宗次が一礼して、洋燈を引いた。
障子が閉まると、明るい輪は宗次の足音と一緒に、廊下を遠ざかっていく。篝の足音は、聞こえなかった。いつ離れたのかも、分からない。
部屋から、灯りがなくなった。暗がりには、目より先に耳が馴染む。
絃羽はしばらく畳の上に立ったまま、じっとしていた。
やがて、障子がうすく白んでいるのに気付く。
(えっ……月!?)
桟の一枡一枡が、紙の向こうから淡く照らされていた。蔵の格子の、優に六つ分はある。
蔵で月を待つときは、格子の端へ頬を寄せなければならなかった。ここでは、どこに座っていても、月のほうから入ってくる。
待たずに済む月は、初めてだ。
部屋の隅の火鉢へ、膝を進めた。指を差し入れると、灰は乾いて、底まで冷えていた。炭は、ひとかけも残っていなかった。
炭の来ない冬には、覚えがある。困りごとの数には、入れなかった。
灰から指を抜いて、手のひらで軽く払う。
抱えてきた包みを壁際へ下ろすと、畳がわずかに沈んだ。
廊下を、小刻みな足音が戻ってきた。洋燈の輪が障子の紙を渡ってきて、敷居の前で止まる。板の上に何かを置く音がして、輪はまた遠ざかっていった。
(何でしょうか?)
障子を引くと、敷居の外に膳がひとつ置かれていた。飯と、汁と、香の物。月の明かりの中で、汁の椀から湯気が白く立っている。
(わたくしの食事、ですよね……?)
周囲を見渡してみるが、人の気配はない。状況から見て、絃羽のために用意されたと考えるのが自然だ。
とりあえず、膳を中へ引き入れた。汁の椀を両の掌で包み、持ち上げて、底を確かめる。掌に、温みが移ってきた。
(あったかい……)
手を合わせてから、飯をひと口含む。温かい飯は、十を数えるうちから、もう甘かった。それでも、二十まで数えてから飲み込んだ。
「ご馳走様でした」
空になった膳は、蔵でそうしてきたとおり、敷居の外へ滑らせて戻しておく。ほどなく、同じ足音がもう一度来て、引き取っていった。
押し入れの襖を開けると、夜具がひと組、畳まれていた。
敷くのは、部屋の真ん中ではない。障子の際の、壁に寄った隅。蔵では、格子の下がそうだった。月の入るところで眠れば、明け方の白みにも、すぐに目が覚めるからだ。
敷布団を延べて、掛けるものを二つに折り、厚みを倍にした。膝から肩までは、それで足りる。足の先ははみ出すが、そこは丸くなれば問題ないだろう。
足袋は、履いたままにしておいた。布一枚で、足の裏があれほど違うのだ。わざわざ脱ぐことはない。
夜具の上に膝を揃えたところで、廊下の板が鳴った。
足音だ。今度は、聞こえた。重く、ゆっくりとしていた。一歩ごとの間が長い。
宗次の足は、床を擦るように小刻みだった。これは、背の高い人の歩幅だ。
障子の前で、足音が止まった。月を背にした影が、紙の上に黒く立っていた。
「起きているか?」
影から届いた声は、低かった。
「はい」
絃羽は背を伸ばし、答えた。
すると、障子が細く開いた。桟に当てられていたのは、黒い袖の肘だった。
月の光を半身に受けた篝の顔は、夕日の下で見たときよりも、なお白い。唇も、相変わらず色が薄かった。
隙間から、篝の目が部屋の中を一巡りする。空の火鉢を過ぎ、壁際の包みを過ぎて、障子の際の夜具で止まった。
「……灯りはどうした?」
問われて、絃羽は顔を横へ向けた。
紙いっぱいに、月が白く溜まっている。
「ございません。ですが、障子から月が入りますので」
「は……?」
篝の口が、薄く開いたまま止まった。
彼の目が、また夜具の上へ落ちる。
「では、なぜ夜具を二枚重ねる?」
「明け方に一度起きて、型を繰り返せば、朝まで保ちますので」
膝の上で、指を一本ずつ折っていって答えた。
答えるのに、迷うところはなかった。手順なら、これまでの冬で十分わかっている。
そこで、篝の眉が僅かに寄った。
「型? 型とは何だ?」
「はい。四股と、腕立てでございます」
絃羽の肩が、心持ち上がる。こういった話なら、得意だ。
部屋の隅へ、篝の顔が向いた。火鉢のあるほうだった。
「いや、ここには火が……」
言いかけて、止まった。
続きが来ない。お言いつけの頭だけが、宙に残っていた。
「はい? 火、でございますか?」
居住まいを正して、絃羽は続きを待った。お言いつけなら、聞き漏らすわけにはいかない。
篝の喉が、ひとつ動いた。
「いや……なんでもない」
声は、さっきより一段低い。言いつけの半分は、宙に残ったままになった。
しばらく黙ったあと、篝がまた口を開いた。
「お前はなぜ、そこまで体を鍛える?」
自分の手へ、絃羽は目を落とした。月の白さの中で、指の付け根の胼胝が、小さな影を作っている。
「……冬に死なずに済んだのは、わたくしの心根ではございません。もちろん、根性でも」
もう一段、篝の声が沈んだ。
「では、何だ?」
答えなら、とうに申し上げてある。首を傾けて、絃羽は口元を綻ばせた。
「さっきお教えしたではありませんか、殿下」
「む? どういうことだ」
篝の眉が、ぴくりと動いた。
思い出していただけないらしい。絃羽は、少しだけ身を乗り出した。声が、ひとりでに弾む。
「筋肉でございますよっ、殿下」
篝の顎が、わずかに落ちた。
「は?」
蔵の外の方は、どうもこの話をすぐには分かってくださらない。背筋を伸ばし直し、篝をじっと見据えた。揃えた指に、自然と力が入る。
「心根や根性では、暖かくなりませんので。ですが、鍛えていれば、自然と暖まります」
言い終えて、小さく頷いた。十年かけて確かめたことだ。こればかりは、間違いはない。
「…………」
篝は、長いこと黙っていた。月を受けた側の頬が、少しも動かない。そして──。
「そういう、ことか」
殆ど息みたいな声だった。
それから、障子が音もなく閉じられた。紙の上の影が横へ滑って、離れていく。重い足音が、三つ、四つ。
そこで、止まった。
次の一歩は、いつまで耳を澄ませても聞こえてこなかった。
(殿下も、お休みになれればよいのですが)
二つに折った掛けものの中へ、絃羽は身体を滑り込ませた。膝を胸へ引き寄せると、足袋の先が、布団の端からはみ出した。
障子の紙には、月がまだ白く溜まっている。
蔵の夜は、閂の音で閉まるものだった。外から掛かる、あの乾いた音がして、それきり、朝まで誰の音もしない。
今夜は、まだ閉まっていなかった。
戸の外には、閂の代わりに、人がひとり立っていた。
まぶたのほうが、先に重くなってくる。蔵の時より、ずっと早い。足袋のおかげだろうか。
眠りに落ちるまで、廊下の足音は、止まったままだった。
障子が閉まると、明るい輪は宗次の足音と一緒に、廊下を遠ざかっていく。篝の足音は、聞こえなかった。いつ離れたのかも、分からない。
部屋から、灯りがなくなった。暗がりには、目より先に耳が馴染む。
絃羽はしばらく畳の上に立ったまま、じっとしていた。
やがて、障子がうすく白んでいるのに気付く。
(えっ……月!?)
桟の一枡一枡が、紙の向こうから淡く照らされていた。蔵の格子の、優に六つ分はある。
蔵で月を待つときは、格子の端へ頬を寄せなければならなかった。ここでは、どこに座っていても、月のほうから入ってくる。
待たずに済む月は、初めてだ。
部屋の隅の火鉢へ、膝を進めた。指を差し入れると、灰は乾いて、底まで冷えていた。炭は、ひとかけも残っていなかった。
炭の来ない冬には、覚えがある。困りごとの数には、入れなかった。
灰から指を抜いて、手のひらで軽く払う。
抱えてきた包みを壁際へ下ろすと、畳がわずかに沈んだ。
廊下を、小刻みな足音が戻ってきた。洋燈の輪が障子の紙を渡ってきて、敷居の前で止まる。板の上に何かを置く音がして、輪はまた遠ざかっていった。
(何でしょうか?)
障子を引くと、敷居の外に膳がひとつ置かれていた。飯と、汁と、香の物。月の明かりの中で、汁の椀から湯気が白く立っている。
(わたくしの食事、ですよね……?)
周囲を見渡してみるが、人の気配はない。状況から見て、絃羽のために用意されたと考えるのが自然だ。
とりあえず、膳を中へ引き入れた。汁の椀を両の掌で包み、持ち上げて、底を確かめる。掌に、温みが移ってきた。
(あったかい……)
手を合わせてから、飯をひと口含む。温かい飯は、十を数えるうちから、もう甘かった。それでも、二十まで数えてから飲み込んだ。
「ご馳走様でした」
空になった膳は、蔵でそうしてきたとおり、敷居の外へ滑らせて戻しておく。ほどなく、同じ足音がもう一度来て、引き取っていった。
押し入れの襖を開けると、夜具がひと組、畳まれていた。
敷くのは、部屋の真ん中ではない。障子の際の、壁に寄った隅。蔵では、格子の下がそうだった。月の入るところで眠れば、明け方の白みにも、すぐに目が覚めるからだ。
敷布団を延べて、掛けるものを二つに折り、厚みを倍にした。膝から肩までは、それで足りる。足の先ははみ出すが、そこは丸くなれば問題ないだろう。
足袋は、履いたままにしておいた。布一枚で、足の裏があれほど違うのだ。わざわざ脱ぐことはない。
夜具の上に膝を揃えたところで、廊下の板が鳴った。
足音だ。今度は、聞こえた。重く、ゆっくりとしていた。一歩ごとの間が長い。
宗次の足は、床を擦るように小刻みだった。これは、背の高い人の歩幅だ。
障子の前で、足音が止まった。月を背にした影が、紙の上に黒く立っていた。
「起きているか?」
影から届いた声は、低かった。
「はい」
絃羽は背を伸ばし、答えた。
すると、障子が細く開いた。桟に当てられていたのは、黒い袖の肘だった。
月の光を半身に受けた篝の顔は、夕日の下で見たときよりも、なお白い。唇も、相変わらず色が薄かった。
隙間から、篝の目が部屋の中を一巡りする。空の火鉢を過ぎ、壁際の包みを過ぎて、障子の際の夜具で止まった。
「……灯りはどうした?」
問われて、絃羽は顔を横へ向けた。
紙いっぱいに、月が白く溜まっている。
「ございません。ですが、障子から月が入りますので」
「は……?」
篝の口が、薄く開いたまま止まった。
彼の目が、また夜具の上へ落ちる。
「では、なぜ夜具を二枚重ねる?」
「明け方に一度起きて、型を繰り返せば、朝まで保ちますので」
膝の上で、指を一本ずつ折っていって答えた。
答えるのに、迷うところはなかった。手順なら、これまでの冬で十分わかっている。
そこで、篝の眉が僅かに寄った。
「型? 型とは何だ?」
「はい。四股と、腕立てでございます」
絃羽の肩が、心持ち上がる。こういった話なら、得意だ。
部屋の隅へ、篝の顔が向いた。火鉢のあるほうだった。
「いや、ここには火が……」
言いかけて、止まった。
続きが来ない。お言いつけの頭だけが、宙に残っていた。
「はい? 火、でございますか?」
居住まいを正して、絃羽は続きを待った。お言いつけなら、聞き漏らすわけにはいかない。
篝の喉が、ひとつ動いた。
「いや……なんでもない」
声は、さっきより一段低い。言いつけの半分は、宙に残ったままになった。
しばらく黙ったあと、篝がまた口を開いた。
「お前はなぜ、そこまで体を鍛える?」
自分の手へ、絃羽は目を落とした。月の白さの中で、指の付け根の胼胝が、小さな影を作っている。
「……冬に死なずに済んだのは、わたくしの心根ではございません。もちろん、根性でも」
もう一段、篝の声が沈んだ。
「では、何だ?」
答えなら、とうに申し上げてある。首を傾けて、絃羽は口元を綻ばせた。
「さっきお教えしたではありませんか、殿下」
「む? どういうことだ」
篝の眉が、ぴくりと動いた。
思い出していただけないらしい。絃羽は、少しだけ身を乗り出した。声が、ひとりでに弾む。
「筋肉でございますよっ、殿下」
篝の顎が、わずかに落ちた。
「は?」
蔵の外の方は、どうもこの話をすぐには分かってくださらない。背筋を伸ばし直し、篝をじっと見据えた。揃えた指に、自然と力が入る。
「心根や根性では、暖かくなりませんので。ですが、鍛えていれば、自然と暖まります」
言い終えて、小さく頷いた。十年かけて確かめたことだ。こればかりは、間違いはない。
「…………」
篝は、長いこと黙っていた。月を受けた側の頬が、少しも動かない。そして──。
「そういう、ことか」
殆ど息みたいな声だった。
それから、障子が音もなく閉じられた。紙の上の影が横へ滑って、離れていく。重い足音が、三つ、四つ。
そこで、止まった。
次の一歩は、いつまで耳を澄ませても聞こえてこなかった。
(殿下も、お休みになれればよいのですが)
二つに折った掛けものの中へ、絃羽は身体を滑り込ませた。膝を胸へ引き寄せると、足袋の先が、布団の端からはみ出した。
障子の紙には、月がまだ白く溜まっている。
蔵の夜は、閂の音で閉まるものだった。外から掛かる、あの乾いた音がして、それきり、朝まで誰の音もしない。
今夜は、まだ閉まっていなかった。
戸の外には、閂の代わりに、人がひとり立っていた。
まぶたのほうが、先に重くなってくる。蔵の時より、ずっと早い。足袋のおかげだろうか。
眠りに落ちるまで、廊下の足音は、止まったままだった。



