怒らずの花嫁 〜十年忘れられた無能な娘は、〝触れずの殿下〟に愛されました〜

 絃羽は敷居の手前で振り返り、梁の上の暗がりへ、小さく頭を下げた。

「……行って参ります」

 梁の上で、藁がひと擦れ動いた。
 聞こえたらしい。安心して、絃羽は敷居を跨いだ。
 外は、まだ夕日の中にあった。光がまともに顔へ当たって、瞼の裏まで白くなる。目を細めて俯くと、足元の土だけが赤く照っていた。
 開け放しておけば、夜のうちに獣が味噌樽を嗅ぎつけるかもしれない。振り返って、重い扉を両手で押し戻した。軋みが、蔵の高いところへ上っていく。
 脇の壁には、抜かれた閂が立て掛けてあった。樫の棒を両腕で抱え上げると、梁にぶら下がる身体ひとつより、いくらか軽い。そのまま受けへ落とした。
 木と木の噛み合う、低い音が響く。

(わあ。外から聞くのは初めてですね)

 十年、内側で聞いてきた音である。今日は、自分の腕がそれを鳴らした。何だかそれが、少し信じられない。
 少し離れたところに、篝が立っていた。黒い革の指が、握られて、また開く。
 篝は何も言わずに背を向けて、歩き出した。
 前を行く人の影を踏まない間を取って、絃羽はあとに続いた。朱の印の書付は、懐の奥へ収めてある。ほかに持つものは、何もなかった。
 踏み固められた土は、素足の裏へ直に冷えを寄越す。鍛えていても、冷たいものは冷たい。
 篝が一度、肩越しに振り返った。目は絃羽の顔を通り過ぎて、足元へ落ちた。それきり、前へ向き直る。
 そこから、先を行く歩みが遅くなった。影との間が、ひとりでに詰まってくる。歩幅を半分に刻んで、絃羽は影の手前で足を揃えた。

(やはり、殿下は足腰があまりお強くないのでしょうか……?)

 そんな感想を抱いてしまう。
 飛び石が現れ、生垣を過ぎると踏む先が砂利に変わった。
 石の角が、足の裏にひとつずつ分かる。
 母屋を回り込むと、車寄せに人が並んでいた。
 女中も下男も、揃って腰を折っている。列の先頭に父がいて、姉の銘仙の色が、そのすぐ後ろに覗いていた。下げた頭はどれも、篝の歩く先へ向いている。
 列の向こうには、黒い箱が停まっていた。

(大きい! これが自動車というものなんですね……!)

 挿絵で見たものより、ずっと大きかった。胴が夕日を鈍く返して、四つの車輪が砂利に沈んでいた。脇には、帽子を被った男がひとり控えている。運転手、というものだと見当がついた。
 篝は、列の前を足も止めずに過ぎていった。
 父の前で、絃羽は足を止めた。
 その顔は、篝の背のほうへ向いていた。鬢に、白いものが混じっている。十年前には、なかったものだ。
 揃えた指を帯の前に置いて、腰を折る。

「お父様。お世話になりました」

 父は、顔の向きを変えなかった。目をそちらへ置いたまま、口だけが動く。

「……殿下に、粗相のないようにな」

 十年のあいだに、父から掛けられた言葉は、これで二つになった。奇しくも、二つとも殆ど同じ言葉だ。
 もう一度頭を下げて、列の前を離れた。
 黒い箱の脇には、白髪の男も待っていた。紋付の肩が、夕風の中で硬く張っている。篝の供の方と見えた。当の本人は、その少し先で、箱の前のほうに立っている。
 絃羽が近づくと、供の方は一歩出て、両手を差し出した。

「お荷物を、お預かりいたします」

 その手は皺が深く、節がしっかりしていた。人の荷を、長く受け取ってきたのだろう。
 しかし、生憎と渡せるものがなかった。懐の書付は、宮の方に見せるものだ。荷ではない。

「ございません」

 両の手が、宙で止まった。

「……は?」

 聞こえなかったのだろうか。絃羽は、少しだけ声を張った。

「荷は、ございません」

 供の方の口が、二度開いて、二度とも閉じた。

「さ、左様でございますか」

 宙の手が行き場を探しながら、袖の中へ戻っていった。

(よかったです。お手を煩わせずに済みました)

 胸の内で、絃羽はそっと頷いた。
 そのとき、列の端が崩れた。
 前掛けの裾を掴んだ女中がひとり、砂利を蹴って駆けてくる。

「お嬢様!」

 声で、分かった。十年、小窓の向こうから届いてきた声だ。
 目の前で止まったたづを、絃羽は頭から足の先まで、初めて見た。襷の掛かった肩は薄く、髷には白いものが幾筋も走っていた。小窓の枠いっぱいに屈み込んでいた顔が、今は、見下ろすところにある。
 たづは、思っていたより小さかった。
 いつもの癖で膝を折りかけて、途中でやめる。ここには小窓がないのだった。

「まあ、たづさん! わざわざお見送りに来てくださったんですか?」

 答えの代わりに、たづは胸に抱えていたものを突き出した。風呂敷の包みだ。

「これを。これを、お持ちくださいまし」

 押しつけられた包みを、両腕で受けた。見た目より、ずしりと重い。
 抱えたそれを、どうしたものか分からなかった。膳のほかに、人から物を渡されたことはほとんどない。

「……よろしいのですか?」
「よろしゅうございます。どうぞ」

 たづは、首を振るより先に、包みの結び目を絃羽の腕へ押し戻した。

「ありがとうございます」

 包みを胸へ抱き直して、絃羽は頭を下げる。
 顔を上げると、たづの頬が濡れていた。沈みかけた日が、濡れたところだけを細く光らせている。昨日の夕と、同じだった。

「あら、たづさん。また、お顔が……」
「はい、はい」

 たづは袖口で頬を押さえて、何度も頷く。
 押さえた袖の下から、声がくぐもって続いた。

「存じております」

 その返事を終えたところで、運転手が黒い箱の後ろの扉を開けた。
 篝は、その前を素通りした。そのまま、前の座席のほうへ回り込んでいく。
 供の方が、慌てて一歩出た。

「殿下、お席が」

 振り返りもしない。運転手が開け直した前の扉の脇で、外套の裾だけが翻った。

「構わん。前でいい」

 前のお席のほうが、お好きなのだろう。殿方には、殿方のお好みがあるものだ。
 後ろの席には、供の方と並ぶことになった。先に乗り込んだその人が、奥へ詰めて場所を空けてくれる。

(これ……どうやって座るものなのでしょうか?)

 包みを膝に載せて、とりあえず背をぴんと伸ばしてみる。
 腰の下で、座面がやわらかく沈んだ。鼻先に、なめした革の匂いが立ちのぼってきた。
 運転手が乗り込んで、足元を踏み込んだ。腹の底へ響く唸りが起こって、座面が細かく震え出す。包みに添えた指の先まで、それが伝わってきた。
 聞き覚えのある音だった。

「……今朝の唸りは、こちらでございましたか」

 篝の後ろ頭が、僅かに傾いた。

「聞こえていたのか?」
「はい。蔵まで」

 絃羽がそちらへ頷くと、黒い箱がゆっくりと動き出した。
 揺れが、腰の下から来る。背を伸ばしたまま、絃羽はそのほうへ身体を預けた。膝で受ければ、揺れは腰までで消える。型と、同じ要領だ。
 門を出る角で箱が大きく傾いたとき、扉の脇に下がった革の輪にすがったのは、隣の供の方だった。
 門の外で、道が広くなっていた。屋根の向こうで、空の朱が薄れていく。
 ここには、格子がない。床に落ちる筋がないから、刻が読めなかった。

「今は、何刻でございましょう?」

 前の席で、小さく蓋の開く音がした。

「五時だ」

 閉じる音が続いて、それきりだった。懐中時計、というもののようだ。本では、蓋の内側に数字が円く並んでいた。

「……暮れ六つでございますね」

 馴染みの呼び名へ直して、絃羽は頷いた。
 やがて、道の両脇に灯りが並びはじめた。
 硝子の球の中で、白い光が燃えずに点っている。行灯とも、蝋燭とも違った。風が吹いても、揺れない光だった。
 道の真ん中を、箱がひとつ、鈴を鳴らしながら滑ってくる。頭の上に張られた線から、青い火花がぱちりと散った。窓の外を、洋装の人が帽子を押さえて過ぎていく。
 どれも、本で読んだとおりだった。本のとおりで、本より、ずっと明るい。

「市電に乗ったことは?」

 前を向いたまま、篝が訊いてきた。
 遠ざかる鈴の音を、耳で追う。

「ございません」

 背もたれの向こうから、短い問いが重なった。

「電灯は?」

 窓の外を流れていく白い球へ、目を戻す。

「お屋敷の母屋には点いておりました」

 夜、格子の端へ頬を寄せると、生垣の上に、母屋の灯りが小さく覗いた。指一本で隠せるほどの、白い粒だった。

「たまに……遠くから、見ていました」

 前の席が、ひと呼吸ぶん静かになった。

「蔵にはなかったのか?」
「はい。ですが、格子から月が入りますので」

 膝の上の包みに手を置いて、絃羽は頷いた。
 篝の後ろ頭が、そのまま動かなくなった。

「…………」

 返事は、それきりだった。座席の背越しには、外套の肩しか見えない。その肩が、少しも動かなかった。

(お疲れなのですね)

 無理もない。朝から、あんな奥の蔵まで出向いてくださったのだ。
 包みを抱き直すと、窓の外でまた鈴が鳴った。硝子のほうへ、顔を向ける。

「殿下。市電は、線の上を走るのでございますね!」

 前の席から、短い返事が返った。

「そうだ」

 曇りかけた硝子を、絃羽は指の背でそっと拭った。

「本のとおりでございます!」

 初めて見るものばかりなせいか、どうにも高揚が抑えきれない。粗相になっていなければいいのだが、と思いつつ、気持ちだけはどうしようもできなかった。
 黒い箱は電灯の列を抜けて、また暗い道へ入っていった。

       *

 氷室宮の門は、夜の底に黒く建っていた。
 門をくぐってからも、箱はしばらく走り続けた。窓の外の暗がりを、塀と木立が途切れずに流れていく。
 蔵をひとつずつ並べる心積もりで、絃羽は敷地の広さを測った。十まで並べても、箱はまだ止まらない。十五で、数えるのをやめた。
 ようやく箱が止まったのは、大きな屋根の下だった。車寄せの軒に、電灯がひとつ点っている。
 遠くから見ていたものが、頭の上にあった。
 思わず目を細める。
 供の方が先に降りて、絃羽の側の扉を開けてくれた。篝はもう、玄関の内へ入っている。式台の奥では、女中がふたり手をついていた。
 包みを抱えて降りると、敷石が素足にひやりとした。空になった黒い箱を、運転手が車廻しの奥へ回していく。
 宮の方に見せろ、と言われていた。懐から書付を出して、絃羽は供の方へ差し出した。

「殿下より、宮の方にお見せするよう、申しつかっております」

 供の方は、両手で書付を受けた。朱の印を確かめ、それから絃羽の顔と足元とを、一度ずつあらためる。

「……たしかに、お預かりいたします」

 書付を懐へ収めると、式台の女中を呼んで、低い声で言いつけた。女中が奥へ下がり、ほどなく乱れ箱を捧げて戻ってくる。畳まれた着物の上に、白い足袋がひと揃い載っていた。
 式台の上では、篝がこちらへ背を向けたまま立っている。
 乱れ箱を示して、供の方が小腰をかがめた。

「では、こちらをお召しくださいまし」

 絃羽は、目を瞬いた。

「……? いえ。召し物など、頂戴するわけには参りません」

 宮の着物は、宮のものだ。
 そのはずなのだが、供の方の口が閉じたまま固まってしまった。

「…………」

 しばらくして、皺の深い手が、乱れ箱の縁へ添え直された。

「……お仕事の、装いでございます」

 お仕事の。
 絃羽の指が、帯の前でぱっとほどけた。

「まあ。では、頂戴いたしますね!」

 絃羽が乱れ箱を受け取ると、供の方は背筋を伸ばし直した。それから、こちらへ向けて深く腰を折る。

「当家の家令、宗次と申します」

 包みと乱れ箱を抱えたまま、絃羽も頭を下げ返した。

(宗次さん。覚えました)

 口の中で、一度だけ繰り返す。
 記憶力には、自信がある方だ。そもそも、知っている顔が少ないので、どうしても覚えてしまうのだが。
 女中の案内で、玄関脇の小部屋に通された。帯くらいは、自分で締められる。手を貸そうという申し出を丁寧に断って、障子の外で待ってもらった。
 包みは、壁際へ寄せて置いた。脱いだ袷は角を揃えて畳み、空いた乱れ箱へ収める。
 召し物を汚さぬよう身を清めてから、与えられた銘仙に袖を通した。木綿よりずっと軽くて暖かい。
 最後に、足袋を履いた。足の裏と床のあいだに、布が一枚、挟まった。

(え!? 冷たくありません……!)

 歩いてみても、冷えが足の裏まで上がってこない。こんなものがあったことを、すっかりと忘れていた。
 包みを抱え直して障子を開けると、廊下に篝が立っていた。その後ろで、宗次が洋燈を提げている。女中が袷の収まった乱れ箱を引き取って、玄関のほうへ下がっていった。
 奥へ続く廊下は、長かった。
 はじめのうちは、天井に電灯が点っていた。角をふたつ曲がると、それも途切れる。あとは宗次の洋燈の輪だけが、板の上を先へ進んでいった。篝はその輪の少し先を、足音も立てずに歩いていく。
 突き当たりに、重そうな引き戸があった。
 篝が、戸の前へ出た。引き手には指を掛けず、左の肩を戸の縁へ寄せていく。
 肩で押し開けるおつもりらしい。お疲れの方に、重い戸を押させるわけにはいかない。
 包みを左の腕へ抱え直して、絃羽は右の手を引き手へ伸ばした。

「そちらは、重うございますので」

 後ろから宗次の声が掛かったが、そのときにはもう、指は引き手の窪みへ届いていた。
 届く手前で、指先が革ではないものを掠めた。戸の縁へ添えられた、篝の左の手首だ。黒い革の口と、袖口のあいだ。そこにだけ、肌が覗いていた。

(冷たい……?)

 彼の肌は、蔵の朝の指の付け根と同じ冷たさをしていた。
 指は、そのまま窪みに掛かった。軽く引くと、戸は敷居の上を、すうっと滑った。

「え? ……開きましたよ?」

 後ろで、洋燈の輪が大きく揺れた。

「へ?」

 宗次の声が、裏返っている。そんなに変なことをしたのだろうか?
 振り向くと、篝が止まっていた。戸の縁から離した左の手を、胸の高さに浮かせたまま、その手首へ目を落としている。
 やがて、その足が半歩、下がった。
 宗次の息を呑む音が続く。

(あっ……出過ぎた真似をしてしまいました!)

 篝が開けようとしていた戸を、横から取ってしまったのだ。宗次が驚いたのは、重い戸があっさり開いたからだろう。
 包みを抱えたまま、絃羽は深く頭を下げた。

「し、失礼いたしました」
「……いや」

 篝の声は、頭の上から短く降ってきた。
 洋燈を提げ直して、宗次が篝の背へ問う。

「殿下。奥の棟に、お入れするのでございますか?」
「書庫の隣だ」

 篝は振り返らずに答えた。
 宗次の返事が、ひと呼吸遅れる。

「……左様でございますか」

 奥の棟、というのが、このあたりの呼び名らしい。書庫の隣なら、お仕事にも都合がよかった。
 戸の向こうに、もう一本、短い廊下が延びていた。篝はその半ばで立ち止まり、障子の桟へ肘を当てて引き開けた。

「ここを使え」

 宗次が、洋燈を部屋の内へ差し入れた。
 中は、畳が敷かれていた。四方は壁と障子で、格子はどこにもない。風の抜ける隙間が、ひとつもなかった。
 絃羽は、小さく息を吸った。

「はい。……まあ!」

 感嘆の声が、思わず漏れる。
 廊下から、低い声が返ってきた。

「何だ?」

 畳の上へ、一歩入る。
 頬に当たる空気が、じっと動かない。

「ここは……暖こうございますね」
「……? いや、ここは冷えるぞ」

 篝からの返答は、少し間を置いてから来た。
 絃羽は振り返って、首を横に振る。

「いいえ。とっても暖こうございますっ」

 間違いなく、ここは暖かい。自分が過ごしてきたあの蔵よりも、ずっと。

「…………」

 篝は外套の前を掻き合わせたまま、敷居の外を動かなかった。
 洋燈の輪が、畳の上を奥まで渡っていく。
 部屋の隅には、火鉢まであった。