怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 膳の器が空で戻るようになって、三日が過ぎた頃。
 椀の底に、飯粒はひとつも残らなかった。
 水屋で炊くようになってから、絃羽の膳は運ばれてこなくなっている。わたくしの分は水屋で済ませますので、と宗次に伝えてあるのだ。
 絃羽の部屋には、毎晩、火の入った手焙りが差し入れられる。殿下のお言いつけだそうだ。
 篝の部屋の火鉢には、絃羽が別の炭で火を入れた。入れるなとは言われているが、やめろとも言われていない。翌朝、灰だけになっている日もあり、赤いままの日もあった。消す日と消さない日の見分けは、まだ付いていない。
 その日、七つ刻に、絃羽は目を覚ました。
 畳の上で腕立てを二百、音の出ない型だけを済ませる。

(腕立てだけでは身体が鈍ってしまいますね……どういたしましょう?)

 宮でぶら下がるわけにもいかないし、宮で四股を踏むわけにもいかない。困ったものだ。

(あ、そうでした。アレがありましたね。やってみましょうか)

 記憶の中を辿って、蔵の書物の一節を思い出す。
 絃羽はふう、と白い息を一つ吐き、畳の真ん中に立つ。両足を肩幅まで軽く開き、すうっと息を吸いながら、腰を真下へと落としていった。柔らかな着物の裾が衣擦れの音を立て、深く、深く、尻が足首に触れる寸前まで重心を沈み込ませる。
 深屈伸だ。四股をやるなら不要かと思っていたが、四股ができない場所ならばこちらがちょうどいい。
 百を数えたところで息を整えて障子を開けると、東の空はもう白みかけていた。木立が、灰色の輪郭になって浮いている。
 硝子戸の外で、白いものが動いていた。
 庭だった。冬枯れの土の上で、篝が杖を振っている。
 外套は、縁側の端の柱に掛けてあった。着物に袴だけの姿を見たのは初めてだ。肩の線は思っていたより薄く、手だけが、いつもと同じ黒い革に包まれていた。
 硝子に、息がひとつ白く付いた。
 樫の杖が、低いところを一度払う。引いて、突く。半歩下がって、また半歩詰めた。それを、幾度も繰り返している。
 絃羽は硝子戸をひと尺だけ引いて、縁側の板に膝をついた。冷えた空気が、足袋の先へ流れ込んでくる。冷たさには、あとから気が付いた。
 足の運びを、目で追った。踏み替えのたびに、腰が同じ高さで据わっている。腕だけで振っていない。重さが、腰から下へまっすぐ落ちていた。

(足腰は、意外にしっかりしていらっしゃる……!?)

 てっきり足腰が弱いものだとばかり思っていたので、意外だった。
 では、お顔の色の悪いのは、どこから来るのだろう。
 残るものは、ふたつしかなかった。召し上がらないことと、お眠りにならないことである。
 杖が、止まった。
 庭の篝が、こちらへ顔を向ける。
 そこで、目が合った。隠れて見ていたわけでもない。絃羽は膝の上の指を揃えて、声を掛けた。

「殿下も、なさるのでございますね」

 杖の先を土へ下ろして、篝は息をひとつ吐いた。白い。

「……人に触れずに済む、間合いの稽古だ」

 間合い。聞き慣れない稽古の名を、口の中でひとつなぞった。

「足腰が、しっかりしておられます」

 その息が、短く二度に分かれて出た。

「少し、足腰の方が……ではなかったのか?」

 ふっと笑みを浮かべて、篝は言った。
 蔵で申し上げたことである。一字も違えずに返ってきた。殿下は、覚えの良い方であるらしい。
 絃羽は敷居へ両手をついて、深く頭を下げた。

「はい。見立て違いでございました。申し訳ございません」

 頭を上げて、指を二本、折ってみせる。

「ですから、あとは……お食事と、お眠りでございますね」
「…………」

 返事は、来なかった。杖を握り直した革の手が、柄の上で止まっていた。
 黙っておられるのは、思い当たるところがあるということだろう。ならば、手はある。

「四股も、いかがです? まずは百から。よくお眠りになれますよ!」

 それに、四股ならば自分が教えることができる。今朝した深屈伸も悪くはなかったが、やはり四股の方が自分的にはしっくりくるのだ。
 杖の先が、土を小さく擦った。

「……踏まない」
「あら」

 断られてしまった。まあ、無理に勧めるものでもない。日を置いて、また勧めることにしよう。
 絃羽は膝を立てて、硝子戸を閉めた。竈に火を入れる刻限だ。
 硝子の向こうでは、杖がまた動きはじめていた。

       *

 三日のうちに、書架の並びは四つに分かれはじめた。本草、農書、和算、それから家の記録だった。
 昼の光は、雨戸を一枚だけ繰った隙間から入る。頁を送るときは、本を日の入るほうへ傾けた。そうすれば、字のほうが明るくなってくれるからだ。
 和算の綴りを膝の上で開いていたとき、戸口の明かりが翳った。
 篝だ。その後ろの廊下に、宗次が控えている。
 絃羽は綴りを閉じて、膝の横へ置いた。

「……本を読んだと言ったな」

 蔵の二階のことである。絃羽は頷いた。

「はい。格子から日が差しますので、昼のうちに」

 外套の前で、黒い革の指が組まれた。

「昼の、どれだけだ」

 刻なら、数えたことがある。

「二刻ほどでございます。冬は、もう少し短くなりますけれど」
「…………」

 篝は、しばらく黙っていた。
 その目が、膝の横の綴りへ落ちる。日の入るほうへ傾けたまま、置いてあった。見られて困るものでは、ないはずだった。
 やがて、声が来た。

「昼餉だ。好きなものを言え」
「はい?」

 好きなもの。絃羽は頬に手を当て、首を傾げる。
 そんなことを訊かれたのは、初めてのことだった。

「では、お味噌を」

 組んだ指が、そこで止まった。

「……味噌汁か?」

 汁ではない。絃羽は首を横に振った。

「いえ。お味噌です、殿下」

 外套の肩が、わずかに落ちた。

「おかずの話をしているんだが」

 問いの意味が、よく分からなかった。

「えっと……お味噌がおかずではないんですか?」
「……は?」

 篝の口が半分開いて、そのまま止まった。
 廊下で、宗次が一礼して下がっていった。篝は、戸口から動かない。
 膝を進めて、申し添えておくことにした。

「朝の膳で味は見ております」
「味見は、食べたうちに入らない」

 篝の声が、低くなった。
 入らないと言われても困る。味見のほうが、数は多いのだ。

「……入らないのですか?」

 革の指が、組んだところでほどけた。

「入らないな」

 言い切られてしまった。
 ほどなく、膳が運ばれてきた。敷居の外へ置かれた膳を、絃羽は中へ引き入れる。
 飯。汁。焼いた魚がひと切れ。香の物。脇に、味噌を盛った小皿がひとつ添えてあった。
 どちらのお指図であるのかは、分からない。絃羽は膳へ手をついて、頭を下げた。
 箸を取る。
 ひと口ごとに、口の中で数えた。二十で飲み込む。

(美味しい……)

 魚の身をほぐすと、皮の下から湯気が立った。味噌は、小皿の縁から箸の先にほんの少しだけ取る。北の隅のものではない。それでも、これはこれで悪くなかった。
 あたたかなご飯に魚、味噌汁。この十年で食べたもので、一番美味しいものかもしれない。
 篝は、戸口に立ったままだった。座る気配はない。廊下の宗次も、下がらずにいる。

(た、食べ辛いのですが……)

 人の居る部屋で食べる飯というのは、何とも落ち着きがなかった。
 絃羽が箸を置いて膳の向こうへ手をつくと、外套の裾がようやく動いた。
 足音は、しなかった。

       *

 日が傾いてから、絃羽は書架のいちばん上の段に取りかかった。
 そこには、埃をかぶった文箱がひとつ残っている。角に金具の付いた、古い箱だった。紐は、結び目のところが切れかけている。
 脚立は、この棟にはなかった。棚板は厚く、継ぎもしっかりしている。梁にぶら下がってきた腕なら、これくらいは知れたものだ。
 絃羽は下の棚板へ足を掛けて、身体を引き上げた。
 すると、戸口から声。

「下りろ」

 片手で最上段の縁を掴んだまま、絃羽は下へ顔を向けた。篝が立っている。

「はい、ただいま」

 返事をしてから、絃羽は文箱へ手を伸ばす。下りる前に、これだけ下ろしておきたかったのだ。
 指が箱の縁へ掛かったとき。
 足の下で棚板が鳴った。
 古い釘が乾いた音を立てて抜けて、板が傾いだ。

(あっ……!)

 咄嗟に片手で縁を掴み直したお陰で、身体は落ちなかった。
 だが、文箱だけが指の先を離れて、棚の縁から滑り落ちていく。
 黒い袖が、下から伸びた。戸口から、三歩ほどの距離。篝が左の腕で、箱を胸へ受け止めた。
 鈍い音がして、箱の角が腕の上を滑る。
 ──金具が、革の口と袖口のあいだを裂いた。
 いつか指先が掠めた、あの隙間だ。

「殿下!? 大丈夫ですか!?」

 絃羽は棚板から飛び降りた。文箱を篝の腕から抜き取って床へ置き、膝を折って、左の腕を下から覗く。素肌の上に細い線が走って、線の縁から赤いものが盛り上がってきていた。

「血が出ております。お手を」

 篝の腕が、後ろへ引かれかけた。

「……触れるな」

 触れずに縛れるものではない。絃羽は帯の間から手拭いを抜いた。昨日、井戸で洗って乾かしてある。

「では、このまま放っておくのですか? 傷が膿んでしまいます」
「…………」

 答えは、なかった。引きかけた腕が、そのままの高さで止まっている。
 止まっているのなら、差し支えはないということだ。
 絃羽は左の手首を下から支えた。指の腹が、革の口の上の素肌に当たる。
 冷たい。それから、脈がひとつ、指を打った。速い。
 痛むのだろう。手早く済ませることにする。
 手拭いを三つに折って傷へ当て、余りを手首へ二度巻き、端を折り込んで留めた。きつく締めすぎないよう、指一本ぶんの緩みを残しておいた。
 篝の腕は、動かなかった。
 巻き終えても、手首を支えたままにしておく。緩みを確かめるには、もう少しかかるからだ。
 頭の上で、声がした。

「……お前、恐ろしくないのか」

 恐ろしい、と言われるほどのものが、この場にあったろうか。絃羽は首を傾げた。

「何がでございましょう?」

 篝は答えなかった。
 外套の袖口から、右の手が上がってくる。左の手首を掴もうとして、巻いた手拭いの上で止まった。革の指が布の端を一度だけ撫でて、離れていく。
 手当てに、障りはなさそうだった。
 そこへ、板を擦る足音が駆け足で近づいてきた。
 書庫の戸口で、宗次が止まる。

「なんと……!!」

 白髪頭が、篝の左の手首と、それを支えている絃羽の手とを、順に見る。それから、動かなくなった。
 何も持っていないその手が、宙で半分上がったままになっている。

「一度なら、たまさかということもございましょうが……」

 言いながら、宗次の声は自分で落ちていった。皺の寄った喉が、ひとつ動く。

「……殿下に触れて、無事だった方は、おりません」
「無事? 何がです?」

 絃羽は手首から指を離して、自分の手を見た。
 どこも、痛くない。指も、掌も、いつも通りだ。ならば、無事でない方が、どこかにいることになる。
 付け根に並んだ胼胝と太い節。甲まで走ったあかぎれ。十年、梁を握ってきた手。

「まあ! そういうことだったんですね!」

 無事ではない、という意図が、ようやくわかった。
 こんな手で傷の上を押さえられて、痛くない人はいない。

「わたくしの手は荒れておりますから、殿下のほうが、お痛うございましたでしょう。大変申し訳ございません」

 絃羽は膝の前で指を揃えて、篝へ頭を下げた。

「……は?」
「へ?」

 篝と宗次が顔を見合わせて、怪訝そうな顔をしていた。

「はい? 違うのですか?」

 絃羽も首を傾げる。
 また何か、変なことを言ってしまったのだろうか。
 結局、その答えは教えてもらえなかった。