絃羽が目を覚ますと、鼻の先に炭の匂いがあった。
夜具の中で、瞬きをひとつする。蔵で覚えのある匂いだ。けれど、ここは蔵ではない。
起き上がると、掛けものの外の空気が、思っていたほど冷たくなかった。試しに息を吐いてみる。白く濁らなかった。
(あら……?)
部屋の隅の火鉢は、昨日と同じく灰のままだった。
それは、障子のほうから来ている。
敷居のすぐ内側に、手焙りがひとつ置かれていた。丸い陶の火入れで、灰の真ん中に炭が三つ、赤くなっている。脇には火箸と、小さな十能が添えてあった。
手焙りの位置は、敷居から手を伸ばして届くところまでだった。それより奥の畳には、誰の手も入っていない。夜のうちに障子を細く開けて、外から差し入れたのだろう。おそらく宗次だ。
(気を遣わせてしまったのでしょうか……?)
絃羽は夜具を出て、角を揃えて畳んだ。
四股は、宮へ来た朝から踏んでいない。畳の上で腕立てを二百、音の出ない型だけを済ませる。掌の下は、昨日の朝ほど冷えていなかった。
腕を伸ばしきったところで、板を擦る小刻みな足音が、縁側を近づいてきて。障子の前で、止まった。
「お目覚めでございますか?」
絃羽は膝を揃えて、障子のほうへ向き直った。
この火はどちらから来たものかと尋ねる。
答えは、すぐには来なかった。
「……殿下の、お言いつけでございます」
殿下の、お言いつけ。
手焙りの縁へ、絃羽は指を一本置いてみた。陶は、ほんのりと温い。
「殿下のお部屋には、火を入れるなと仰せでしたのに?」
障子の向こうで、衣擦れがひとつ動いた。
「……はい」
返事はそれだけで終わった。理由の説明はない。それきり、足音は西へ遠ざかっていった。
(書庫で手がかじかまないように、というお心遣いでございますね)
ありがたいことである。ただ、ありがたく思うのと、そのまま頂戴しておくのとは、別の話だった。
昨夜あちらへ入れた火は、朝までには落ちている。炭の籠も、あちらへ置いてきた。あとは火種さえ運べば、すぐに熾る。
絃羽は火箸で燠をみっつ、十能へ移した。上から灰を薄くかぶせて、道々で散らないようにする。
障子を開けると、縁側はまだ薄暗かった。硝子戸の向こうで、庭の土がうっすらと白んでいる。
十能を胸の前に持って、絃羽は東へ歩き出した。
三歩で、足が止まる。
縁側の真ん中に、篝が立っていた。昨夜と同じ外套の姿で、こちらを向いている。いつから立っていたのかは、分からない。
「どこへ持っていく?」
十能の柄を握り直して、絃羽は答えた。
「殿下のお部屋へ」
外套の袖口で、黒い革の手が半分だけ上がって、止まった。上がったところから先へは、動かない。
「それは、お前の部屋の火だぞ」
「はい。ですから、お返しにまいります」
絃羽は頷いて、十能をわずかに持ち上げてみせた。
篝の足が、半歩横へ滑る。縁側の真ん中が、塞がった。
「返さなくていい」
お言いつけであれば、仕方がない。絃羽は十能を下ろした。
下ろしてから、申し添えておくべきことを思い出す。
「では、殿下のお部屋には、別の炭をいただいてまいりますね」
篝の口が、開いて、閉じた。
「はぁ……」
返事の代わりに、溜め息。けれど、やめろとも言われなかった。やめろと言われていないのであれば、やってよいことである。
絃羽は一礼して、十能を胸へ戻した。燠は、手焙りへ返しておけば昼まで保つ。
(お仕事のあとに、伺いましょう)
来た道を三歩戻って、絃羽は一度だけ振り返った。
篝は、縁側の同じところに立ったままだ。外套の背の向こうから、朝の日が板の目をこちらへ辿ってきていた。
*
膳に気が付いたのは、書庫から出たときだった。
縁側の西の端、引き戸の内側の板の上に、黒い塗りの膳がひとつ置かれている。飯と、汁と、香の物。湯気は、もう立っていなかった。
誰が運んできたのかは、見ていない。
膝をついて、絃羽は汁の椀を両の掌で挟んだ。底へ当てた手に、返ってくるものはない。汁の面では脂が白く固まって、縁のところに皺を寄せていた。
飯の椀の蓋を取ると、粒の角が乾いて、しゃんと立っている。箸は、紙の袋に入ったまま、膳の縁で揃えられていた。
冷めた飯の味なら、覚えがある。手が付かないまま冷めた膳は、初めて見た。
板を擦る足音が、西から近づいてきた。宗次である。絃羽は器を膳へ戻し、膝を膳の脇へ寄せた。
「宗次さん。殿下は、召し上がらないのですか?」
宗次は膳の向こうへ膝をつき、その縁へ両手を掛けた。
「……お下げするのが、わたくしの役目でございまして」
問いに答える形を取りながら、答えになっていない。絃羽は、もうひとつだけ訊いてみた。
「毎日、でございますか?」
膳を持ち上げかけた手が、そのままの高さで止まった。白髪頭は、下がったままだ。
「…………」
宗次は膳を持って、引き戸の向こうへ下がっていった。
残された板の上に、湯気の跡はない。
絃羽は部屋へ戻った。
壁際に、たづの包みがある。氷室宮へ来た晩から、解かずに置いたままだった。中身を知らずにいては、いつまでも役に立たない。手元に何があるのかを、確かめておくべきだった。
膝を揃えて、風呂敷の結び目を引く。四隅を開くと、小ぶりの樽が出てきた。腕へ受けたときの重さの半分は、この樽の厚みだったようだ。
蓋の縁へ、指を掛けて持ち上げる。
──匂いで、分かった。
塩の匂いの底に、豆の甘い匂いが沈んでいる。指を差し入れるまでもなく、どの隅のものかまで知れた。
「……たづさんが、北の隅のを」
蔵にいたころ、小窓から、たづに北の隅のを分けたことが、何度かある。
蓋の縁で、指が止まった。解いた風呂敷は、畳まないまま膝の上に置かれている。
(たづさん……)
どうしてか、目の奥がじんと熱くなって。しばらく、そのままでいた。
小さく息を吐いてから、樽の蓋を戻して、絃羽は立ち上がった。
味噌があるのなら、汁は作れる。だが、作るには、竈が必要だ。
縁側の西の端、引き戸の手前で、廊下は北へ折れていた。
折れた先は短く、突き当たりが板戸になっている。引くと、乾いた埃が舞った。
水屋だった。
竈がふたつ。焚口の奥に、蜘蛛の巣が幾重にも張っている。流しは乾ききって、木の色が白く褪せていた。戸棚を開けると、羽釜と椀がひと揃い、埃をかぶって並んでいる。桶も笊も、置かれた場所から動いた跡がない。
勝手口を押すと、外に井戸があった。釣瓶の縄は、かびてはいない。
引き返し、引き戸も開けた。その先、廊下の途中に、宗次の背があった。
「宗次さん。お米と薪を少し、いただけますでしょうか?」
白髪頭が、ゆっくりと振り返る。
「……柏木様が、炊かれるのでございますか?」
腕の樽を、絃羽は抱え直した。
「はい。お味噌は、ございますので」
宗次の目が、樽と、その先の水屋の戸とを、順にあらためた。口が開いて、言葉にならないまま閉じる。それから、白髪頭が下がった。
ほどなくして。
米を入れた櫃と、細く割った薪がひと束、運ばれてきた。宗次はそれを水屋の戸口の外へ置くと、敷居を越えないまま下がっていく。
櫃と薪を中へ運び入れて、絃羽は帯の間から手拭いを抜き、袖を絞った。
焚口の蜘蛛の巣を払い、灰を掻き出す。井戸の水で羽釜と椀を洗い、流しの木目に残った埃を拭き取った。
米を研ぐ。指の腹で、粒をゆっくり回すように。水は三度替えた。
部屋から手焙りを運んできて、燠を十能へ移す。薪を井桁に組み、その下へ燠を落とした。息を吹くまでもない。薪はよく乾いていて、すぐに炎が立ち上がった。
朝、あちらへは運べなかった火である。
羽釜を掛けて、絃羽は別の鍋に井戸の水を張った。だが、実にするものが見当たらない。湯が立ったら火を弱め、杓子の上で味噌を少しずつ落としていった。北の隅のものは、塩の角が立ったあとから、甘みが遅れて来る。ひと口味を見て、あと少しだけ足した。
飯が噴くまでのあいだ、絃羽は竈の前で頬に手を当てた。
(薪はいつ抜きましょう……?)
とりあえず吹きこぼれの音が変わったところで一本抜き、熾火だけにして蒸らす。抜くのが早ければ芯が残り、遅ければ焦げが立つからだ。
やがて、蓋の縁から白い泡が押し上がった。甘い匂いが、水屋いっぱいに広がっていく。埃の匂いは、もうどこにもなかった。
蒸らしが済むと、絃羽は膳を仕立てた。
戸棚の奥に、黒い塗りの膳が積まれていた。埃を拭き、椀に汁をよそい、飯を高く盛る。
「できました!」
我ながら、いい出来である。しかし、冷めないうちに運ばなければ、ここまでの手間が無駄となる。急いでお運びせねば。
縁側を東へ行くと、篝の部屋の障子は、掌ひとつぶん開いていた。
敷居の外へ膝を折って、絃羽は声を掛けた。返事はない。紙の向こうで、衣擦れがひとつ動いた。
膳を持って、絃羽は敷居を跨いだ。
文机の前に、篝が座っていた。硯も筆も出ていない。相変わらず、外套は着たままだ。
「は……?」
絃羽が膳を畳へ置いて膝をつくと、篝が唖然として立ち上がった。膝をついた者と同じ高さに並ぶのが、お嫌なのかもしれない。
湯気の立つほうを篝へ向けて、絃羽は膳をひと寸だけ進めた。
「殿下。お食事を召し上がっていないですよね」
黒い革の指が、外套の前を掻き合わせた。
「放っておけ」
「無理でございます」
膝の上で、絃羽は指を揃えた。
篝の声が、低くなる。
「なぜだ?」
理由なら、自分でもとうに分かっている。絃羽は顔を上げて、篝の目を正面から見た。
「弱っているものを見ると、つい。持病のようなものでございまして」
篝の喉が、小さく上下した。
「……弱っている、ときたか」
言って、篝は苦笑いを浮かべた。
湯気は、もう細くなっている。絃羽は膳をもう半寸だけ篝のほうへ寄せて、膝を引いた。
「冷めないうちに、どうぞ」
それだけ言って、絃羽は敷居の外へ出た。障子は、掌ひとつぶん開いたままにしておいた。
書庫へ戻り、書架の一段目に取りかかる。左の端から抜いて、標題をあらため、元の場所へ戻す。並びの決まりを見つけるのが先で、動かすのはそれからだ。
三十冊ほど数えたところで、絃羽は手を止めた。膳を下げに行く刻限である。
縁側を東へ戻ると、篝の部屋の障子は閉まっていた。
膳は、その前の板の上に出されている。
膝をついて、汁の椀の蓋を取ってみた。
「あっ」
思わず声が漏れて、自分でも顔が明るくなったのがわかった。
空だったのだ。飯の椀も、粒がひとつ残っていなかった。
椀の底へ、指を当ててみる。まだ、温かかった。
(……召し上がってくださったんですね)
安堵の吐息と、言いようのないあたたかさが胸の内に広がっていった。
板を擦る足音が、また西から近づいてくる。
宗次は、絃羽の手元の膳を見た。空の椀がふたつ、並んでいる。
「なんと……!」
膳へ伸びた手が、縁のところで止まった。節の太い指が、塗りの上でしばらく動かない。宗次の息が、ひとつだけ深くなった。
やがて、何も言わずに膳を受け取り、宗次は胸の高さで持ち直す。
障子の内から、声がした。
「……お前は、食べたのか?」
絃羽は障子のほうへ膝を向け、帯の前で指を揃えた。
「はい。お味見で、十分でございます」
夜具の中で、瞬きをひとつする。蔵で覚えのある匂いだ。けれど、ここは蔵ではない。
起き上がると、掛けものの外の空気が、思っていたほど冷たくなかった。試しに息を吐いてみる。白く濁らなかった。
(あら……?)
部屋の隅の火鉢は、昨日と同じく灰のままだった。
それは、障子のほうから来ている。
敷居のすぐ内側に、手焙りがひとつ置かれていた。丸い陶の火入れで、灰の真ん中に炭が三つ、赤くなっている。脇には火箸と、小さな十能が添えてあった。
手焙りの位置は、敷居から手を伸ばして届くところまでだった。それより奥の畳には、誰の手も入っていない。夜のうちに障子を細く開けて、外から差し入れたのだろう。おそらく宗次だ。
(気を遣わせてしまったのでしょうか……?)
絃羽は夜具を出て、角を揃えて畳んだ。
四股は、宮へ来た朝から踏んでいない。畳の上で腕立てを二百、音の出ない型だけを済ませる。掌の下は、昨日の朝ほど冷えていなかった。
腕を伸ばしきったところで、板を擦る小刻みな足音が、縁側を近づいてきて。障子の前で、止まった。
「お目覚めでございますか?」
絃羽は膝を揃えて、障子のほうへ向き直った。
この火はどちらから来たものかと尋ねる。
答えは、すぐには来なかった。
「……殿下の、お言いつけでございます」
殿下の、お言いつけ。
手焙りの縁へ、絃羽は指を一本置いてみた。陶は、ほんのりと温い。
「殿下のお部屋には、火を入れるなと仰せでしたのに?」
障子の向こうで、衣擦れがひとつ動いた。
「……はい」
返事はそれだけで終わった。理由の説明はない。それきり、足音は西へ遠ざかっていった。
(書庫で手がかじかまないように、というお心遣いでございますね)
ありがたいことである。ただ、ありがたく思うのと、そのまま頂戴しておくのとは、別の話だった。
昨夜あちらへ入れた火は、朝までには落ちている。炭の籠も、あちらへ置いてきた。あとは火種さえ運べば、すぐに熾る。
絃羽は火箸で燠をみっつ、十能へ移した。上から灰を薄くかぶせて、道々で散らないようにする。
障子を開けると、縁側はまだ薄暗かった。硝子戸の向こうで、庭の土がうっすらと白んでいる。
十能を胸の前に持って、絃羽は東へ歩き出した。
三歩で、足が止まる。
縁側の真ん中に、篝が立っていた。昨夜と同じ外套の姿で、こちらを向いている。いつから立っていたのかは、分からない。
「どこへ持っていく?」
十能の柄を握り直して、絃羽は答えた。
「殿下のお部屋へ」
外套の袖口で、黒い革の手が半分だけ上がって、止まった。上がったところから先へは、動かない。
「それは、お前の部屋の火だぞ」
「はい。ですから、お返しにまいります」
絃羽は頷いて、十能をわずかに持ち上げてみせた。
篝の足が、半歩横へ滑る。縁側の真ん中が、塞がった。
「返さなくていい」
お言いつけであれば、仕方がない。絃羽は十能を下ろした。
下ろしてから、申し添えておくべきことを思い出す。
「では、殿下のお部屋には、別の炭をいただいてまいりますね」
篝の口が、開いて、閉じた。
「はぁ……」
返事の代わりに、溜め息。けれど、やめろとも言われなかった。やめろと言われていないのであれば、やってよいことである。
絃羽は一礼して、十能を胸へ戻した。燠は、手焙りへ返しておけば昼まで保つ。
(お仕事のあとに、伺いましょう)
来た道を三歩戻って、絃羽は一度だけ振り返った。
篝は、縁側の同じところに立ったままだ。外套の背の向こうから、朝の日が板の目をこちらへ辿ってきていた。
*
膳に気が付いたのは、書庫から出たときだった。
縁側の西の端、引き戸の内側の板の上に、黒い塗りの膳がひとつ置かれている。飯と、汁と、香の物。湯気は、もう立っていなかった。
誰が運んできたのかは、見ていない。
膝をついて、絃羽は汁の椀を両の掌で挟んだ。底へ当てた手に、返ってくるものはない。汁の面では脂が白く固まって、縁のところに皺を寄せていた。
飯の椀の蓋を取ると、粒の角が乾いて、しゃんと立っている。箸は、紙の袋に入ったまま、膳の縁で揃えられていた。
冷めた飯の味なら、覚えがある。手が付かないまま冷めた膳は、初めて見た。
板を擦る足音が、西から近づいてきた。宗次である。絃羽は器を膳へ戻し、膝を膳の脇へ寄せた。
「宗次さん。殿下は、召し上がらないのですか?」
宗次は膳の向こうへ膝をつき、その縁へ両手を掛けた。
「……お下げするのが、わたくしの役目でございまして」
問いに答える形を取りながら、答えになっていない。絃羽は、もうひとつだけ訊いてみた。
「毎日、でございますか?」
膳を持ち上げかけた手が、そのままの高さで止まった。白髪頭は、下がったままだ。
「…………」
宗次は膳を持って、引き戸の向こうへ下がっていった。
残された板の上に、湯気の跡はない。
絃羽は部屋へ戻った。
壁際に、たづの包みがある。氷室宮へ来た晩から、解かずに置いたままだった。中身を知らずにいては、いつまでも役に立たない。手元に何があるのかを、確かめておくべきだった。
膝を揃えて、風呂敷の結び目を引く。四隅を開くと、小ぶりの樽が出てきた。腕へ受けたときの重さの半分は、この樽の厚みだったようだ。
蓋の縁へ、指を掛けて持ち上げる。
──匂いで、分かった。
塩の匂いの底に、豆の甘い匂いが沈んでいる。指を差し入れるまでもなく、どの隅のものかまで知れた。
「……たづさんが、北の隅のを」
蔵にいたころ、小窓から、たづに北の隅のを分けたことが、何度かある。
蓋の縁で、指が止まった。解いた風呂敷は、畳まないまま膝の上に置かれている。
(たづさん……)
どうしてか、目の奥がじんと熱くなって。しばらく、そのままでいた。
小さく息を吐いてから、樽の蓋を戻して、絃羽は立ち上がった。
味噌があるのなら、汁は作れる。だが、作るには、竈が必要だ。
縁側の西の端、引き戸の手前で、廊下は北へ折れていた。
折れた先は短く、突き当たりが板戸になっている。引くと、乾いた埃が舞った。
水屋だった。
竈がふたつ。焚口の奥に、蜘蛛の巣が幾重にも張っている。流しは乾ききって、木の色が白く褪せていた。戸棚を開けると、羽釜と椀がひと揃い、埃をかぶって並んでいる。桶も笊も、置かれた場所から動いた跡がない。
勝手口を押すと、外に井戸があった。釣瓶の縄は、かびてはいない。
引き返し、引き戸も開けた。その先、廊下の途中に、宗次の背があった。
「宗次さん。お米と薪を少し、いただけますでしょうか?」
白髪頭が、ゆっくりと振り返る。
「……柏木様が、炊かれるのでございますか?」
腕の樽を、絃羽は抱え直した。
「はい。お味噌は、ございますので」
宗次の目が、樽と、その先の水屋の戸とを、順にあらためた。口が開いて、言葉にならないまま閉じる。それから、白髪頭が下がった。
ほどなくして。
米を入れた櫃と、細く割った薪がひと束、運ばれてきた。宗次はそれを水屋の戸口の外へ置くと、敷居を越えないまま下がっていく。
櫃と薪を中へ運び入れて、絃羽は帯の間から手拭いを抜き、袖を絞った。
焚口の蜘蛛の巣を払い、灰を掻き出す。井戸の水で羽釜と椀を洗い、流しの木目に残った埃を拭き取った。
米を研ぐ。指の腹で、粒をゆっくり回すように。水は三度替えた。
部屋から手焙りを運んできて、燠を十能へ移す。薪を井桁に組み、その下へ燠を落とした。息を吹くまでもない。薪はよく乾いていて、すぐに炎が立ち上がった。
朝、あちらへは運べなかった火である。
羽釜を掛けて、絃羽は別の鍋に井戸の水を張った。だが、実にするものが見当たらない。湯が立ったら火を弱め、杓子の上で味噌を少しずつ落としていった。北の隅のものは、塩の角が立ったあとから、甘みが遅れて来る。ひと口味を見て、あと少しだけ足した。
飯が噴くまでのあいだ、絃羽は竈の前で頬に手を当てた。
(薪はいつ抜きましょう……?)
とりあえず吹きこぼれの音が変わったところで一本抜き、熾火だけにして蒸らす。抜くのが早ければ芯が残り、遅ければ焦げが立つからだ。
やがて、蓋の縁から白い泡が押し上がった。甘い匂いが、水屋いっぱいに広がっていく。埃の匂いは、もうどこにもなかった。
蒸らしが済むと、絃羽は膳を仕立てた。
戸棚の奥に、黒い塗りの膳が積まれていた。埃を拭き、椀に汁をよそい、飯を高く盛る。
「できました!」
我ながら、いい出来である。しかし、冷めないうちに運ばなければ、ここまでの手間が無駄となる。急いでお運びせねば。
縁側を東へ行くと、篝の部屋の障子は、掌ひとつぶん開いていた。
敷居の外へ膝を折って、絃羽は声を掛けた。返事はない。紙の向こうで、衣擦れがひとつ動いた。
膳を持って、絃羽は敷居を跨いだ。
文机の前に、篝が座っていた。硯も筆も出ていない。相変わらず、外套は着たままだ。
「は……?」
絃羽が膳を畳へ置いて膝をつくと、篝が唖然として立ち上がった。膝をついた者と同じ高さに並ぶのが、お嫌なのかもしれない。
湯気の立つほうを篝へ向けて、絃羽は膳をひと寸だけ進めた。
「殿下。お食事を召し上がっていないですよね」
黒い革の指が、外套の前を掻き合わせた。
「放っておけ」
「無理でございます」
膝の上で、絃羽は指を揃えた。
篝の声が、低くなる。
「なぜだ?」
理由なら、自分でもとうに分かっている。絃羽は顔を上げて、篝の目を正面から見た。
「弱っているものを見ると、つい。持病のようなものでございまして」
篝の喉が、小さく上下した。
「……弱っている、ときたか」
言って、篝は苦笑いを浮かべた。
湯気は、もう細くなっている。絃羽は膳をもう半寸だけ篝のほうへ寄せて、膝を引いた。
「冷めないうちに、どうぞ」
それだけ言って、絃羽は敷居の外へ出た。障子は、掌ひとつぶん開いたままにしておいた。
書庫へ戻り、書架の一段目に取りかかる。左の端から抜いて、標題をあらため、元の場所へ戻す。並びの決まりを見つけるのが先で、動かすのはそれからだ。
三十冊ほど数えたところで、絃羽は手を止めた。膳を下げに行く刻限である。
縁側を東へ戻ると、篝の部屋の障子は閉まっていた。
膳は、その前の板の上に出されている。
膝をついて、汁の椀の蓋を取ってみた。
「あっ」
思わず声が漏れて、自分でも顔が明るくなったのがわかった。
空だったのだ。飯の椀も、粒がひとつ残っていなかった。
椀の底へ、指を当ててみる。まだ、温かかった。
(……召し上がってくださったんですね)
安堵の吐息と、言いようのないあたたかさが胸の内に広がっていった。
板を擦る足音が、また西から近づいてくる。
宗次は、絃羽の手元の膳を見た。空の椀がふたつ、並んでいる。
「なんと……!」
膳へ伸びた手が、縁のところで止まった。節の太い指が、塗りの上でしばらく動かない。宗次の息が、ひとつだけ深くなった。
やがて、何も言わずに膳を受け取り、宗次は胸の高さで持ち直す。
障子の内から、声がした。
「……お前は、食べたのか?」
絃羽は障子のほうへ膝を向け、帯の前で指を揃えた。
「はい。お味見で、十分でございます」



