怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 宗次が一礼して、洋燈を引いた。
 障子が閉まると、明るい輪は宗次の足音と一緒に、廊下を遠ざかっていく。篝の足音は、聞こえなかった。いつ離れたのかも、分からない。
 部屋から、灯りがなくなった。暗がりには、目より先に耳が馴染む。
 絃羽はしばらく畳の上に立ったまま、じっとしていた。
 やがて、障子がうすく白んでいるのに気付く。

(えっ……月!?)

 桟の一枡一枡が、紙の向こうから淡く照らされていた。蔵の格子の、優に六つ分はある。
 蔵で月を待つときは、格子の端へ頬を寄せなければならなかった。ここでは、どこに座っていても、月のほうから入ってくる。
 待たずに済む月は、初めてだ。
 部屋の隅の火鉢へ、膝を進めた。指を差し入れると、灰は乾いて、底まで冷えていた。炭は、ひとかけも残っていなかった。
 炭の来ない冬には、覚えがある。困りごとの数には、入れなかった。
 灰から指を抜いて、手のひらで軽く払う。
 抱えてきた包みを壁際へ下ろすと、畳がわずかに沈んだ。
 廊下を、小刻みな足音が戻ってきた。洋燈の輪が障子の紙を渡ってきて、敷居の前で止まる。板の上に何かを置く音がして、輪はまた遠ざかっていった。

(何でしょうか?)

 障子を引くと、敷居の外に膳がひとつ置かれていた。飯と、汁と、香の物。月の明かりの中で、汁の椀から湯気が白く立っている。

(わたくしの食事、ですよね……?)

 周囲を見渡してみるが、人の気配はない。状況から見て、絃羽のために用意されたと考えるのが自然だ。
 とりあえず、膳を中へ引き入れた。汁の椀を両の掌で包み、持ち上げて、底を確かめる。掌に、温みが移ってきた。

(あったかい……)

 手を合わせてから、飯をひと口含む。温かい飯は、十を数えるうちから、もう甘かった。それでも、二十まで数えてから飲み込んだ。

「ご馳走様でした」

 空になった膳は、蔵でそうしてきたとおり、敷居の外へ滑らせて戻しておく。ほどなく、同じ足音がもう一度来て、引き取っていった。
 押し入れの襖を開けると、夜具がひと組、畳まれていた。
 敷くのは、部屋の真ん中ではない。障子の際の、壁に寄った隅。蔵では、格子の下がそうだった。月の入るところで眠れば、明け方の白みにも、すぐに目が覚めるからだ。
 敷布団を延べて、掛けるものを二つに折り、厚みを倍にした。膝から肩までは、それで足りる。足の先ははみ出すが、そこは丸くなれば問題ないだろう。
 足袋は、履いたままにしておいた。布一枚で、足の裏があれほど違うのだ。わざわざ脱ぐことはない。
 夜具の上に膝を揃えたところで、廊下の板が鳴った。
 足音だ。今度は、聞こえた。重く、ゆっくりとしていた。一歩ごとの間が長い。
 宗次の足は、床を擦るように小刻みだった。これは、背の高い人の歩幅だ。
 障子の前で、足音が止まった。月を背にした影が、紙の上に黒く立っていた。

「起きているか?」

 影から届いた声は、低かった。

「はい」

 絃羽は背を伸ばし、答えた。
 すると、障子が細く開いた。桟に当てられていたのは、黒い袖の肘だった。
 月の光を半身に受けた篝の顔は、夕日の下で見たときよりも、なお白い。唇も、相変わらず色が薄かった。
 隙間から、篝の目が部屋の中を一巡りする。空の火鉢を過ぎ、壁際の包みを過ぎて、障子の際の夜具で止まった。

「……灯りはどうした?」

 問われて、絃羽は顔を横へ向けた。
 紙いっぱいに、月が白く溜まっている。

「ございません。ですが、障子から月が入りますので」
「は……?」

 篝の口が、薄く開いたまま止まった。
 彼の目が、また夜具の上へ落ちる。

「では、なぜ夜具を二枚重ねる?」
「明け方に一度起きて、型を繰り返せば、朝まで保ちますので」

 膝の上で、指を一本ずつ折っていって答えた。
 答えるのに、迷うところはなかった。手順なら、これまでの冬で十分わかっている。
 そこで、篝の眉が僅かに寄った。

「型? 型とは何だ?」
「はい。四股と、腕立てでございます」

 絃羽の肩が、心持ち上がる。こういった話なら、得意だ。
 部屋の隅へ、篝の顔が向いた。火鉢のあるほうだった。

「いや、ここには火が……」

 言いかけて、止まった。
 続きが来ない。お言いつけの頭だけが、宙に残っていた。

「はい? 火、でございますか?」

 居住まいを正して、絃羽は続きを待った。お言いつけなら、聞き漏らすわけにはいかない。
 篝の喉が、ひとつ動いた。

「いや……なんでもない」

 声は、さっきより一段低い。言いつけの半分は、宙に残ったままになった。
 しばらく黙ったあと、篝がまた口を開いた。

「お前はなぜ、そこまで体を鍛える?」

 自分の手へ、絃羽は目を落とした。月の白さの中で、指の付け根の胼胝が、小さな影を作っている。

「……冬に死なずに済んだのは、わたくしの心根ではございません。もちろん、根性でも」

 もう一段、篝の声が沈んだ。

「では、何だ?」

 答えなら、とうに申し上げてある。首を傾けて、絃羽は口元を綻ばせた。

「さっきお教えしたではありませんか、殿下」
「む? どういうことだ」

 篝の眉が、ぴくりと動いた。
 思い出していただけないらしい。絃羽は、少しだけ身を乗り出した。声が、ひとりでに弾む。

「筋肉でございますよっ、殿下」

 篝の顎が、わずかに落ちた。

「は?」

 蔵の外の方は、どうもこの話をすぐには分かってくださらない。背筋を伸ばし直し、篝をじっと見据えた。揃えた指に、自然と力が入る。

「心根や根性では、暖かくなりませんので。ですが、鍛えていれば、自然と暖まります」

 言い終えて、小さく頷いた。十年かけて確かめたことだ。こればかりは、間違いはない。

「…………」

 篝は、長いこと黙っていた。月を受けた側の頬が、少しも動かない。そして──。

「そういう、ことか」

 殆ど息みたいな声だった。
 それから、障子が音もなく閉じられた。紙の上の影が横へ滑って、離れていく。重い足音が、三つ、四つ。
 そこで、止まった。
 次の一歩は、いつまで耳を澄ませても聞こえてこなかった。

(殿下も、お休みになれればよいのですが)

 二つに折った掛けものの中へ、絃羽は身体を滑り込ませた。膝を胸へ引き寄せると、足袋の先が、布団の端からはみ出した。
 障子の紙には、月がまだ白く溜まっている。
 蔵の夜は、閂の音で閉まるものだった。外から掛かる、あの乾いた音がして、それきり、朝まで誰の音もしない。
 今夜は、まだ閉まっていなかった。
 戸の外には、閂の代わりに、人がひとり立っていた。
 まぶたのほうが、先に重くなってくる。蔵の時より、ずっと早い。足袋のおかげだろうか。
 眠りに落ちるまで、廊下の足音は、止まったままだった。