込まれた。ぶんぶんと首を横に振って答える。
オレは今、ハルではなく春希なのだ。ハルのときに知った情報は知り得ないのだと、改めて自分に言い聞かせる。
「春ちゃんの仕事も残ってるから、早く手洗っておいで」
「仕事って……」
一瞬、その言葉にどきりと心臓が鳴った。
メイド喫茶でのお給仕のバイトのうち、何度練習しても下手くそだったのがオムライスへの落書きだ。愛らしい動物やメッセージなどを求められているのだと知っていたが、あいにくオレは不器用なのである。
文高と一緒に暮らし始めて、料理担当の文高にオムライスを大量に作ってもらっては練習をしたお陰でかなり上達した。
あれから家でオムライスにケチャップをかけるのは数少ないオレの料理における担当になっている。文高はそのことを言っただけだ。
「……はい、どうぞ」
「わ、ウサギだ!かわいいね」
「……そう?」
「うん。春ちゃん、イラストも文字も書くのうまくなったねえ。バイト先でも褒められてる?」
「……ああ、うん。まあ」
オムライスにケチャップで文字を書く必要がある、と知られると、オレのバイト先がバレてしまう懸念がある。
文高には「カフェでバイトをしていて、こうやってプレートに文字を書くことがあるから……」と説明して特訓に付き合ってもらっていたのだ。うそはついていないものの、うそ混じりの言葉を未だに信じていることに胸が痛まないでもないが、文高にバレるわけにはいかない。
オレが文高と別れる理由になった女の子と一緒に、何の前触れもなく突然文高はオレのバイト先に「帰宅」した。
予想したこともなかった出来事に、これまで何回も何十回も言ったことがある「おかえりなさいませ」の言葉も手も何もかもがおぼつかなくなってしまったものだ。その日の店内は満席で、お出迎えを担当したオレが文高たちの卓につく羽目になってしまった。こんな地獄、あっていいわけないだろう。
オレが春希だと気づいていない文高は「ハル」のことを可愛い可愛いと何度も褒めちぎって、あれから一人で通うようになったのだ。オレには可愛いなんて一度も言ったことないのに、文高はハルには「可愛い」と言う。なんで、オレには言ってくれないのに。
文高にバイト先に来られたくないが、文高に可愛いと言ってもらえるハルの姿でいることは嫌ではなかった。
だってオレは、未だに未練たらしく文高のことが、好きだから。
文高が用意してくれたオムライスに舌鼓を打って、入浴を済ませた頃には眠気が襲ってきていた。バイトがある日は疲れが溜まりやすいのか、日付が変わるくらいの時間にはもうまぶたが重くなってしまう。
「春ちゃん、もう寝る?」
「んー」
「俺ももう寝ようかな」
「えー……」
「なんで嫌がるの」
「嫌がっては、ないけど……」
お揃いのパジャマを着て、同じベッドで眠る。付き合ってからも別れてからもずっとそうだ。
この家には客用の布団がない。
オレが「別れたい」と言い出したのだからオレがソファで寝ると主張したのだが、文高は「春ちゃんに風邪をひかせるわけにはいかない」と言ってきかなかった。あんなにも折れない文高は生まれて初めて見たものだ。
結局オレが折れて、それ以来ずっと一緒にベッドで眠っている。
ふたりで眠ることを前提に購入したベッドだが「あんまり離れると冬は寒いから……」と文高が主張したため、広々と余裕があるサイズではない。背中合わせで寝転がっても背中がぶつかってしまう。
背中に触れる熱にどきどきしながら目を閉じたものの眠れなかった、別れた日の真夜中。
寝つけない様子だった文高を問いただすと「抱き枕がないと眠れない」とのことだった。だから、文高はいつもオレを抱きしめて眠っていたのか。
このベッドには抱き枕を置くスペースはない。
しょうがないので、眠るときは文高の抱き枕にしていいと言った。あくまでしょうがなくだ。オレもいつの間にか、文高に抱きしめられないと眠れないようになっていたからでは決してない。
ふたりでベッドに入り込んで、暮らし始めた初日から変わらない定位置で、文高に抱きしめられながら横になる。
端から見るとありえない行動をしているだろう。幼馴染で親友であったとしても、ひとつのベッドでこういう寝方はしないと思う。
オレはしばらく文高以外のひとを好きになることはないだろうけれど、文高があの女の子と付き合うようになったらやめなくてはいけないとちゃんと分かっている。だから、それまでは許してほしい。
「春ちゃん、明日ってバイト?」
「……やすみ」
「やった!春ちゃんが前においしいって言ってたチョコのパンあるでしょ?あのパン屋さん、土曜日限定で店内でブランチ食べられるんだって。限定のチョコパンもあるらしいから、明日一緒に食べに行かない?」
「別に、いいけど……」
「うれしい、約束ね」
「はいはい」
文高は付き合っていたときと変わらず、休日はオレと過ごしたがる。
あの子とはその後どうなったのか、聞きたくなくて聞けていない。けれど、きっとまだ付き合ってはいないのだろう。もし付き合っていたとしたら、こうも休日ごとにオレと遊んではいないはずだ。
「……」
「春ちゃん?」
「……もう寝る」
「うん、おやすみ」
眠たくなったから、寒いから。
心の中でそう言い訳をして、文高の胸元に顔を押し当ててぎゅっと近づく。頭をゆっくりと撫でられたような感覚を覚えながら、意識をそっと手放した。
◇ ◆ ◇
文高がオレのバイト先に通うようになって、あっという間に三ヶ月ほど経過した。
別れてすぐのタイミングから文高はここに通うようになったので、オレたちが別れてから三ヶ月ほど経つということだ。あの日から季節が変わった今も、オレたちは毎日同じベッドで眠りについている。
文高がオレ推しの常連客であるとすっかり他のキャストたちに知れ渡っているし、キャストたちからの評判もいい。
キャストが嫌がることを言ったり聞いたりすることは絶対になく、紳士でありやさしい。変な目でも見てこない。人気になるに決まっている。
文高がこの店に通い始めた当初は文高について聞かれることも多かったが、不思議と最近はもう聞かれないとふと気がついた。攻略難易度が高い人間であると思ったのかもしれない。
文高は身長が高くて顔も整っている。おまけに声も良くて誰に対してもやさしいので、女の子に非常によくモテるのだ。
そんな男が幼少期からずっと好きだったのはオレひとりだけで、他の人の告白は断り続けていたというのが今考えて見るとうそのようだ。別れてからの文高の恋愛関係は知らないけれど、たぶん、特定の相手はまだいないと思う。
「……あの、文高さん」
「はい」
「ボクのバースデーイベントの、お知らせがあるんですが……」
店長から課されている、バースデーイベントのお知らせを文高にも行う。来ないでほしい気持ちでいっぱいだが、オレ推しの常連客である文高に伝えないのはおかしいだろう。
「ハルさん、誕生日近いんですね」
「はい。えっと、ちょうど二週間後で……」
「……へえ、そうなんですね」
ハルの誕生日は、オレの本当の誕生日の前日だ。
オレがこの店で働いているのは親以外は知らない。文高にも未だに隠し通せている。
「誕生日という大きすぎる個人情報を伝えてしまうと、バイトをしていることを隠している周囲にバレる確率が上がるから変えたほうがいい」という先輩たちからのアドバイスに従って、本当の誕生日の前日にした。本当の誕生日と離れすぎると忘れてしまいそうになるので、ちょうどいい日に設定したと思っている。
「オリジナルのバースデーグッズの販売があったり、ちょっと特別な催しがあったりします」
「俺、来ていいんですか?」
「も、もちろんです。もし、その日に用事がなければ……」
文高はすこし考える仕草をする。
オレの誕生日の前日、文高にバイトがないことは共有カレンダーで知っていた。
きっと店に来るのだろうと思っていると「すみません、その日は外せない予定があって……」と申し訳なさそうな表情で言われてしまった。バイトは休みでも、オレが知らない、知らされていない予定があるらしい。
「えっ……」と口からこぼれ落ちた動揺の言葉は、思わずオレの素が出てしまっていた。
分かりやすくショックを受けている。文高には文高の人間関係があるし、ハルを優先する義理はない。
「残念、です……」と紡いだ言葉は、オレの心からの本音だ。
次の日の「春希」の誕生日当日、今年は一緒に過ごすことはないのだろう。特に約束をしていないので、祝われることもない可能性がある。春希ではなくてハルでもいいから、文高に祝ってほしかった。
オレはどうしようもなくわがままで、文高に甘えすぎだ。本当の心の中の言葉は、十分の一も文高に伝えられないのに。
「本当にすみません。いつか埋め合わせさせてください。……あ、そのオリジナルグッズって、当日以外にも買えたりしませんか?」
「えっと、一応買えますけど……」
ついこのあいだ、カメラマンにスタジオで撮ってもらったばかりのオレの写真がデカデカと印刷されているグッズだ。Tシャツを始めブロマイドやらうちわやらグッズの種類は多岐に渡るが、ひとつでもあの家に置かれると思うと阻止したい。
「じゃあ、全部三つずつ予約させてください。お金、先払いであれば今日払います」
「……ここだけの話ですが、どのグッズもちょっと高いんですよ。せめて、一つずつで良いのではないでしょうか」
「いえ、使う用と保存用と予備用で三つは必要ですよ」
「は、はあ……」
お店に悪いし、売れれば売れるほどオレにバックが入るのであまり大きな声では言えないが、なにもこんな高いグッズをたくさん買うことはないのではないか。
オレの顔がプリントされているTシャツを洗濯するのも干すのも、文高が着ているのを見るのもかなり心にくるものがある。全部買うと言って聞かない文高は、グッズ代を全額払ってからオレたちの家に上機嫌で帰っていった。
「……ただいま」
帰りたくなくても、オレが帰る家は文高も暮らすこの家しかない。
別れた日の翌日よりもその他の日よりも、今日が一番帰りたくなかった。気が重い。
オレはそろそろ、文高の最近の恋愛事情をちゃんと聞かなくてはいけない。
別れた元恋人たちが、いくら同性の幼馴染とはいえ、同じベッドで眠っているだなんて文高の想い人がいたらいい気はひとつもしないだろう。オレがいるこの場所を、誰かに渡さなくてはならない日はきっと近い。
「春ちゃんお帰り!夜は冷えるねー……春ちゃん?」
「……」
「どうしたの、何かあった?」
いつものように玄関先まで出迎えに来てくれた文高が、しゃがみ込んでオレの両手をぎゅっと握りしめる。俯いているオレと目を合わして「いやなことでもあった?」とやさしくやさしく聞かれて、ぶわっと感情が吹き出した。
「オ、オレっ、もう、文高といたくない……!」
「えっ、なんで!?俺、何かいやなことしちゃった……?」
「だって、もうオレ、文高と一緒にいちゃだめだから……っ、オレ、オレ、いやなやつだ……」
「どうしたの、春ちゃん、落ち着いて」
立ち上がった文高にぎゅっと抱きしめられる。
ベッドの中以外でこうやって文高に抱きしめられたのは、別れてから初めてだ。一番好きな体温と嗅ぎ慣れた匂いに安心する。
文高はひどい。やさしくない。ずるい。
ぐりぐりと文高の胸元に感情と共に吹き出した涙を押しつける。文高が着ているオレとお揃いのパジャマは、オレの涙でぐちゃぐちゃだ。
「オレ、文高の好きな子にっ、文高と暮らしてほしくない……」
「うん?」
「オレ、オレは、ハルはオレで……」
「うん」
「あの、一番最初に一緒に帰宅した子、前に駅ビルに一緒にいた子、好きなんでしょ」
「……」
涙がぼたぼたと止まらないせいでひくひくと言葉が詰まってしまう。情けない。こんなときくらいはっきり、ちゃんと自分の気持ちを伝えたいのに。
落ち着いて、と言うように背中をとんとんと叩かれる。
文高は、小さい頃からオレの感情が吹き出して彼に当たり散らすときに毎回これをしてくれる。すっかり安心するようになった行為に、だんだんと詰まっていた言葉が解かれていく。
「……色々と勘違いしてるみたいだから、俺の話、聞いてもらってもいい?」
「…………ん」
何が勘違いなのかは分からないが、すんすんと鼻を啜りながらぎゅうぎゅうと文高に抱きつく。これが最後の抱擁になるかもしれない。この際だから存分に抱きついておこうと決めた。
「ここ、寒いからリビングに移動しよ」と言う文高にくっついて離れようとしないオレに呆れることなく、オレの身体を軽々と抱え上げた文高にリビングまで連れてこられた。リビングに漂う温かい空気と美味しそうな夕飯の匂いに、また涙がこぼれ落ちた。じくじくと胸が痛む。オレはこれを、手放さないといけない。
「……まず、春ちゃんが見た女の子のことなんだけど」
「……」
「あの子はメイド喫茶とかに詳しい子なんだ。彼氏もいるし、彼氏は俺も仲いい友達で」
「……うん」
「俺が恋人と同棲してるのももちろん知ってる。見えなかったかもしれないけど、駅ビルにいたときかな。あの日はその子の彼氏も一緒にいたよ」
「…………」
「それで、俺の恋人がメイド喫茶で働いてるんだけど行ったことがなくて、作法も分からないから付き合ってほしいってお願いしてたんだ。あの日はその話と前もってお礼をしてたの。友達には『居心地悪そうから俺はパス、ふたりで行ってきて』って言われて、俺とあの子のふたりで行くことになったんだけど……」
「……ちょ、ちょっと……ちょっとまって」
「うん?」
文高の話の雲行きが怪しくなってきている。否、怪しい。
文高の言い分だと、オレのバイト先があのメイド喫茶だと初めから知っていた上で、文高は通っていたように聞こえる。
「……文高、オレがハルだって、気づいてたの……?」
「当たり前でしょ。春ちゃんは隠したいみたいだったから、知らないフリしてたけど……」
「ど、どうして……いつから?」
「バイト先がメイド喫茶だって知ったのは一緒に暮らし始めてから。春ちゃんの部屋の掃除も俺がしてたでしょ」
「う……」
文高は家事全般が非常に得意だ。
おんぶにだっこでご飯以外の家事も文高の担当になることが多かった。掃除をする過程でバイトに関する何かを見てしまったのだろう。文高に甘えていたのはオレなので、オレにとやかく言う資格はない。
全部全部、オレがひとりで空回っていたらしい。
じわじわと顔に熱が集まる。あつい。きっと真っ赤に変色してしまっているだろう。
文高に見られない体勢でよかった。ぐりぐりと顔を押しつける。
「……オレ、天邪鬼じゃん」
「うん?」
「ハルは、素直だったでしょ……?文高は、素直な子が、好きなんだろうって思って……」
「どんな春ちゃんでも好きだよ。春ちゃんだから好き」
「じゃあ、じゃあなんで、あんなにあっさりオレが別れるって言ったの受け入れたの……?俺のこと、もう好きじゃないんでしょ!」
「だって春ちゃん、俺が引き止めたら嫌って言って聞かないでしょう。それならもっともっと甘やかして、俺にお世話される生活に慣れきって、この家以外で生活できなくなればいいって思ったんだよね」
「……っ、」
「それに、俺は別れるって言ってないよ。春ちゃんは別れたつもりでいたみたいだから、合わせてたけど」
「…………」
「ずるい男でごめんね。……春ちゃん、もう俺とは一緒に暮らしたくない?俺のこと、もう好きじゃない?」
きゅ、と縋るように、解けそうなやさしい力で抱きしめられる。文高、オレのこと大好きじゃん。
「っ好きじゃなかったら、とっくに実家に帰ってる!!!!」
ぎゅうぎゅうと力を入れて抱きしめる。離してあげない。
ねえ、文高、ずっとオレと一緒にいてよ。もうオレはこの家以外で生活したくないよ。
練習しているものの、まだまだ本音は言えそうにない。ぐるぐると胸の中で詰まっている言葉を音にする代わりに、くちびるをくっつけ合わせた。ひさしぶりに触れたやわらかな感覚と熱に、なんだか泣きそうになる。
「春ちゃん、泣かないで」
「泣いてない」
「えっとほら……実は春ちゃんの誕生日当日の予定、もう決めてあって」
「……え」
「誕生日当日はバイト入れてないでしょう?前日から準備したいから、お店には行けそうにないんだけど……」
びっくりして涙が引っ込む。
今年は一緒に過ごす約束なんてしていないのに、文高の中では一緒に過ごす日として決められていたらしい。今年は文高に祝ってもらえないだろうと思いながらも期待していたのが、彼にはバレバレだったのかもしれない。
「今年はこれまでで一番盛大にするから。楽しみにしてて」
「……ん」
「涙、引っ込んだ?」
「…………びっくりして引っ込んだ」
「そう、よかった」
涙のあとを拭うように目元にゆっくりとキスされる。
「……目じゃない」と言うオレに「はいはい」と嬉しそうに言いながらくちびるに落とされたキスに「もっと」と言えたので褒めてほしい。なんてね。
了



